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美しい星 三島由紀夫

Reading at Home vol.7は三島由紀夫の『美しい星』です。三島由紀夫の本の紹介は『潮騒』につづいて二冊目になりますが、この二冊の特徴はいずれも三島文学の中においてやや特殊なものであるということではないかと思います。潮騒については三島にしては珍しく青春讃歌の物語であるとその特異性について伝えやすいのに対して、『美しい星』についてはどう特殊なのかということをお伝えするのも難しい性質の本になります。なぜといってこれが書かれた当時に世界が対峙していた核兵器への脅威とその脅威に対して鈍感になっていく人間の存在を批判的に描く(ここまでは多くの小説家がモチーフとしたはず)ことを、SF的な手法を用いて小説化したということではないでしょうか。

三島由紀夫の本は随分前に何冊か読んでいて、美しい星も2回目です。この後も何冊か読む予定にしているのですが、三島文学は私にとって読書の腕前を測るためのモノサシとして位置付けているところもあります。彼の文章を十分に理解しているかどうかは自身では判断できないものの、文意を捉えてそれなりのスピードで読むことができるかどうかや、彼が表現したいことの一端でも感じることができるようになったかどうか、普通に三島の文章を美しいと感じることができるかどうかなどにつていなんとなく測っているわけです。
美しい星についてはタイトルのポップな感じとはうらはらになかなか手強く、自分の読書の腕前の未熟さについて痛感させられました。とにかく読むのに時間がかかりました。この小説が発表当時に『新潮』にて一年近く連載されていてかなり多くの読者がいたということに、かつての日本人の言葉に対するスキルと感度の高さを思い知らされたりもします。

さて、物語の設定としては主人公の大杉重一郎を含めた4人の家族はそれぞれ太陽系の惑星からやってきた宇宙人ということになっています。火星人の家族ということではなく、火星人に木星人、水星に金星と全員が別々の星からやってきた家族という設定なのです。何星人といえば占いを思い出す人もいるかもしれませんが、それと同様にそれぞれの人物の性格が惑星の特性と重ねられています。同じ使命を共有する共同体の家族でありつつも、「父は火星人だからわからないんだ」というように家族内における相互不理解(これはどの家にでもある)を宇宙人のそれのせいにしてしまうところなど、ほかでは見当たらないような面白い家族となっています。

重一郎の家族が抱く共通の使命は『地球人の救済』です。核兵器というまさに世界を終わらせることができる兵器が核実験を重ねながら配備されている世界状況の中で、その兵器を無効化するとか核保有国のリーダーを挿げ替えるという方法ではなく、世界の人々が日常の生ににしがみつく中でその脅威を忘れてしまっていくことから目を覚まさせて、仮に人類が滅びるとしてもそれを受け入れることができるような精神の持ちようを人類に伝えたいという意思で様々な行動を起こしていきます。家族は全員宇宙人という設定になっているのには二つの側面があって、ひとつは人類滅亡というテーマを三島流のSFに仕立てるための舞台設定の一つですが、もうひとつは現代でも変わった思考の持ち主や理解し難い行動原理の持ち主に対して“彼は宇宙人”だと称して変人扱いするときの宇宙人のような人物の集まりが重一郎の家族ということになっています。

大杉“宇宙人”家族は4人ですが、本物の“宇宙人”は父の重一郎(火星人)と娘の暁子(金星人)であるでしょう。この二人は自分が宇宙人として生きるにあたって孤高のプライドと強烈な疎外感を携えて生きているのですが、母の伊余子(木星人)は重一郎に影響されてそう思い込んでいるだけの普通の人であるし、息子の一雄(水星)は自分が宇宙人であることに幼稚な優越感を持つだけの鼻持ちならない若者にすぎません。金星と火星は地球を挟む惑星であり中学校の理科でもその見え方について学習するなど天体にその存在を見出すことが比較的容易であることから、地球を救済する存在(火星人)と救済よりも美を重んじる(金星人)二人以外は何星人でも良かったのかもしれないとおもいます。

大杉家族はこのように宇宙人度合いはいろいろと差があるのですが、それでも地球人を救済するために協力して活動をしていきます。そのために「宇宙友朋会」を運営していきます。地球外生命体が地球を侵略するのではなく、地球外生命体のぞんざいによって地球人を救う。しかも精神の救済を通じてという行動がまさに宇宙人のなせる技と言えます。この小説が描かれた当時はUFOの存在が社会の注目を浴びていたことや、三島自身がその存在に関心があったこともあって小説の中の宇宙友朋会はなかなか盛況に人を集め救済活動が進められていきます。

もう一人の純粋宇宙人の暁子(金星人)は純粋であるが故に金沢に住む竹宮という男にたぶらかされてしまうことになるのですが、“金”星人の暁子が“金”沢に来ることやUFOのまちである羽咋市の近くで落ち合ってUFOを見るところなど。石川県民にとっては心くすぐられるエピソードだとおもいます。どこまでも金星人の暁子は竹宮に騙されたことを金星人的解釈でどこまでも美しく認識しようとし、もう一人の純粋火星人の重一郎が苦悩しながらも暁子の世界を壊さないように支えていく様は親子愛の物語でもありました。

大杉家族の地球救済への取り組みとその失敗の物語なのかと読み進んでいくと、もう一つの宇宙人勢力が現れます。彼らは太陽系惑星ではなく遠く白鳥座六十一番星(どこかは私にはわからんのですが、、、)からやってきたという羽黒教授という純粋宇宙人とその影響を受けたエセ宇宙人の取り巻き二人です。彼らは人類など救済に値しないから、自分たちが滅亡させるべきだと主張して重一郎と対決することになります。この壮大な対決が大杉家の客間でなされるというギャップが面白いのですが、そこでの議論がこの小説の見どころの一つです。三島由紀夫が偽善が人間の本質であると見抜きどうしようもない虚無感を抱きつつ、自身もまた人間でありその存在を愛そうとする葛藤のようなものが現れているのではないかとおもいます。

羽黒教授は人類は滅亡すべしと主張する根拠として人間の欠陥としてあげる3つの関心(ゾルゲ)が「事物への関心」「人間に対する関心」「神への関心」です。それに対して重一郎は人間は不完全で気まぐれだからこそ希望があるのだと主張しその根拠として人間の5つの特性を上げるのです。これを読めば二者の対立の間で自分の人間観を揺さぶられるに違いないでしょう。

今日、新型コロナという人類への脅威にさらされている中で、我々がこの状況を捉えどう対応するかについて不確実な選択を迫られて正解のない議論の空中戦が続いています。核の脅威がその兵器の性能の飛躍的向上と兵器の拡散によってそれによる世界の破滅という脅威が薄れてしまっていた昨日までは、今そこにある危機を感じながらこの小説を読むことは困難でした。しかし、今はそうではなくなってしまったのです。人類は新型コロナで滅びてしまえばいいという人はいないとおもいますが、少なくとも個人や社会が“死”を受け入れるにあたっての曖昧なまま生命尊重だけを語っていれば救済されるということではないことが明らかになってしまいました。

こうした危機をテクノロジーで乗り切るための方法論を追求することも重要ですが、進化したからこそ受け入れることができなくなってしまう弱さもあること。つまり進歩や進化は安易には訪れず、人間は救済を求めたとたんに自分が救済されるに値する存在かどうかについて疑問が湧いてしまうという困難を抱えていると改めて感じさせてくれる一冊となりました。

最後の最後に大杉家族の前にもう一度UFOが出現します。これが破滅なのか救済なのかは描かれていませんが、私は救われた気がしました。

長くて取り止めのない感想を最後まで読んでいただきありがとうございました。
この本は現代版で映画化されているので、そちらを観てから読むのがおすすめです。私はこれから映画をみようと思います。

本はこちらです。


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