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This is Japan ブレイディみかこ

なぜこの本を買ったのか、それは表紙の男の子が私に「これを読め!」という熱い視線を送ってくれていたから。

というわけで、今日ご紹介する本は昭和なテイストにも見えるし令和な感じもする表紙の写真が印象的な「This is Japan」です。ブレイディみかこという人は名前は聞いたことがあるもののどんな人となりなのかも、どんな主義主張をお持ちなのかも知らずに読んだ。万人受けするような内容ではありませんが、なかなか興味深い内容だったと思う。

サブタイトルが「英国保育士が見た日本」となっており、前半は日本の姿を保育園をはじめとした幼児教育における日英の違いなどを通じて描き出すという内容だ。彼女自身の経験がそうさせるのだろうか、リベラルな切り口と『ブロークン・ジャパン』というなかなか私たちが受け入れがたいキーワードで日本の状況を観察しているところが印象的であった。もっともブロークンなのは日本だけではなく、EU離脱という一種過激な選択をしたイギリスもまた緊縮財政によりブロークン・ブリテンな状態であるとの認識ももっており、よくある”外国から見ると日本ダメだよね”っていう偏った見方による日本論ではない。

保育園をめぐる環境の違いから日英の違いを見るというのは、幼児教育における差異だけを論じるということではない。ここで私が印象的だった論点を三つ上げておく。

労働問題と子育ての問題は繋がっている

イギリスで最初の保育園を作ったマーガレット・マクミランの主張が紹介されている。「労働者の権利を守るなら、彼らの子どもたちの権利も守らなければならない。労働者の働く環境を向上させてその尊厳を求めるなら、彼らの子どもたちが遊ぶ環境や学びのきかいを保証し、その尊厳を守るらなければならない。したがって労働問題と保育は分離して考えることができない。」と、彼女は主張し続けたそうだ。労働と保育の問題は手に手を取って前進するし、両社が同時に後退することもありうるということだ。
この指摘は私たち日本人には耳が痛い。今回の新型コロナの対策として学校が休校になったにもかかわらず、保育園や学童保育が休校にならなかったのは子育てよりも仕事を優先せざるを得ない日本社会の課題を浮き彫りにしている。子どもを育てることが働くことにとって大きな阻害要因となる社会に明るい未来はないだろう。

日本ではマクロとミクロが連動してない

ミクロとマクロが連動していないという状況を示す例として「ソーシャルワーカー」の役割を挙げている。日本の場合は福祉分野において課題を抱えている高齢者や障碍者に対して、その状況に応じた福祉サービスを利用できるようにサポートすることがその役割の大部分であると著者は指摘する。しかし、現実には様々な制度を利用しても、当事者の厳しさや辛さを根本的には解決できない。そもそもそういう状況に陥らないようにするためのマクロな政策を動かしていくことこそソーシャルワークであるべきだと同時に述べている。
これは保育士や教員も同じなのかもしれないが、日本ではその資格を取るためにどうしても指導方法についてのノウハウを身に着けることを重視する傾向があるのかもしれない。名瀬私がそう感じるかというと、様々な支援策や教育システムの背後にあるフレームワークや根拠となる法律が成立した経緯などについての議論を現場で働く人から聞くことは少ないからだ。また、その分野に進むために大学進学する卒塾生からもそのたぐいの学びの話はあまり聞かない。ただ、個人的にはソーシャルワーカーとして働いている私の知り合いの少なくない割合の人たちは、その矛盾に気づいているものの現場でのマンパワー不足等の問題でマクロへのアプローチをしている余裕はないように見受けられる。この分野についての哲学が不足しているために支援を受ける側もサポートする側も不幸な思いをしているとしたら本当に残念なことだ。
本来こうした分野でのミクロな動向について想像力を働かせてマクロを動かすべき政治家においては、新型コロナ対策を見ている限り十分な想像力が備わっているとは考え難い。またオピニオンをリードするべきマスメディアもワイドショーと報道番組の垣根が壊れてしまって、こうした声なき声をワイドにして広めるという社会的役割など求めるのも詮無い状況だ。彼らには不必要な不安をワイドにあおることしかできないようだ。

レイバー(Labour)のための政治がない

レイバーとは労働者のことだが、この言葉の意味はオックスフォード・ユニバーシティ・プレスの辞書サイトによれば
1.労働、特に肉体労働
2.労働者たち、とくにマニュアルワークの労働者たち、その集合体を指す
という記述がある。ここまでは日本語の意味と同じだがさらに
3.一つの社会的階級、または一つの政治勢力とみなされている勤労者たち
という意味もある。これは3はおそらく日本人にはなじみがないだろう。いうまでもなくイギリスは階級社会である。労働組合というと最近はあまりいい印象がないかもしれないが、イギリスでは労働運動は日本のような特定の会社(自分の働いている会社)の雇用環境が良くなればそれで終わりとか、自分の業界の働き方を改善して良しとするといったものではない。常に社会全体における労働者の地位向上を求め、平等な世の中を作ろうというマクロな社会変革を志向している。
1900年代初頭にできた労働党がそのシンボル的存在であり、「ゆりかごから墓場まで」という福祉政策を構築してきた。昨今の新自由主義の波に押されてイギリスでも労働組合の加入率は低下し、労働党もかつてよりは緊縮的な政策をとるようになってはいるものの、労働党が二大政党の一翼を担っているイギリスの労働問題への取り組みは歴史が深い。
労働党の基本路線である社会民主主義は日本においてそのイデオロギーを冠する元気のない政党は確かに存在する。しかしながら狭隘なイデオロギーに縛られていることや、すでに書いたように本来子育てと労働をリンクさせるような国民の暮らしを支えるための政治を行うべき政治が(それが大事ではないとは言わないが)憲法や国際政治などで原理主義的な態度をとり続けてきたために、労働者の期待を背負うことができる状態ではない。労働組合が支援しているのは別の政党のようであるが、ここにおいても結局憲法問題等でのねじれのために本当に必要な政治を手を取って進めていこうというようには見えない。

左翼に傾倒しなかった人はもろい

こんなことを書くと、右寄りのひとから批判されそうだがこれは私の言葉ではなく、幻冬舎の見城徹氏の言葉である。彼の著書である「読書という荒野」(私のマガジン読書という海原はこれの真似です)に出てくる言葉であるが、そこで見城徹氏は『読書体験を重ねた人は、必然的に一度は左翼思想に傾倒すると僕は考える。人間や社会に対する理想が純化され、現実が汚れて見えて仕方がなくなるからだ。』と述べる。そしておおむね次のように続ける。現実は矛盾に満ちていて理想主義にはつらい世界であり、理想だけでは世の中は動かない。しかし理想と現実の両極を揺れ動くからこそ一段高いところに上ることができる。だから読書経験を通じて左翼主義的な理想に主義に一度も傾倒したことがない人を信用できない。人間としての厚みがない、とまで言い切る。
私にはここまで言い切る勇気はないが、それでも言いたいことはよくわかるつもりだ。理想なき現実路線はただのご都合主義にすぎないからだ。

Don't worry, Be happy

西部邁の影響もあって、私はイギリスの保守主義についてずっと関心を持ってきた。イギリスは今もなお日本が手本とすべき要素を多く持っていると私は感じている。ただ、自分が関心を持っている保守的な構えを具体的な状況や課題にたいして、イギリス社会がどのようにそれを当てはめているかの実情について具体的に見聞きする機会は多くはない。その意味でこの本は日英の違いを通じて(保育園の運営や教育について決して日本がだめだとばかり書いているわけではない)、日本の今を浮き彫りにしているいい本だと感じた。

人権と声高に叫べばすぐに左翼のレッテルを張ろうとする人がいる。
レッテルを張るのもよくないが、叫ぶ人がミクロとマクロを媒介するような言葉を紡いでいない方にも問題があるのは間違いない。

人権とは「Don't worry, Be happy」という歌詞にあるように、「心配するな幸せになれるよ」というメッセージがいかなる時も人々に届いていることを目指しているとブレイディみかこは書いているが。ほんとうにこれに尽きる。
私も自分の周りの人がそう感じることができるような仕事をしていきたいとあらためて思った次第である。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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