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ローカリズム宣言 内田 樹

地方への移住を志向する若者が増えているというのは私自身も肌感覚としてではあるが感じている。大学進学した卒塾生から就職についての相談を受けることがあるが、相談内容もこの10年ほどの間にずいぶんと変わってきた。かつてのように就職活動においてどうしたら自分の希望する会社に入ることができるだろうかというような問いではなく、『働くこと』『学ぶこと』『人と関わること』などについて根源的というか哲学的というかそんな質問を受けることが最近は少なくない。
相談を受けるこちらにも十分な知識や経験がないので、対話しながら一緒に考えていくことになるが確実に言えることは、彼らはカネを稼ぐ手段としての労働を重要視しているわけではないということだ。以前は私もそんな彼ら彼女らを観て「欲がないんだな」とか「エネルギッシュでないな」などと感じていた。そして時代の虚無な空気がこんなところに現れるもんなのかと漠然と考えたりもしていた。
一方でこうした新しい傾向は何かの可能性を秘めているという気もしていた。なぜなら『若さ』と『可能性』は同じ意味だといっていいからだ。彼らの変化は私たちが経済活動を前提として疑わない資本主義、厳密に言えば新自由主義的なグローバル経済システムの先にあるものを暗示しているように感じてもいたのだ。

今回この本を読んで。そのことが確信に変わった。

地方を志向する若者たちには聞こえているのだ。私たちの耳には聞こえないアラートが。
滑稽なことであるがそのアラートを最も強く発しているのはもうすでに若者ではなくなってしまった我々の世代(団塊ジュニア、ロストジェネレーション)であろう。地方を志向する若者の中心的な世代である20代から30代前半から見たときに親よりも若く兄弟よりもやや先輩な私たち40代から50代の世代である。
なぜ滑稽かといえば、『グローバリズム』『生産性向上』『イノベーション』といった様々なお題目を掲げて経済成長を目指している私たちの世代が、そのお題目通りに事が進めば進むほど格差が増大し豊かさを失っていくというジレンマのなかにあって、すでにそのことが極点に達しつつあるにもかかわらず、そこから目を背けて極点のさらにその先へ集団で進もうとしているからである。つまり私たちは自分たちが発している悲鳴に耳をふさいでいるということなのだ。出演者全員が裸の王様を演じている壮大な悲劇であり喜劇でもある。
ブレイディみかこが「This is Japan」で指摘しているように日本人は目の前にある見たくないものを、まるでないもののように意識の外に置くことが得意なのである。もう自分が裸の王様であるということすら意識できなくなっている。

若者たちは(無意識的にかもしれないが)、時代錯誤な感覚しか持ち合わせていないのに指導的立場を譲らないオールド世代にも、自分たちはオールド世代とは違うと主張しつつ豊かさを求めて資本主義を純化することでそれとは反対の結果を生み出している(私を含めた)ミドル世代にも見切りをつけている。
未来のために遺産を残すべき先輩たちが、この国が蓄積してきた資産を食いつぶしてしまって、もはや自分たちが生きている間さえなんとかなればいいと開き直っている様を冷静に見ているということだ。

しかし、この国にも残された資産がある。著者が指摘するようにそれが「山河」なのだ。言い換えれば里山里海ということになろうか。当然のこととしてこれは地方にしか存在しない。もっと言えば行き過ぎた資本主義や市場の外側にしか存在しえない。
山河であれ里山里海であれ、なぜこれが行き過ぎた資本主義の外側に存在するかといえば、著者の言葉を借りれば、山や海(※海は私が付け加えた)の生命力を維持するための活動が賃労働ではないからだ。こうした活動が維持されているのは、その土地に祭礼や儀礼などに代表される伝統的慣習が残っているからである。したがって、山河が保たれていることは、端的に言ってその土地には伝統を守ろうとする”いい人”が少なからず暮らしていることの証明であるといえる。少なくともその可能性は高い。
かつては”いい人”はあくまで域内における”いい人”であって、田舎は閉鎖的なムラ社会であった。しかしそこで営まれる農業には人手が必要でありムラから人が失われていく流れの中でムラはよそ者を歓迎するようになってきた。こうした開放的な田舎(地方)で農業に携わるということは、行き過ぎた資本主義と距離をとって山河という未来への資産を守る役割を果たすことができる場所なのだ。
アラートを聞き取った若者が地方を目指すのはこうした理由によるものだと私もまた考える。

こうして考えると私たち地方に住む彼らの先輩世代の役割も見えてくるというものだ。山河を残すために地方で暮らす作法(祭礼や地域行事への参加、住民の連帯維持など)を私たちがないがしろにしていないか再検討する必要がある。少なくともこれを大切にしようという構えがずいぶん前からなくなってしまっていることと地方の衰退現象や里山の荒廃には高い相関があるはずだ。
これはかつての閉鎖的な田舎に戻るということではない。開放的でかつ連帯の強い地域づくりというチャレンジなのだと考えられる。こうした文脈でなら最近はやりの”関係人口”にも意味があるだろう。
アラートを聞き分ける高い聴覚を持った若者は、当然のこととして高度なアンテナとネットワークを有している。こうした若者にとって魅力のある地域には今後人が集まってくるはずだ(数値化された住みやすさランキングを見て移住する人の獲得競争はおそらく長期的には破綻する)。これこそが地方創生のあるべき姿である。

誰もが朗らかな気持ちで日々を送りたいと思っているはずだ。しかし今の日本を覆うムードは朗らかさとは対極にある。これは新型コロナの影響ではなくそれ以前から色濃くこの国を覆っている。
その理由は方向性が間違っているために「成長を目指して進めば進むほど停滞する」という社会システムが原因なのかもしれない。

私たちにいま必要なのは「定常を志向することによって結果として成長してしまう」という新しい社会システムである。

そしてそのことを「ローカリズム宣言」は高らかにうたっている。

なお、この本は政治経済やマスメディアなどの分野で今起きていることについて著者の批評も少なからず書かれているが、その切り口も大変面白い。文体も比較的平易で読みやすいので、私としてはかなりおススメの一冊であるし。地方の若手政治家の方々にとっては必読の書ともいえるのではないかと思う。ぜひ手に取ってほしい。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
次回もお楽しみに~


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