1. 小アジの唐揚げ

 蒸し暑い雨上がりの夕方、ラッシュ時の駅の人混みから一人の男が抜け出した。クーラーボックスを肩から下げた男は駅の階段を降りると、しばらく大通りに沿って歩いてから路地に入り、水たまりと路上駐車の車両を軽快な足取りで避けながらさらに進んでいった。男の名は飯田カズオという。農林水産省に勤務する国家公務員である。
 飯田が向かったのは、狭いY字路に面した、4階建ての、ネオクラシック風のビルである。建物の前まで来た時、飯田はビルの一階に入居する料理店のシェフに会った。
「こんばんは。今開店ですか」
「ちょうど今からです。飯田君も、お仕事お疲れ様」
「近いうちに新メニューを食べに行きますよ」
シェフは、店のドア脇のボードを書き終えて、店内に戻っていった。
 このビルは、1階が店舗と倉庫、2階以上が住居およびオフィスとなっている。入口は黒い鉄格子のゲートだが、セキュリティは現代的なオートロックである。飯田は、鍵やカードを取り出す訳でもなく、ゲートの横に埋め込まれた呼び出し用のキー複雑に操作し始めた。数秒後、カチッという音とともに、ゲートではなく、ビルの端の小さな扉が開錠された。
 扉の先は中庭へと抜ける通路になっていて、中庭側の出口は外階段に直結している。飯田は、屋根まで続く鉄製の外階段を頂上まで上り、屋根から張り出した扉を開けてロフトに入った。この時、彼は初めて鍵をカバンから取り出した。
「ただいま」
 ロフトは広さこそないものの、トイレ、シャワールーム、キッチンを備えた生活空間となっている。斜めの天井に取り付けられた出窓から、夕暮れ時の、紫色を帯びた微かな光が差し込み、室内のテーブルやカップボードを浮かび上がらせていた。飯田は、ダイニングキッチンの奥の右側の部屋を覗いた。 
「なんだたま子、いたのか」
部屋のデスクでパソコン作業をしていた一人の女性が、振り返って飯田を見たのち、また画面に視線を戻した。
「私の管理物件よ。いちゃあ悪い?」
「電気くらいつけろよな」
彼女は手元の卓上灯のスイッチを入れた。
 鳥山玉子は、大手不動産会社の社長令嬢にして父の会社の社員でもあり、このロフトをリモートワークの作業場に利用していた。当然、このビルは彼女の父の会社が所有する物件である。
 飯田は玉子の仕事場を出て、ダイニングキッチンの電灯を点けた。キッチンは大きくはないが綺麗に整えられていて、コンロの上にはよく手入れされた鉄鍋が置かれている。ジャケットをハンガーに掛け、石鹸で手を洗ってから、キッチン下の引き出しからバットを取り出し、正方形の小さなダイニングテーブルの上に置いた。次に、先ほどから肩にかけていたクーラーボックスを開いた。中には新鮮な小アジが詰め込まれていた。飯田はバットに小アジを移し、ダイニングチェアに座って、小アジのわたを指で取り除き始めた。
 わたを全て取り終えた頃に、玉子が部屋から出てきた。デスクワークによる目の疲れからか、メガネを持ち上げて瞼を手で押さえている。
「今日は何?」
「小アジの唐揚げ」
玉子が椅子に着くと同時に飯田は席を立ち、キッチンに向かった。
 タレの材料であるにんにく、しょうがはみじん切り、飾り付けのねぎは細切りの白髪ねぎにし、付け合わせのトマト、レタス、水菜も洗って切っておく。鉄鍋にたっぷりの油を注いで加熱する。片栗粉を少々投下して、シュワーと揚がれば適温だ。わたを取り除いた小アジに片栗粉を満遍なくまぶし、油で揚げていく。二度揚げするのだが、大量に調理する場合、一度に全て投入せずに分けるのがよい。二度揚げした魚を大皿に盛り付け、魚の周辺に付け合わせの野菜を並べる。次にタレを作る。魚を揚げた油をオイルポットに移し、鍋に八角をひとかけ入れて弱火で香りを出したのち、にんにくとしょうがを入れ、弱火で少々炒める。味付けの醤油、紹興酒、砂糖、鎮江黒酢を鍋に入れ、タレの量を調整するため水を加えて煮立たせる。魚にまぶすために出した片栗粉の残りを水で溶き、鍋に加えてとろみがつけば火を止める。タレを唐揚げの上からかけ、最後に白髪ねぎを乗せれば完成。
 飯田が調理をしている間、玉子はダイニングテーブルで頬杖をついて彼の後ろ姿を眺めていた。料理が完成間近になると、彼女は無言のまま立ち上がり、てきぱきとした手つきで食器を用意し、2人分の茶碗に白米を盛った。
「いただきます」
外は完全に暗くなり、小さな暖色の室内灯だけが、薄暗く狭いロフトを照らしている。
「このアジはどこで?」
「駅の向こう側の魚屋」
「わざわざクーラーボックスを持って?」
「こういう時のために本庁の倉庫に常備してあるんだ」
「官庁施設の私物化ね」
「たま子はこの後も仕事?」
「徹夜になりそう。今日は泊まっていく」
「そうか。あんまり無理するなよ」
 食事を終えると、玉子はすぐに自室に戻り、飯田は片付けに取りかかった。
「揚げすぎた分は分けておいたから、明日も食べよう」
 キーボードの入力音とともに夜は更けていく。玉子は独り黙々とパソコン作業を続けた。彼女の作業場には椅子、机と小さな本棚のみが置かれ、卓上も電灯、パソコン、必要最低限の文房具のみと、たいへん殺風景な部屋である。ふと手を止めて壁の時計を見ると、11時過ぎを指していた。
 飯田が扉を開け、仕事場に入ってきた。手にはティーカップを持っている。
「お疲れ様」飯田は机の上にカップを置いた。「疲れた時はカモミールティーに限るね」
玉子は作業を続けたままカップに手を伸ばした。
「時々換気もした方がいいぞ。ただでさえ日当たりも風通しも悪い部屋なんだから」
「そんな悪い部屋に棲みついている変態役人もいるけど」
「棲みついているだなんて。住民登録もしてあるのに」
「変態なのは否定しないのね」
飯田はふふっと笑い、部屋を部屋を見渡してから視線の先を玉子に戻した。
「俺はこの空間が大好きだからな」
玉子は相変わらずパソコン作業を続けた。
「本当に無理はするなよ。眠くなったら俺のベッドに来てもいいぞ」
「キモいから早く寝な?」
「はあい」飯田は再びふっと笑った。「そんじゃ、おやすみ」
数秒経ってから、玉子は小さな声でおやすみと返し、後ろを振り返った。彼はすでに退出していた。
 翌朝、飯田はコーヒーの香りで目を覚ました。自室から出ると、玉子がコーヒーを蒸らしながら何やら料理していた。
「おはよう、昨日は徹夜だったの?」
「今30分だけ仮眠をとったところ」
「それで眠気覚ましのコーヒーか。普段はあんまりコーヒー飲まないもんな」
飯田はそれ以上は訊かずに洗面所へ向かった。
 朝食は、玉子の作ったサラダ、ハムエッグ、トーストであった。飯田はコーヒーの残りと牛乳を混ぜて飲んだ。
 朝食を食べながら、飯田はキッチンに置かれた弁当箱に気がついた。
「昨日の残り物よ」
「ありがとな。わざわざ、俺のために」
弁当箱の中身は、白米、卵焼き、ひじきの煮物、生野菜、それから小アジの唐揚げであった。唐揚げは、昨日のあんかけとは違い、わさび塩をまぶしてあった。飯田はわさび塩というチョイスにとりわけ感心した。
 飯田は朝食を食べ終えるとすぐに濃紺のスーツに着替え、身支度を整えた。
「そんじゃ、行ってきます。愛してるよたま子」
「キモいから早く仕事行きな?」
「はあい」
飯田は玄関を出て、鉄製の外階段を降り始めた。が、すぐに慌てて扉を開いた玉子に呼び止められた。
「ちょっと飯田君、これいらないの?」
玉子は手に弁当箱を持っていた。
「あっ、ほんとだ」
飯田は笑いながら弁当を受け取った。「今度こそ、行ってきます」
軽快に階段を降りていく足音を聞きながら、玉子は思わず吹き出した。夏が終わり、朝晩はいくらか涼しくなったものの、今日も昼間は暑くなりそうな、快晴の朝である。
「ちょっと横になろうかな…」
玉子はロフトに戻って行った。

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