2. フェンネルソースのスパゲッティ

 鳥山玉子は、父の経営する不動産会社に勤務しており、普段は東京の路地裏にあるビルのロフトを作業場にリモートワークをしている。同時に、彼女はこのビルの管理人でもある。
 この日は、太陽光パネルの設置に関して業者と打ち合わせる予定となっていた。ビルの屋根は傾斜がきつく窓も張り出しており、一般的な製品、工法の採用が可能かどうか疑問が残る。加えて、玉子はクラシカルなビルの外観を台無しにしたくないと考えていたため、業者と丁寧に相談を重ねながら適切なプランを探すことにした。
 業者は午前10時すぎに訪れた。ロフトの入口前の踊り場からビルの屋根を見渡したのち、ヘルメットを着用した。
「これなら設置できそうです。登って見てみますね」
「よろしくお願いします」
 業者が屋根に登っている間、玉子はロフトに戻り、銅の薬缶で湯を沸かして紅茶を淹れた。程なくして、業者が部屋の中に入ってきた。
「あの籠はどかしていいんですかね?」
「かご?」
玉子には心当たりがなかった。業者に頼んで自らヘルメットを着用し屋根上に出てみると、確かに、屋根の中ほどに大きな金網の箱が設置されている。籠の中には薬草や木の実、スライスされた果物などが並べられていた。丁寧なことに屋根のタイルの一部が加工されステーが取り付けられており、籠はそこへボルトで固定されている。こんなことをする人は一人しかいない。そういえば最近、換気のために窓を開けるといい香りがしていた。
 玉子は顔をしかめた。以前、窓から唐辛子の束をぶら下げているのを注意したことがある。それならばと屋根の上にこんなものを設置したのか。玉子は業者に告げた。
「後で自分で外しておきます」
 昼過ぎ、玉子は一度自宅へ帰った。彼女の自宅は、仕事場のビルから徒歩数分程度の、ごく普通のマンションの一室である。昼食は自宅で取ることが多かった。この日は、仕事も一部自宅で済ませた。
 ビルに戻ってきた時、1階の料理店のシェフにでくわした。
「管理人さん、こんにちは。中庭のやつ、花が咲きましたね」
「中庭のやつ?」
玉子には心当たりがなかったが、誰の仕業かは容易に想像できた。このビルはY字路の鋭角部に面しており、ビルの中央部は小さな駐車場を兼ねた中庭となっている。その中庭の一角に、花壇にすることを想定して設置されたと思われるスペースがあるのだが、玉子はそのスペースに手を加えずに放置していた。見れば、スイートフェンネルが2本ほど植えられ、花を咲かせている。
 屋根でドライフルーツを作ってみたり、中庭を家庭菜園にしてみたり、ずいぶんいい根性ではないか。玉子はフェンネルを手で引き抜いた。そのままロフトに戻ったのだが、日陰なのによく育ったものをを捨ててしまうのはどうにももったいない。そこで彼女は、フェンネルのソースを作ることにした。
 フェンネルの茎と葉を洗ったのち、軽く湯掻く。茹ですぎると味と香りが逃げてしまうので注意。少し柔らかくなったフェンネルを適当な大きさに切り、すり鉢に移す。塩、オリーブオイル、松の実、にんにくのみじん切りをすり鉢に加え、ペースト状になるまですっていく。ミキサーを使えば短時間での調理も可能だ。
 日が傾き始めていた。完成したソースを入れる瓶を探していると、玄関ドアを開ける音が聞こえた。
「しまった…」
「ただいま。おっ、この香りはフェンネルだな。庭に植えておいたやつか」
飯田はすぐにキッチンに向かった。
「ちょうどこのフェンネルを使ってスパゲッティでも作ろうと思っていたんだ。ワインも買ってあるぞ」
 彼がひとたび調理を始めるともう止められない。あらゆる工程を、流れるような手つきで進めていく。彼は、調理中に量や時間、温度を測るということを一切せず、全てを感覚でこなしている。
「このソース、すごくよくできているな。味のバランスが絶妙だよ」「シンプルに麺とソースを和えてチーズをかけようか」「サーモンサラダも作ろう」
調理中、絶えずなにか喋っているというのも飯田の料理の特徴である。玉子は椅子に掛けたまま、彼の見事な手捌きに見惚れるよりほかなかった。料理はすぐに完成した。玉ねぎ、トマト、水菜が入り、オリーブオイルと塩・胡椒で仕上げられたサーモンサラダには、ワインビネガーで和えたフェンネルの花があしらわれている。
「今日も、たま子のおかげでいい夕食ができるよ。俺はこの時間が至福なんだ。いつも、ありがとうな」
 食卓で無邪気に笑う彼を見て、玉子は下を向いてふうと息をつき、それからグラスに手を伸ばし、注がれた白ワインを一気に飲み干した。
「本当に、私のおかげね」

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