3. 鶏肉と冬瓜の薬膳スープ

 玉子は、朝起きた時から、ひどい頭痛に苦しめられた。窓からレースのカーテン越しに差し込む朝日が、目の奥に潜む不快感の源を直撃した。体をさまざまに伸ばしてみたり、濃いホットコーヒーを飲んでみたりしたものの、少しも改善しない。
 仕事場に着くと、ちょうど飯田が出勤するところであった。彼は、玉子の不調にすぐに気づいたようだった。
「頭痛いのか?」
「大したことない。早く仕事行って」
「たまには休んでもいいんだぞ」
飯田はすぐにロフトを後にした。玉子には、いつもと変わらぬ彼の態度がいささかそっけなく感じられた。
 玉子はパソコンワークを続けた。時々、瞼の上から眼球を揉み、痛みを和らげようと試みた。画面上の文字列やグラフが、増幅したり変形したりしながら頭の中をぐるぐると回り続ける。呼吸が速くなっているのが自分でも感じられる。
 区切りの良いところで一度作業を止め、何か飲み物を持ってこようと椅子から立ち上がった。ところが、意識が朦朧とし、バランスを崩して壁に倒れかかってしまった。ドンという鈍い音が薄暗い室内に響いた。呼吸はますます荒くなっている。
「…だめだ…。少し休まないと…」
玉子は壁づたいに進み、飯田の部屋のドアを開け、ベッドに倒れ込んだ。
 何時間眠っていただろうか。玉子が目を覚ましたとき、外はもう夕方になっていた。慌てて起き上がると、額に乗っていた冷たいタオルがひざ元に落ちた。それからすぐに、飯田が部屋に入ってきた。
「具合はどう?」
「だいぶ楽になった」
「顔色も良くなったな」
玉子はやり残しの作業があることを思い出し、ベッドから出ようとしたが、すぐに飯田が口を切った。
「パソコンの、やりかけの仕事、終わらせておいたよ」
玉子は呆然としてしまった。力が抜けて、ベッドの奥の壁にもたれかかった。
「今日はもうご飯食べたら寝な」
 玉子は、飯田が持ってきた粥をあっという間に食べ終えた。
「食欲は普通にあるみたいだな。スープも作ったんだけど、飲む?」
玉子は小さく頷いた。飯田が持ってきたのは、セロリ、生姜、にんじん、椎茸、冬瓜、鶏もも肉を煮込み、塩で味付けしたスープである。枸杞の実も浮いている。
「このスープ、青唐辛子を入れても良さそうじゃないか?今日は刺激の強いものはやめておいたけど」
「別に、胃腸は全然悪くない」
食べている間、飯田はずっと玉子のそばにいた。
「風邪、うつるわよ」
「大丈夫。俺、人生で1回しか風邪ひいたことないから」
 スープを飲み終えた玉子は、ベッドに横たわった。日が落ちて、部屋の中もすっかり暗くなっていた。飯田は窓際に立って、夕闇に浮かぶビル街の輪郭を眺めていた。
「本当に風通し悪いからな、この部屋」
「なんでそんな部屋に住み着いているの、本当に」
「単純に、気に入っているからだな」
飯田は相変わらず窓際に立っていた。
「都会の真ん中の隠れ家に住んで、好きな人と晩御飯を食べる、こんな贅沢なかなかないよな」
玉子は何も言わずに、壁の方へ首を倒した。
「たま子はなんでここを仕事場にしているんだ?」
「なんでだろうね」
飯田は持ってきたポットを枕元のテーブルに置き、玉子の手を優しく握った。
「水、置いておくから。朝までよく寝られるといいな」
飯田は部屋を後にした。
 スープの効能なのか、玉子は本当に翌朝までぐっすり眠ることができた。起きてきた時、飯田はすでに仕事に行く準備を済ませていた。
「おはよう。どう、良くなった?」
「もう完全に大丈夫。世話かけたわね」
「いいって。スープの残りがあるから、よかったらそれ食べて。俺はもう出かけるよ」
 いつも通り、明るい口調で行ってきますと言ったが、玄関を出る瞬間に頭が重たそうな仕草をしたのを玉子は見逃さなかった。本当に、風邪をうつしてしまったのだろうか。
 玉子はダイニングテーブルで、トーストを昨日のスープに浸しながら食べた。飯田はどうにもつかみどころのない男だが、一緒に過ごすうちにわかってきたのは、彼は他人には世話を焼きたがるくせに、自分の苦労は決して他人と共有したがらないということだ。昨日も、仕事を早退して帰ってきたに違いない。そうでなければ、こんなに肉や野菜がとろとろになるまで煮込むのは不可能だ。だいたい、昨夜はどこで寝たのだろう。椅子で寝たか、それとも寝なかったのか。
 朝食を食べ終えた玉子は、部屋の窓をいっぱいに開け、外の空気を取り入れた。彼がいる官庁街は、窓から左手に見える六本木の高層ビルの向こう側だ。
 玉子は部屋の真ん中で大きく背伸びをした。パソコンを開くと、昨日やるはずだった仕事が確かに完了している。彼女はパソコンを閉じ、ダイニングキッチンに向かった。スープ、作っておいてやるか。今度は青唐辛子も入れて。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?