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ショック体験から気づくこと

人と会う時、自分は「相手はこうしたら喜んでくれるかな?」と無意識で考えていることに気づく。
自分を良く思ってもらいたい、というベクトル自分向きのエゴと、
尊敬している方が、「発言や発信をする時には、それが誰の何のためか考えている」とおっしゃっていて、感銘を受けてきたことも理由の1つ。

「良かれと思って」「図らずも」というのは大変使い古されてきた言葉だと思うけれど、昨日はまさにそれを体感した日だった。

前日に「あなたの話を聞かせてほしい」「俺がサンドバックになるよ」と言われていたので、それを真に受け、自分の話をなるべく端的に、でもコアの部分が伝わるように考えて考えて、話していた。(「つもり」だっただけかもしれない。)
それが「全くコミュニケーションになっていない」「正直、不快に思った」と教えていただいた。
(話を聞かせてほしい、というのは別の場での話、ということだったのかもしれない。何にせよ、先に相手に確認すれば避けられたことだったと思う。今後は話し出す前に確認しようと思った。)

正直、ショックを受けた。
上記の理由で「意識的に」自分の話をしていたから、というのもある。
でももっとショックだったのは、その場でそれを認め、その方に説明ができなかったこと。

「こうこうこういう理由で自分の話ばかりしていましたが、不快に感じさせてしまったと気づかず、そこに関して、本当にごめんなさい。私の話を聞きたい、と言ってくださったその言葉をそのままとってしまっていました。会いたかったあなたに会えて、舞い上がってしまったのもあります・・・」等々。

基本、HSP気質の人は「相手のリアクションを見て、どういう感情でいるか判断する」ことに長けていると思う。それゆえに、自分の感情よりも相手の感情を優先させてしまうことが多々ある。(とHSP仲間からもよく聞く。自分自身で考えてもそうだなと思う。)

無論てんで見当違いのこともあるし、取り越し苦労も多い。
が、当たることも多々ある。
それが、昨日に関してはお相手方の本質的な部分を勝手に知ったつもりになっていたが故に、お相手が「静かに聞いてくれている」なんて読み違いをした。

不快にさせて申し訳ない、と伝えられたのはよかった。
あなたに会えて嬉しかったです、とも。
どの道してしまったことは、弁明しようが、何をどうしようが、取り消せない。

常々「誰の世界もきっと、本質的には自分中心で回っている」と感じる。
そして、それでいいとも思う。
というかある種、そうであるべき、とも思う。
「人って結局、自分勝手」「結局、最後は自分じゃん」なんて、自分を120%棚に上げて思っていた頃もあったけれど、そりゃそうだよ、と最近思う。
だって、自分が自分のために生きなかったら、誰が自分のために生きるのだ。
(そしてそうなるときっと、外側に求めるようになる。)

大前提として私たちは、自分自身以上に、自分以外の誰かを満足させるために生きているのではない。
(まず自分をしっかり満たすこと、これって本当に大切だと思う。
女性は特にそうかなと。)

だけど、だからと言って人を蔑ろにしていい、とはならない。(と私は思う)

自分の心も気遣いつつ、(私の場合は特にそれを忘れてしまう)
相手の心を尊重できたら本当に素敵だと思う。(という価値観を持っている。)

今、下書きもせずいきなり書き綴っているため話が右往左往していますが、
書いていて、今ふと思ったことをひとつ残しておきたい。

人も自分も、
『何を素敵と思うかは、絶対的に自由』ということ。

冷静に考えれば、「はぁ?そんなん当たり前やん...」なのだけれども、
ついつい忘れてしまう。

上に書いてきたように、尊敬する方から「今のあなたは、僕にとって全然素敵と思えません」という類のメッセージをもらったように感じ、えらくショックを受けた。(素敵と思ってもらいたい、というのもある種エゴではある。)

私がそう感じた、それ自体は事実で、「良い悪い」ではない。(その方が不快に思われたのも。)
だけど、相手に不快に思わせてしまったことにショックを受けるだけでなく、その方から「人格を否定された」ように感じたのは自分の未熟さだな、と思った。

自分を真の意味で受容できていたら、「あなた(のコミュニケーションスタイル)は素敵じゃない」と仮に思われようが、実際に言われようが、「そっか・・・大好きなあなたからの言葉なので悲しいけど、価値観や捉え方の違いだよな・・・」と思えたはず。

自己否定。根強く残るネガティブな自己認識。
私はやっぱり自分勝手で、自己中心的で、嫌な奴。不快な奴。
お相手様は「あなたのコミュニケーション方法が不快だ」と言っただけなのに、
勝手に過大解釈をして、必要以上に落ち込む。

人として成長したいな、と思った。

ちなみに、話はここで終わらない。

最後にその方は、「あなたのこと好きですよ」と言ってくださった。
そこで、存在(人格)を否定されたのではなかった。と気付いて、ハッとした。
(私もその方のことが好きです。仮に嫌われていても。)

存在(人格)の否定と、思考や発言の否定は全然違う。

自分向きの心。相手向きの心。今回で言うと、相手に向けている風で、結局は自分に向いていた。
(だからこそ、お相手様が途中で不快に思っていることに気がつかなかった。)

好きな相手であればあるほど、その方に喜んでほしいと思ってしまい、相手の価値観、コアの部分は何だろう?と考える癖がある。

今回のそのお相手が嬉しいのは、「目の前の相手が本音で話し、本心から喜び、楽しみ、悲しみ、怒り、生きていること」「ニセモノじゃないこと」「嘘くさくないこと」なのかな、と、今になって思う。

「人に本音を明かすのが苦手」という自覚がある私は、その方に会うのがその実、怖かった。すごく会いたかったけど、きっと、こうなる(不快に思わせてしまう)のでは、と、どこかで思っていた。

泣きはらして少し落ち着いた私に、その方が「ぶつかり稽古ができてよかった」といった類のことを言ってくださったことが嬉しかった。(私への気遣いかもしれない。)
そして、嬉しさ、悲しさ、悔しさ、誇らしさ、怒り、有り難み、嫌悪感、喜び・・・同時にいろんな感情が渦巻いて、「やっぱり人間って複雑だなあ」と改めて思った。

その複雑さをわかった上で、極力心の声を聞き、自分を開き、楽しんで生きていく方向を選ぶこと。ただただ、大変だなあ...と思って自分を閉じて生きていくこと。
それも全部、《我々に与えられた選択肢》なんだと思う。

改めて、もっと心の声を聞くぞ、と決めた。
もちろん、人生は単色ではないので、楽しめない自分がいていいと思っている。
(毎日"本心から"バラ色人生送ってます、ブルーな日なんて一日もありません、という方がいたらぜひお会いしたい。対価をお支払いして。)


楽しめない、や、不幸を知るのも大事だと思っている。それは自分にとっての楽しい、や、幸福を知るために役立つから。実は必要なのでは?とすら思う。

私たちは「自分の心は、いま、なんと叫んでるか」をもっと聞く必要がある、と強く感じた。

外側の正解に頼っているうちは、真の楽しさはないのかもしれない。

大丈夫。
人生、「今」より早いスタートはないし、
気づく度、何度でも「再スタート」ができる、と信じている。

きっと、いろんな人を不快にさせてしまってきた。
これからも、どんなに気をつけても、させてしまうと思う。
(そもそも、楽しそうに生きている人を見るのが不快、という人もいる。
自分自身が昔そうだったからわかる。)

それ以上に、誰か(と自分)の心を軽くする人になりたい。

自分の頭で考え、自分と相手の心の声を聞き、しっかり反省もして。

そのためにも、自分の心を軽い状態を保つ研究をしていこう。
頭だけじゃなく、しっかり心の声を聞きながら。

軽やかに生きていこう。ともに。

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