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引っかかる言葉と"負い目"の関係性

「あなたの言葉はなんか嘘くさい」と過去に言われたことがある。
「見ていて気持ち悪い」とも。(無理している感がある、と。)

たしかに、かっこつけて言葉を選んでしまうことがある。
(いまだにポエミーな文章が好きである。書くのも読むのも大好き。
小学校時代から詩集的なものを携帯していたり、友達と文通も兼ねて、詩の交換をしていた。)
自分の本心をひた隠しにして生きていた時期もある。


「昔は嘘つきだった」という自覚もある。(『自分』で勝負するのが怖かった。)
その場しのぎ的な発言も多かったはず。
自覚があったから、その言葉はえらく刺さった。


生きていく上で、大前提として

人は、至極、勝手なことを言う。
そして各々、自分の感性、物差し、価値観で世界(人)を見ている。

これを覚えておくのは、役に立つ。


何かご意見を頂戴したり、ダメ出しをされることがあった時
「上記3点のどれかに当てはまらなかったというだけ」ということも実は多い。


なので、プライベートで発生した話であれば、「参考材料にさせてもらう」というのが一番有効な捉え方かもしれない、と最近思うようになった。
(相手が大事にしたいクライアントさんで、仕事に対する要求であれば話は別。)


人は自分に負い目がある意見に反応するようになっているのかもしれない。


例えば、「だらしない」という言葉。
今日の夢で、自分の店で何かの会を催している最中に
「○○はだらしないとこあるよね。しっかりしてよ。」と言われ、
ショックを受けていた。(夢の中の自分が。)

確かにその方は完璧主義で、「だらしなさ」がないタイプ。(決して丸いタイプではなく、わりと四角四面。)
だけど、裏を返せばその分近づきづらい感じがあり、日頃の発言の内容も「正論・批判」の割合が多いタイプ。正直、一緒にいて「チョット息が詰まるなぁ」と思うこともあったりする。(個人の感想)

そして、私は多分その反対(に見えている)タイプだと思う。
よっぽど親しくならない限り、何かや誰かを批判したり、ダメ出ししたりすることはない。(意識してしないようにしている。この世はすでに批判やダメ出しで溢れていると感じていて、私がさらに足す必要はないと思っている。)
そして、お店に来てくれた人がなるべく「ホッ」とできて、かつ何らかの学びがあるような場を作りたい(そのためには言うべきことを言ったりもする)という意識で店に立っている。実際、そういうフィードバックをいただくことも(有難いことに)多い。

でも、「だらしない」という言葉に大いに反応していた。イラッともしていた。
なんであんたにそんなこと言われないといけないのよ、と。

だらしない自分を認め切れてないんだなと思った。

仕事は『完璧にこなす』という意識で臨んでいるから、外野から「だらしない」と言われても多分何とも思わない。冷静に「え、どこが?」と聞き返せる。
だけど、私にとって自分のお店での会は半数以上が《100% 仕事》ではなく、特にその方が来るような会は、よりプライベート寄りになる。(仲間内オンリーの会)

だからこそ自分の持って生まれた気質のひとつである「ゆるさ」が出て、
「だらしない」と映っているのでは?という深層心理が夢になったのだと思う。

「そうなのです、私だらしない部分もあるんです。でもこう見えて、しめるところはしめてるのですよ。」と認めつつ、さらりと自分の意見も伝えるのか。
「だらしなくなんかないし、そもそもあなたにそんなこと言われる筋合いないです。」と感情のままに突っぱねるのか。

「そっか、そう感じましたか〜。わかります。私も昔は自分のだらしなさ、ゆるさが大嫌いだったんです。でも今はそれも自分の一部だと思って認めてますし、そんなところを含めて好きだって言ってくれる人も結構いて、ありがたいと思ってます。○○さんを不快にさせたなら、ごめんなさい。」
咄嗟の場面でそんな風に言えたら超絶カッコイイな、なんて思う。
(ショックを受けている時点で、思い当たる節がある、ということ。)

そもそもが

この世の全ては表裏一体なのかもしれない。


「綺麗な人」を素敵!と思う人もいれば、「いけ好かない」「性格悪そう」と思う人もいるし、
「頭のいい人」に憧れる人もいれば、「頭でっかち」「理論武装」と形容する人もいる。
「幸せそうな人」を見ていてほっこりする、と思う人もいれば「バカっぽい」「脳内お花畑」なんて表現する人もいて、
「忙しい人」を羨ましく思う人もいれば、「大変そう」「なんでそんなに無理するの?」なんて思う人もいる。

要は、
【自分が自分をどう思っているか】
そして
【誰の、どの言葉を自分の中に取り入れるか】


「セルフイメージ」ばかりが高くて実が伴っていないのも問題だけど、
「私なんてダメだ」という自己否定は、さらにもったいないと思う。


「○○と思う人もいるかもしれないけど、それも私の一部だし、
そんな部分もひっくるめて、私は私が好きだ。」

これはきっと

○○と思う人もいるかもしれないけど、それもあなたの一部だし、
そんな部分もひっく
るめて、私はあなたが好きだ。」

と相互に繋がっている。


地球上に、完璧な人なんているはずもない。
私たちはこんな当たり前のことを忘れてしまう。

自分自身だって、完璧からは、はるか遠く彼方にいるタイプ。


そんな不完全代表の私は
「この世界に幸せな人が増えてほしい」と本気で思っている。


なぜか?
幸せな人は、そうでない人より、人に優しい(ことが多い)から。
人に限らず、物や自然、他の生き物にも優しいから、である。(そうでない人と比較して。)

だから、この世に『幸せな人』の割合が増えれば、
この世界はずっとずっと生きやすい場所になると思う。
(人間にとってはもちろんのこと、
他の生き物や植物、自然界にとっても。)

何らかの凸凹(得手・不得手)や、クセが強い人たち、そして、
繊細な人たちにとっても生きやすい社会になってほしい。

大部分の人より繊細な気質を持って生まれてきた人が、人の悪意に触れて絶望したり、心を閉ざす必要のない社会に。

人が人を攻撃する回数が減ってほしい。
自分の中の悪意(不満)を外側に撒き散らすことなく、自分で対処できる《真の大人》が増えてほしい。

そのために、私たち個人ができることは、
ものすご〜〜〜く小さなことかもしれない。
だからと言って、決して【無意味ではない】と今は信じられる。
(世の中ってこういうもの。何をしたって変わらない。そう諦めていた時期も長いです。)


特に、自分の世界は自分次第で変えられる。
だらしないところのある私ですら変えられたから、これは実感を込めて言える。


無力と微力は全くの別物で、

0と1の差はその見た目以上に、遥かに大きい。


自分にとって、大きな意義がある。
かつ、人やこの社会にとっても、何らかの意義(必要性)がある。

そんな活動だったら、きっと天から応援される。人からも。
そうでなければ自然と淘汰されていく。

せっかく、やりたいと思ったんだ。
珍しく、心の声をキャッチできたんだ。

やってみよう。 

結果が思うようなものでなくても、
失うものはそんなにないし、
《経験》は間違いなく残る。


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