ジェンダーロールの押し付けがなければ私の中の中性自認は芽生えなかったのか

下書き書いては消してを繰り返している…
「書きたいことあるなあ」から考え始めて頭の中で完結してしまう習慣が長い間続いていたから、アウトプットにたどり着くまでがとても長い。
なんとか書き上げられますように。

タイトルがうまくまとまらなかったけれど、そのまま。
ネットでの体験記や記事を見ていると、中性自認に気付くきっかけや、あるいは土台となっている要素に「ジェンダーロールの押し付け」への反抗心をよく見かけるように思います。
もちろん全員がそうではないだろうけれど。
もしかしたらそう思っているのは私だけかもしれないけれど。

もし幼少期に過剰な男女差のもとで育てられていなければ、今のような自認には至らなかったのか。
少なくとも私の中での中性自認への足掛かりの一つに「ジェンダーロールの押し付け」があると思うので、つい考えてしまう。
もともと天邪鬼な性格であり、「他人にできて、自分にできない」ことを極端に嫌う性格であり、自分が納得できない内容で行動を制限されることを嫌う性格であり。
極端に厳しい親だった訳ではなく、むしろ大事に大事に甘やかされて育ったほうだと思うけれども、今思い起こせば、「あれ、嫌だったなあ」と思ってしまうような教えがたくさんあります。
ひとつひとつ供養のつもりで書き起こして忘れていきたい。

女子は正座、男子は胡坐

常時と言う訳ではないけれど、我が家はこうでした。具体的には女子は正座または正座から足を崩したお姉さん座りで、胡坐を掻いてはいけない。男子は胡坐でよい。できない場合は体育座り。
なぜか胡坐で座りたかった。なぜか格好良く見えていたのかもしれない。親からしたら、女児が股を開いて座るなんて堪ったもんじゃなかっただろうし、余所のお宅でやらないように、自宅からきちんと躾けてくれていたのだろう。男児は何か身体構造上正座はしんどくて~みたいな話を聞いた覚えがあるけど、股関節の硬さを考えたらむしろ胡坐しんどい人がいてもおかしくないような…。
我が家の食卓は当時テーブルではなく、座布団に座っていたので、余計印象が強いのかも。
正座は別に苦ではないけれど、胡坐はダメってルール、なんか嫌だったなあ。
でもお行儀よく…って理屈もわからなくもない、今となっては。

女子はセーラー服、男子は学ラン

単純にセーラー服可愛くない、夏服が暑い(男子はシャツ一枚or下にTシャツ着てさっと脱げた)、冬重ね着しにくい(首回りがら空き・お腹周りノーガード)で物理的に不合理と思ってました。
ブレザーの学校に進学して解消。スカートだったけどかなりシンプルだったのでそれほど嫌でもなくなった。

女子はブルマ、男子はショートパンツ

ちょうど全国的にブルマがなくなっていく過渡期にいたので…。ブルマがなくなりハーフパンツになるタイミングで男子の短すぎるパンツもハーフパンツ丈に。
そもそも変態による盗撮がかなり問題になっていたからだと記憶していますが、変わってくれてよかった。ありがとう変態。でもくたばれ。
男子も女子も容赦なくパンツがはみ出す難易度高い体操服だったので、今考えても何であの選択だったのか謎。小学校は長袖長ズボンもなかったよ!

女子は内股、男子は蟹股

男子なのに内股でおかしいおかしい言われ続けてた兄。内股で育ったけどどんな写真見ても立ち方が何かおかしい私。
頼むからまっすぐ歩くように躾けてほしかった…骨格の歪みはもう直らない。そこ男女差必要ありました??

女子はピンク、男子はブルー

我が家は近所の幼馴染も含めて男女混合のお下がりが多かったので、さほど日常的に赤を押し付けられていた訳でもなかったけれども…
むしろオレンジや黄色が多かったかも。目立ちやすい色だからと。
それでも一つ覚えているのは、幼稚園児くらいのころ、珍しく服を買いに行って何かいいのを選びなさいと言われ、白地に水色の金魚の柄の甚平を指さしたら秒で却下されたこと。「それは男の子のだからダメ」と…。
その前後のことは全く覚えてないので、余程ショックだったんじゃないかな。体格の男女差もないし着れなかったことはないと思うけれど、まあ単純に価格帯とか、そもそも甚平を買いに行ったわけではなかったのかもしれない。
その後高校生のころには甚平ブームがやってきて、女性サイズの甚平がこれでもかと売っていた(それも渋い柄!)ので嬉々として着たのでした。


書き出してみても、どれも今では自分の身の回りでは解消したものばかり。
セーラー服が嫌だとかはあったけれど、世間一般と比べて割と気楽に育てられてきたほう…ではあった気がする。
そしてこれらが遠い過去となってしまった今になって、ようやく中性という言葉にたどり着いて、私は中性だな、と思えているので。
ジェンダーロールの押し付けへの反発心が、男性への憧れ(好きの憧れではなく、「なりたい」の憧れ)を生んだことは間違いないと思うけれど。
もし過剰な押し付けがあったとしてもなかったとしても、目の前に「中性」という選択肢を示されたら、私はそれを選んでいたんじゃないかなあ。
今生まれてきてこれからの世の中を生きていく子供たちが、完全に性差なく公平に育てられたとして、その子供たちはどんなふうに育っていくんだろう。
興味はあるけど、人の人生にかかわることだから、なかなかそんな実験できませんよね。
完全に公平だったら、みんな中性みたいになるのか、それとも中性とは思わなくなるのかな。性の区別は身体的な特徴だけ、って。
うーん、SFの世界みたいだ。

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