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踏みつけた破片が華氏だととても

私を通りすぎた人たち
って本のタイトルを観たことがある
あれはどういう気持ちで書いたんだろう
そんなことを考えながら今日はすぎていった
彼女の場合はきちんと恋愛をしてそして
お付き合いをしたひとだからいいじゃん

でもね ほんとに通りすぎただけの人たちを乗せた数
には そこから自分を愛してくれる人が表れると
そんな期待を込めて依存症のように軽く受け入れて
載せちゃう
そんな
人もいるのかなぁ

誰かの自慢に嫌気がさしたから
だからここから崩せば
私の価値は負けてないことに出来る
そう思って
端から観ていたら哀れとでもおもわれそうな
こんな数だけこなしてく女に成り下がってしまった

ひとによっては
成り上がってくパーターンもあるな
成り下がってしまったと感じた場合は
自らが破滅したかのように感じてしまったのだろうか

ここまでのアピールをしても誰も本当に真剣に自分自身に向き合って
愛してくれる人間
自分だけを満てくれるそんな人と出会いたかった
だけどその人は私のことを真に考えてくれてはいるが
パーソナルな愛をくれる人ではなかった
だとしても
真剣に自分と向き合ってくれるだけでも
愛情はかんじるはずだけど
それでは満たされることはなかったのだろうか

重い女 軽い女 軽い女はだいたい成立したら重い女になるけどね
重い女で要る方が嬉しい相手も居るし
軽い女だと都合が良くて助かる
または軽い女はこちらばかりを見過ぎて己が束縛のように感じて逃げ出してしまうのだろうか
軽い女と緩い女はちがうのか?

ほしかったものは本当に愛だったのだろうか?
自分を大切に扱ってくれる
そんな人がほしかったのだろうか
君は僕の大切だからもう誰にもひどいことは言わせない
そう言ってもらえたら
また彼女の人生は続いていたのだろうか
わからない
満たそうとしたものと
その行動が伴わない
隙間はそこを埋めるために
違うものをあてがって
あてがいが続くだけなのか
また
間に合わせであてがったつもりが
どうしてかまっちんぐして
だたのあてがいではなくなるそんなこともある

とは言え
形など事実は結晶が同じものは出来ないのとおなじく
愛のかたちなど決めつけるもんじゃないのだろう

そう誰も誰かの価値を
あざ笑うことなどしなくてもよいのだ



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