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これまで隠してきたこと、お詫びと、そしてお別れのご挨拶と

恋愛感情とは、なんなのだろうか。
ただの娯楽、私たちの人生にちょっと刺激や快楽やドキドキを与えるための、スパイスのようなものか。

初めてカウンセリングに行った時、私は思い切って先生に言った。
「離婚したいんです。だけどそのことを話そうとするだけで、別に誰にも見せる訳でもないノートにそれについて書こうとするだけで、
喉が詰まって硬直してしまって、身動きできないんです。それがなぜなのかがわからない」


それは大変でしたね、苦しかったでしたね、
とかなんとか、かんとか。
よくあるやさしい言葉で、包み込むみたいに慰めてもらえるのを期待していた。
だけど先生は手元のノートに何かを書き込みながら言った。
「潜在意識では全然、離婚したいとは思ってませんね」
いきなり脳みそをたっぷりの牛乳の中に突っ込まれたようになって、私は一瞬で固まる。
「したいと、思ってます」
蚊の鳴くような声を絞り出した私に、先生は書くのをやめて、にっこりと微笑みかける。
「本当に離婚したいと思ってるなら、子供がどうとかお金がどうとかそんなことはとりあえず、もうとっくに家を飛び出してますよ。
そういうこと、ありましたか?」

だって私の場合は、子供が、お金が、仕事が、親が、相手が、相手の両親が…
頭の中で何千回も転がしてきた言い訳を、必死に整理するけれど声が出ない。
だってその時私はどこかで、
これが終わったら次は急いで帰って子供をお迎えに行って公文に連れて行ってそれから買い物して大急ぎでご飯の支度をしなくちゃ、間に合うかな、
って考えていたから。
真実を射抜く人は恐ろしい。
私はなにも言い返せなくなって下を向く。

人間を洗脳するのって本当に簡単なのだ、とカウンセリングを受けてみると実感して空恐ろしくなることがある。
例えば、少し前に「マスク警察」なるものが話題になったことがあった。
世の中には、自分が病気になりたくないからマスクしている人も、わがままな人間だと思われたくないからマスクしている人も、
頭のおかしい人間だと思われたくないからマスクしている人も、会社や学校で指示されたから仕方なくしてる人も、マスクそのものをしてない人もいる。
本来はそこで、それぞれが完結しているはずなのだ。
それなのに、マスクしていない赤の他人にわざわざ「あなたもマスクをしなさい」と注意する、というのは明らかにそれを逸脱している。
そこには、自分は苦しいのを我慢してマスクしているのに、ラクしている人間、自由にやりたいことやってる人間がどうしても許せない、という強烈な怒りが内在している。
つまり、マスクをしてない人よりも、「マスク警察」の方がよっぽど、潜在意識では強烈に、「マスクなんかしたくない」「自由になりたい」と思っているということになる。
そんなに嫌なら、取ればいい。
だけど、取れない。感染症が…高齢者の命が…みんなだって我慢して…集団免疫が…
それらしい言い訳が頭を渦巻く。
結局まとめると、その人にとってはマスクを取ることは死ぬことと同じぐらいとんでもない、ということ。それは一体、何故なのか?

私たちはどこかで、苦しいことを我慢するのは偉いことだという観念を持っている。
我慢して頑張れば、何かご褒美がもらえるはずだ、という叶えられない願望。
叶わないから怒り、苦情を言ったのにそれでもご褒美がやってこないから、きっとまだまだ苦労が足りないのだろうともっと自分を苦しめて追い詰めてみる。
マスクを二重にしている人がいるけれど、なぜわざわざ色の違うマスクを重ね着して、二枚つけていることを強調するのだろう?
それでも結局、望んだようなご褒美がやって来ることはない。
そこに偉そうな人から、「足るを知れ」だの「感謝の心を持つことが大切」だのと言われて、慌ててそうかそうかと感情を抑え込むけれど、その奥にさらに鬱憤は溜まっていく。ずっとそのループ。

カウンセラーの先生は言った。
トラウマのない人なんていない。
トラウマに人間は簡単に振り回される。
トラウマを見たくないから、感じたくないから、それを避けるために触れないために、反射的に無意識に、誰もが行動を選択してしまうんですよ、と。

そう。そのメカニズムを知って日頃から自分の行動を注視してみればすぐに、心の奥に、大きくつっかえてる塊があることがわかる。
自分で選択していると思っているその行動は、実はトラウマに振り回されてそれを選択せざるを得ないだけだったのに、頭でその理由を箇条書きにして自分を説得してだからこれが正しいんだって押さえ込んで、それを、
「自分は自分で考えて決めた」

と、0.1秒で思い込んでいるに過ぎない。

冒頭の質問に戻る。
恋愛感情とは、なんだろうか。
時に私たちは全身全霊、人生の全てをかけてそれに振り回される。
重大な決断を、それによって決めてしまう。

私が結婚した時、周囲には、恋愛結婚とお見合い結婚という括りがあって、私は内心、それどこが違うんだろ、と思っていた。
だけど自分は一応、恋愛結婚という範疇に入っているはずで、自分で選んで自分で決めて自分でちゃんと恋愛して結婚したはずだった。
しかし、カウンセリングを受けながら、今に至る自分の行動を一つ一つ精査していくと、確かにその背後にトラウマが隠れていて、なるほどそうやって何かにコントロールされていたのかと納得させられる。
そして同時に、私たちの「自分で決めた決断」が、溶け始めた醜い雪だるまのように、あるようでその実あやふやで、いかに不確かなものであるかを痛感させられる。
だがそうであるなら、あの恋愛感情に伴う、かきむしるような苦しみや、体重が半分になって空に舞い上がるような心地よさや、全身の血液が倍速で回り出すようなドキドキはなんなのだろう。
あの感情の確かな存在感は、どこからやってくるのか。

自分の結婚式の準備をしながら、私はあの時、結婚式って花嫁のお葬式みたいだな、と考えていた。
素敵なドレスを着せてもらえて、本来なら一生、主役になんかなれない人間なのに、その日だけは主役をやらせてもらえて、
みんなにおめでとうって笑いかけてもらえて、幸せを喜んでもらえる。
こんな目一杯の幸せをあげたんだから、幸せになれるかもしれなかった人生は今日で終わり。あとは子供産んで、どんどん汚いババアになって家電以下、隅に追いやられて、必死でお金稼いで髪振り乱して節約して、介護して、貯めてきたお金でなんとか帳尻合わせして介護されて、それで終わり。残りの人生は諦めてね、って誰かに微笑まれているような。
それはまるで生前葬の儀式、お葬式だ。

昔から、ディズニーのプリンセス映画が大嫌いだった。
眠ってる女性の見た目だけで一目惚れする気持ち悪い王子。相手が王子様だと言う理由だけで目が覚めた途端恋に落ちる意味不明な女性。
そうでしょ?あなただってそう思うでしょ?そうなりたいでしょ、憧れるでしょ?って視聴者に強要してくる甘ったるい音楽。
で、めでたく結婚したら、happily ever after..って。
結婚した後の方が圧倒的に人生の時間は長いのに、結婚したらそれで物語は終わりなの?
絶対あいつら全員、happily ever afterになんかなってないに違いない、ってずっと思っていた。


私には、ずっと忘れられない人がいる。
連絡先も知らないその人に、もう二度と会えないとわかった日、文字通り自分の足元が抜かれて自分が奈落に落っこちたのがわかった。
ああ、人間て本当にショックを受けるとこうなるのか。
不恰好な体勢で倒れたまま、取り繕うことすらできずに動けなくなってる自分を、私は冷静に観察していた。
終わったんだと頭ではわかっているのに、どうしても心がついていかない。
どうしても、この話にはまだ続きがあるような気がして動けない。
きっと時間が解決するよ、わかってるでしょ?嫌われたんだよ、いい加減にしなよキモいよしつこいよ変態だよストーカーだよ諦めろ。
あらゆる言葉で自分をなだめ罵倒して引っ張り出そうとするけど、どうしても動けない。心の中から消えてくれない。
この話にはまだ、続きがある。
この話にはまだ、続きがある。

なんどももうやめようと、息を止めて我慢するみたいに自分に耐久レースを持ちかけるけれど、結局同じ場所に戻ってきてしまう。
その人を思い出させるような、何かが目の前にやってくる。
どうしても聞きたくてたまたま携帯に落とした曲が、聞けば聞くほどその人が、あのとき言えなかった気持ちを吐露してくれているようにしか聞こえない。
もしかして自分と同じくらい切ない気持ちでいるんじゃないかっていう妄想が、全身に充満して止められない。
それでまた、やっぱりもうじき再会できるんじゃないかって妄想してテンション上がって、夜、ずっと携帯を見ながら待っていて、寝落ちしてしまって慌てて携帯見て、何もなくて、お昼にまた慌てて携帯見て、何もなくて、また夜になってそうやって、ずっと何かが起こるのを待ってる。
それでも何日も何ヶ月も何もないから、今度こそズドーンと沈み込んで落ち込んで、
自分は何をやってるんだ、いい歳こいて気持ち悪い、頭おかしいのか、ストーカーなのか変態なのか病気なのか、って悩んで、もうやめよう今度こそって決意する。
だけどまた、引き止めるみたいに何かが来る。

私は誰としゃべってるんだろう?
全部、自分の一人相撲、自ら創り出してる希望的妄想なのか。
でもだったら、自分には思いつきもしなかったような斜め上からのアドバイスや、私には辞書を引かなきゃ解読できないような難しい英語のメッセージが来るのはなぜなのか。
知らない何かに、からかわれているのか。狐とか。宇宙人とか。

それともやっぱり、現実には会えないその人の、潜在意識とつながっているのだろうか。


子供の頃からずっと、私は秘密の世界を持っていた。
それはちょうど心が二つあるような感じ。一つは日常生活を送るためのみんなと同じ普通の心、もう一つはそこから逃げ出すための心。
一つ目は傷ついたり失敗したり怯えたり反省したり機能しているけれど、もう一つは家族はもちろん、どんな親友にも恩人にも誰にも教えたことはない。
そこはまさにインスピレーションの世界であり、創造性の世界。なんでもアリだし何にでもなれるし、それを誰かに揶揄されることもジャッジされることも傷つけられることもない。
1日1回はその世界に入らないと、昔から眠れなかった。
そして私は緊急避難的に、その人の存在をそこに入れてしまった。
誰にも私がやってることを悟られないように。否定されないように。分析されないように。知られないように。


自分がいつかカウンセリングを受けるようになるなんて、想像もしていなかった。
なぜその先生のところに行ってみようと思ったか。きっかけは、インディゴチルドレンという言葉を知ったことだった。

世の中には、インディゴチルドレンと呼ばれる少数の人たちがいて、感受性が鋭く、普通の人とは会話が噛み合わない。
他者から見ると、インディゴは優しくよく気が利いて、相手の気持ちに深く寄り添ってくれる便利な存在。だが逆にインディゴ本人にとってみると、自分が差し出すばかりで相手から同じものが返ってくることは永遠になく、わかってもらえない、と孤独を深めてしまい苦しむ、という。
自分がインディゴチルドレンかどうかを判定するチャートなんていうのまであって、40項目ぐらい質問に答える。それが35個以上当てはまると、あなたはインディゴである可能性が高い、とかなんとか…。
確かに思い当たるし、チャートも35個以上当てはまる。

で、だからなんだよ。フザケンナよ。
スピリチュアルなんて信じていない私は、それを見て思わず携帯に向かって毒づく。
私は怒っていた。
中には、あなたがインディゴかどうか3万円で鑑定してげますなんていうサイトまである。
大事なのは、自分がインディゴにカテゴライズされてるかどうかじゃない。
もしインディゴなんてものがこの世の中に存在してるとして、自分がそれだったとして、教えて欲しいのは、じゃあ私は何のためにこんなに苦しくて、何のために生まれて来たのか、ってことだ。
永遠に苦しいだけで、孤独で、苦しめられて、楽しいことも嬉しいことも不思議なことも悲しみも感動も誰とも何にも共有できなくて、何にも分かってもらえなくて、ただ誰かに「ああ、あなたがいると心地いいなー」って搾取されるために生まれたのか?

そうやって、義憤に駆られて一晩中インディゴを検索したあの日の夜のことを、私は今も鮮明に覚えている。不思議な穴の中に落ちていくように、吸い込まれていく。引き込まれていく。

インディゴチルドレンには、いろんな種類があって、そのインディゴチルドレンの苦しみを和らげるために生まれてくる、パイオニアなんていう人もいるらしい。
インディゴよりも上の年代で、インディゴと同じ気質だが、さらにもっと孤独で希少で、強靭な精神でそれに耐えてきた人たち。
そういわれてみれば、あの人はきっとインディゴチルドレンのパイオニアだなと感じる人と会ったことがある。
その人は通ってた大学の先生だったけれど、本当に偏屈で孤独で変わっててまともじゃなくて、そりゃ結婚できないだろうさ、って心の中で思ってた。
それでも、あんな風に気が合って深いところでつながりあえる人と、それまで私は出会った事がなかった。そういえばその人も、テレパシーを使った。
そして、私に本当に大切なことを、生きる力を教えてくれた。
だけど、いざ恋愛的な雰囲気になった時、私は足がすくんでしまった。
その人が内側に隠し持っている孤独が、生半可なものじゃないというのが分かったから。
このまま私がその人に対して同意したら、この門を開いたら、文字通り首に鎖をつけられる。そんな恐怖を感じた。
それで、あんなにお世話になったのに、尻尾を巻いて逃げ出してしまった。

インディゴチルドレンの有名人といえば、っていつも例に出されるのは、なぜか宮沢賢治だ。
そういえばその先生はいつも私のことを「あなたはグスコーブドリだ」と言った。
グスコーブドリとは、宮沢賢治の『グスコーブドリの伝記』のことだ。
賢治はグスコーブドリという架空の人物の伝記を書いたけれど、そこに描かれた生き様は驚くほど賢治の生涯と重なって見える。
他人のために尽くして、自分の命を捧げてしまうような人生。
私は宮沢賢治が嫌いだ。
自己満足で、考え足らずで。自分はそうやって甘美で刹那な人生を歩んでお腹いっぱいかもしれないけど、残された人たちの気持ちをどう考えるの?って。
だけど、自分が「グスコーブドリだ」と言われると、確かにその要素があるのは自覚がある。
例えば、自分が今すぐ何かを食べないと死んでしまう飢餓状態にあるとして、目の前に、同じような飢餓状態の無防備な人間がパンを持っていたとする。
普通はそれを奪って食べるだろう。少なくとも奪い合って戦う。
でも私には多分、それが出来ない。それは私が心根の優しい天使みたいな人間だからではない。
そうして生き延びたその後の人生は、パンを持っていた人を殺して奪った上に成り立っている、という永遠に続く罪悪感から逃れることは出来ない。そうやって絶え間なく、自分の人生が呪い蝕まれながら、どうしようもない力に四六時中否定されながら生きるのがどれほど苦しいのかが、分かるからだ。
一分一秒生きている時間を伸ばすことと、罪悪感にまみれて生きること。
私には、たかだか生きている時間をわずかばかり引き伸ばすことが、そこまで価値のあるものだと本気で思えない。
だけど弱肉強食が摂理のこの世界でそんな綺麗事を言ってたら、世が世なら、一体どうやって生きていくというのだろう。戦地に送られて私は、友達に庇われて生き延びるのが嫌で、代わりに友達に飛んできそうな鉄砲玉の前に飛び出してあっさり死んでしまうかも知れない。
残された人に「お前のために死んだ」という十字架を背負わせて、いつまでたっても何回輪廻転生しても、何の実りも成長も、長生きもできない。
だから、何とかしてやっぱり、人は泥臭く生きなきゃいけないんだろう。

「グスコーブドリの幸せを祈ります」
その先生がいつもくれたメッセージ。
きっと、彼も私と同じだからこそ、理解できるからこそ、心配して「何とか生き延びろ」ってそんなことを言ってくれてたんじゃないかと思う。

…で、インディゴのパイオニアの人が、私を「グスコーブドリ」だと呼んで、「グスコーブドリ」とは宮沢賢治のことで、その宮沢賢治がインディゴチルドレンなのなら、私もインディゴチルドレンだということになるのだろうか?

バカバカしい。
私は一人、真夜中の寝室で鼻を鳴らす。

もう一つ、インディゴはインディゴとでなければ苦しくて生きていかれない、とか絶望的なことを書いてあるサイトには、インディゴが数少ないインディゴの仲間を見つけだすヒントが記されていた。
インディゴのあなたと誕生日が同じ人、それはインディゴである可能性が高い。
私は過去に確かに一人だけ、生年月日が完全に一致している人に会った事があったのを思い出した。
その人も、生きづらそうな不器用な人だった。私とはとことん馬が合わなくて、寄ると集まるといつも丁々発止の喧嘩になる。
何で本当のことを言うと怒るの?何で本当のことを聞くと、質問には答えずにキレるの?
いつも内側に何かを隠してた。あれは、インディゴの性質を本人はうまく、隠しているつもりだったのかも。
そういえば今は、どうしているんだろう。久しぶりに彼のフルネームを記憶の彼方から引っ張り出して検索してみたら、詳細は省くが「インディゴ」という単語にめちゃくちゃ関係ある仕事についていた。
おもわず吹き出す。あんな顔して、あんな成りして、プリプリ怒りながらインディゴだって。何なんだ、このどこまでもつながっていく、シンクロニシティは。
そんなことしているうちに、あっという間に空は白んで朝になった。

それでも私はインディゴチルドレンなんて、そんなスピスピしたよく分からないものは受け付けない、認めない。だって、そんなのに仮に自分が認定されたからと言ってじゃあ、どうしろっていうんだ。
一睡もしないで、怒りに任せて強引に動いていた私は翌日、電車の中で急に気分が悪くなってぶっ倒れた。
たまたま居合わせた看護師さんや駅員さんに助けられ、命からがらタクシーに乗り込む。その運転手さんのネームプレートを見て、私は震え上がった。
運転手さんのフルネームが、その生年月日が同じ丁々発止の彼と、同じだったのだ。
このどこまでも続く怒涛のリンク。シンクロニシティ。
まだこの穴は続いている。まだ自分は穴に、落ち続けている。

サインを無視するな。否定するな。
そう言われている。そう思った。
スピリチュアルだとか、それが本当か嘘かとか、バカバカしいとか、もはやそんなものは関係ないのだ。
ただ、疑うな。自分に来ているサインは、無視するな。

恐る恐るその世界を覗き込み始めた私は、自分がインディゴであるか否かそれはとりあえず保留、だけどインディゴチルドレンについて調べ、本を読み、やがてあるHPにたどり着いた。
そこには、
あなたがインディゴチルドレンなのかどうかは、重要ではありません
問題は、たとえインディゴであっても楽に、自由になって楽しく生きることは出来るということです
そのお手伝いをします、
と書かれてあった。
私が本当に知りたかったこと。その答えを知っていると言う。
その人にどうしても会ってみたいと思った。
それが、私が選んだカウンセラーだった。

まるで何かに導かれてた、って今思い返してもそう思う。
そして、初めてカウンセリングルームを訪れた日、今度は携帯のGPSが壊れた。どうやっても地図の通りに辿り着けない。
勇気を出して1時間も電車に乗って、お小遣いをかき集めて、せっかくやってきた生まれて初めてもカウンセリングだ。聞いて欲しいことが山ほどある。
なのになぜか、心の中に閉じ込めたあの人を連想させる看板の前を、私をからかうみたいにぐるぐるぐるぐる、壊れたGPSに行ったり来たりさせられる。
違う。今日はその話じゃなくて。そっちには行きたくない。
これはヤバイな、と思った。
誰にも話すつもりも見せるつもりもなかった。どこまでも、私だけの秘密にするつもりだった。だって誰が聞いたって、私の頭がおかしいってそう言われて終わりだ。
でも、サインは絶対。サインを無視するな。否定するな。
今から初めて会うカウンセラーに、「それを話せ」と言うことなんだな、と理解した。そうしなければ、また帰りの電車の中できっとぶっ倒れる。
それは、ちょっと困る。だって、終わったら次は急いで帰って子供のお迎えに行って…

継続してカウンセリングを受けたいと、トラウマの解除にチャレンジしたいと決心した時、
同時に私は、この心の中に厳重に隠した恋愛感情ですら、本当はただの「トラウマ」の影響であり ’まやかし’ なのだと言うことを認め、いつかこれを手放さなきゃいけなくなる、と気がついた。

向こうはとっくに私のことなんか忘れてしまったのに、私まで忘れてしまったら、
もうこの心の中だけにあるささやかな繋がりすらも切れて、きっと納豆のネバネバが作った薄い糸みたいに、どこかにふわりと消えていってしまう。
本当に、全部なかったことにされてしまう。
いやだ。怖い。手を離したくない。消したくない。
答えは、テレパシーで瞬時に脳みそに来た。

「カナラズ、オモイダサセル」

聞いた瞬間、かっこよすぎて鼻血ふいて膝から崩折れそうになった。

誰だって人生で一度くらい、例えば「長い間、クソお世話になりました!!」とか言ってみたい。
言ってみたいが、そんなことを言うチャンスは現実にはやってこない。
やっぱり生身の人間とは思えない破壊力だ。
私は本当に一体、誰と話してるんだろう?何にすがっているんだろう?

初めてカウンセラーの先生に、彼の存在を白状した時、先生は言った。
「それ、取りましょうか?」
私はギョッとして聞き返す。
「取れるんですか?」
「ハイ、取れますよ」
私は腹部にナイフを突き立てられた人みたいになって、柔和な笑顔を浮かべるカウンセラーを呆然と見つめる。
「いえ、いいです、取らなくて」
私はかろうじてそれだけ言って逃げ帰って、以来先生にその話をするのを怖れている。

先生のモットーは一貫している。「酔わせてたまるか」
私が陰謀論にはまってしまった時も、先生は言った。
「信じるのはいいんですよ、だってある部分では真実だから。だけど、自分の怒りを陰謀論で誤魔化してないですか?」
大切なのは、自分がなぜ怒っているのか、誰に怒ってるのか。なぜ怖がっているのか、本当は、誰を怖がっているのか。それはなぜなのか。
そこをケアしない限り、ループは終わらない。

「潜在意識では離婚したいと思ってない」
その言葉の意味も、カウンセリングを進めるにつれてだんだんわかってきた。
私はものすごく怒ってる。そしてその家そのものをぶっ壊してしまいそうなほどの怒りを放出するのが怖いから、それ以上の巨石の重力ばりの力を加えてそれを抑えてる。だから喉が詰まったようになって動けない。
その押さえつけている恐怖を何年もかけて一枚ずつ一枚ずつはいでいって、最近やっと怒りの姿が見えてきた。怒りがあると、自覚できるようになってきた。
きっとこの怒りが出たら、とんでもないことになるんじゃないか。何が起きるのかは自分でも分からない。だから怖い。そしてあの人に、山姥みたいに髪を逆立てて、ウジ虫を撒き散らしながら怒り泣き叫んでいる自分の姿を見せたくない。
「感知してしまったら、心が壊れるほどの怒りですから。キツイですよ」
って、カウンセラーの先生は言った。
だからまだ、ここで踏みとどまってる。
でも、いつかこの怒りも出し切ってしまうことが出来たら、そこに残るのは。
まだその地点に行ったことはないけれど、ぼんやりと想像はできる。
確かにそこにはもう「離婚してやる」「離婚したい」とかいうパワーは残ってない。
あるのは、「どっちでもいい」とか「なんでもいい」とか「みんな結局同じだったんだ」とかそんなような、ふわふわした可愛い形の軽石だ。
「トラウマを解除した結果、ああ離婚したいな、って思うならすればいいんですよ」
って先生は笑った。
多分、夫に最後に言う言葉は今隠し持ってる罵詈雑言、恨みつらみではなくて、「ごめんね」とか「ありがとう」とか、そんなような言葉なんだろう。

だけどそれを通過するためにはまず、この石をどかさなければ。
私が心の中にまだ何かを、誰かを、隠し持ってることを先生は知っている。
その人にいつか会えるとか、私を救い出してくれるとか、私が夢見てたものをその人が全部与えてくれるかも知れないっていう幻想に依存して、酔っ払って、それでかろうじて立ってることを、先生は見抜いている。

いつだったか、
「先生、私、もしかして鬱病ですか?」って聞いたことがあった。
先生は笑って、「鬱の人はPTAに手、あげない」と言った。
そして、
普通は自分のトラウマを見るなんて、怖くて出来ないんですよ、潜在意識は何が起きるかわかってるから。
もっと、電車に乗れなくなったとか、過食嘔吐とか、家から出られないとか、職場に行かれないとか、本当に追い詰められて初めて、仕方なくカウンセリングに行こうと思うんです。
こんな風に普通に生活できてるのにカウンセリングに通おう、って思うこと自体がすごいんですよ。
そのご自分の尊さを、認めてあげましょうね、って言った。

尊い?
そうなのかもしれない。
でもそれは私が特別強いからじゃなくて、尊いからじゃなくて、私がずっとひっそりとお守りを隠し持っているからだ。
「カナラズ、オモイダサセル」

いつでも心の反対側に逃げ込んできた。そこは、世界一厳しい塾みたいに、いつもやるべき宿題が積み上がっていて、最低限それを終わらせなければ、もう一度会いたいって言う権利すら与えられないような場所。
それでも、その場所があったから、どうしても前に進みたいと思えた。
私はただの、バカで変態で世界一気持ち悪い、しつこいストーカーだ。

最初から、わかっていたことがある。
「カナラズ、オモイダサセル」って、誰が?何を?必ず、思い出させる?
確かなことは何もわからないけれど、1つだけ確かなのは、「思い出させる」ということは、一度これを、「 忘れなくてはいけない」と言うこと。
私は来週、またカウンセリングに行く。
そして先生に言うつもりだ。
「例のアレ、もう取ってください」と。

どれくらい、苦しいのだろうか。
ペットを亡くしたときくらいだろうか。大切な友人を失ったとき?
それとも足を骨折して助けを求めた人に嫌そうな顔をされたときぐらい?
いや、多分もうちょっと痛いかも。

ほんとはせめて死ぬ前にあと一度だけ、遠くから見るだけでもいいから、その人に会いたい。
そう言う悲壮な感じが、なりきって陶酔してる感じが、どうせ自分のトラウマ由来の幻覚なんだともうわかってる。
頑張ったから苦労したから努力したから、誠実であったから貞淑であったから嘘をつかなかったから、だからご褒美が与えられるなんてそんなもの嘘だと、もうとっくに知っている。
それでも、その人が不在なのをいいことに勝手にその人の潜在意識に入り込んでは、そこで私はぬくぬくしてる。

生まれて初めて感じる安心感だった。わかってもらえてる。一緒にいてもらえる。嫌な顔されなくて、助けてって言ったらすぐに、神様みたいな言葉が降ってくる場所。
だけど、こんな居直り強盗みたいなことはもう、やめなくては。
ここを手放すのは死んでしまうより辛い。怖いし、本当はまだ出て行きたくない。
バレてないなら、ご本人が気がついてないなら、本当は一生、ここにいたい。居座りたい。
でも、私はやっぱりトラウマの向こうが見てみたい。前に進みたい。自分の力で生きてみたい。
カウンセラーの、自由に生きられるようになると言う言葉を、カナラズオモイダサセルというあの人の言葉を、自分を、信じてみたい。
なんだか知らないソレを、「思い出して」みたい。

願わくば、何も気がついていないかもしれない御本体さまの人生に、どうかご迷惑がかかっていませんように。
長い間、すみませんでした。大変お世話になりました。
こんな凄いものを、見たことがなかった。こんなにキレイで、こんなに、
私よりも、私みたいな場所。
なんて言っていいか、わからない。
だけど、これを見せてもらっただけで、この苦しくも不思議な時間をもらっただけで、きっと普通の人の何倍も凄い人生だったと、私は自分の生きた時間を誇りに思える。
誰も通ったことのない未知の旅をして来たことを、誇りに思える。

「カナラズ、オモイダサセル」
このお守りは、ここにおいていく。
これを握りしめてたら、忘れたことにはならないから。

最後にその人に会った日のことを、なんどもなんども頭の中で、
事件映像を精査する捜査官ばりに、再生して巻き戻して一時停止してコマ送りして考えてきた。
針の穴を通すような正確さで、私を奈落に突き落とした鮮やかな手さばきを。
あれより1ミリでもズレてたら、あれよりあと少しでも手加減してたら、
きっと私はこの空間に、気がつけなかった。
何度、どの角度から考え直してみても、感謝と尊敬の気持ちしか浮かんでこない。

どうか、ずっと、幸せでいてくれますように。何回も何回も、信じられないほどの幸運がやってきますように。

そして、どうか私がこれから飛び込むそっちの世界にも、
子供の頃からもう一つの心で夢見てきたような、インスピレーションいっぱいの楽しい事が待っていますように。






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