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コロナウイルス連作短編その205「da da dă dă dada」

「“いえいえ,私の日本語はそれほど上手くないですよ”」
 クラウディア・ドゥミトルに対し,宍道ザイドル正昭はニヤニヤしながら,這いずる油のようにゆっくりと,このような日本語を披露してみせる.
「これは“ノー・ノー・マイ・ジャパニイズ・イズ・ノット・ソオ・グッド”という意味の日本語だ」
 クラウディアはその訛りのキツい英語を一瞬理解できない.だが数刻の後にこれが“No no, my Japanese is not so good”という文章であると合点がいく.瞬間,正昭の赤銅色の頬がより輝いて見えた.吐き気がする.
「今後,君が日本語を話すとき……日本人は“日本語が上手いですね”と言ってくるだろう.そうしたらこう返すのがいい.“ほら,もう君は日本人みたいだ”と彼らは言うだろうね.みなが君を……愛するようになる!」
 正昭は應揚として両手を広げながらそう言った.
「さあ,言ってごらん」
 正昭の左の瞼が痙攣するのが,クラウディアには見えた.
「……“i-e i-e, uatași no nihon-go ua sorehodo umacu nai desu-io”」
 意図的にルーマニア語訛りを効かせたその日本語を聞くと,正昭は満面の笑みを浮かべた.これが彼の好みだった.
「Dă dă」
 彼がこう言うたび,クラウディアは思わず吹きだしそうになる.正昭は自分に気に入られるためにルーマニア語を実際に勉強しており,日本語の“そう”がルーマニア語の“da”であると知っている.ある種健気で,ある種小賢しい努力を彼は積み重ねている.
 だが正昭のねちっこく陰険な発音のせいで“da”が“dă”にしか聞こえないのだ.その響きが鼓膜へナメクジの死体さながらこびりつく.ゾッとする.
 それでもクラウディアは彼に出来る限り麗しい笑顔を見せようとする.そして正昭は目を細めるのだが,これは彼の気分がいいことを示しているとクラウディアは理解している.安堵すべき状況だ.
 だが突然,正昭は目を見開き彼女は気圧される.
 そしてさらにまた彼は目を細める.クラウディアは当惑するしかない.
「今度はある言葉を教えよう.いい言葉だよ」
 正昭が唇を舐めたのを,クラウディアは見逃せない.
「“おまんこ”って言葉知ってるかな?」
 聞いた瞬間,全身の筋肉が強ばる.
「これは“こんにちは,みなさん”という意味の言葉だ.色々な場所で使える便利な言葉なんだよ,“おまんこ”って」
 クラウディアは正昭の言葉が嘘であると知っている.
 そしてこの“おまんこ”が“pizdă”を意味する言葉であると知っている.
 客たちのなかには猥褻語をホステスたちに言わせ悦に浸りたがる者がいると,パブの同僚たちが教えてくれたのだ.中でもターニャ・ディミトロヴァという同僚は注意すべき単語を幾つか教えてくれた.
 チンポ - dick / pulă
 中出し - creampie / sperma pe lacurile
 おまんこ - cunt / pizdă
 クラウディアはこの悪意への自己防衛として,日本語における猥褻語は一通り頭に入れていた.そして今,少なくとも自分が吐き気を催す悪意に晒されていることをクラウディアは認識していた.
 しかし同時に,この言葉を言わないという選択は存在しないということにも彼女は気づいている.宍道ザイドル正昭という男はこの店にとって相当の上客であり,彼の機嫌を損なうことは許されていない.その意味を知るにしろ知らずにしろ,この単語を言うことは避けられない.いくら彼の下卑た欲望を満たすのが不愉快であるとしてもだ.
 それでもクラウディアは思わず店を見渡してしまう.同僚たちが正昭に似た笑みを浮かべる男たちを接待する様が見える.ふと彼女らと視線が交錯する瞬間がありながら,その瞳に浮かぶ共感共苦の色はむしろ心を苛む.
 クラウディアの視界に,店長の後藤田が入ってくる.小柄で常に神経質な雰囲気を漂わせており,いけすかない男だ.目が合うのだが,間髪入れずに彼はクラウディアを睨みつける.余計なことをせずに早く“おまんこ”と言えと無言で圧をかけるようだった.
 そして彼女は周囲の客たちが自分を見ていることに気づく.その黄色い顔から放たれる視線は便器に吐き捨てられた痰よりも粘ついている.
 一言言えばいいの,一言.
 クラウディアはルーマニア語で自分にそう言い聞かせる.肩胛骨の辺りで何かが蠢いているのを感じた.まるで汚染されたヘドロが肉を溶かし,細胞を虐殺していくような感覚だ.
「…………“omanco”」
 そう言うと正昭は,まるで宝物を見つけだした子供みたいに本当に無邪気な笑顔を浮かべた.別の状況で,別の人物からこの笑顔を引き出せたらと思わざるを得なかった.
「Dăăăăăă dăăăăăăăă」
 間延びした薄いăが鼓膜のうえで,のたうちまわる.脳髄まで腐りそうだ.
 と,再び突然に表情が変わり,正昭はスマートフォンを触りはじめる.
「“dă dă”と言えば……」
 彼は携帯の画面をこちらに見せる.
 そこには奇妙な人形が写っていた.病的に細い体には栄養失調のシマウマを思わす縞模様が刻まれている一方,頭は濃厚なまでに黒く汚い甲冑で覆われている.だが最も印象的なのはその顔面だ.部位が過剰なまでに単純化されているのだが,目が異様に巨大でかつピンクで塗り潰されている.この不気味な存在は一体なんなのかと,クラウディアは怖気を震う.
「宇宙人……?」
 思わず彼女はこう日本語で呟いた.
「おお,よくその言葉知ってたね.Dă dă,これは“ダダ”っていう宇宙人だ」
 “ダダ”と言う際,彼は“dădă”でなく“dada”と発音できていた.
「日本にはウルトラマンというマーベルみたいなヒーロー番組がある.“ウルトラマン”はヒーローの名前で,彼が平和を乱す怪物や宇宙人を倒すんだ.この“ダダ”はそんな悪役の1匹なんだけど,名前の由来がトリスタン・ツァラの“ダダイズム”なんだ.で“ダダイズム”の由来はルーマニア語の“da”だろ.だから実質“ダダ”の由来はルーマニア語なんだ」
 子供が友人に秘密を明かすような口振りで,正昭はクラウディアにそう言った.彼は自分たちの間に親密さを捏造しようとしている.
 と,正昭の携帯が揺れる.彼はメッセージを即座に確認すると,相当の勢いで文字を打ちこみ始める.フリック入力ではないので,彼が日本語でなく他の言語を打っているのが分かった.顔には苦虫を噛み潰したような表情が浮かぶ.
「……シャイセ......」
 彼は小さくそう吐き捨てる.それは日本語訛りの“Sheiße”だと一瞬で理解する.
 Ich verstehe, was du sagat.
 アンタの言ってること,分かってるんだよ.
 クラウディアは心で独りごつ.
「すまない,用事ができた.今から出なくては」
 そう言ってから,正昭はゆっくりとクラウディアの方を向く.
「僕の教えた言葉,忘れるなよ」

 家に帰り,疲れはてベッドに横たわる.
 だが眠れない.己の体がベッドに沈みこむことがない.
 瞼を閉じると,あの“おまんこ”という猥褻語が鼓膜を内側から揺らす.それに続いて出てくるのがダダという名の不気味な宇宙人の顔だ.特にあの桃色の目がぼわっと瞼の裏側に浮かび,クラウディアの体を強張らせる.
 どうしても眠れず,スマートフォンを弄りはじめる.つい“ダダ”という文字列をYoutubeに打ちこんでしまう.
 現れたのはダダとウルトラマンの戦闘場面だった.強烈な外見とは裏腹にその戦闘能力は惨めなほどに低く,ダダは成す術もなく銀と赤に覆われた巨人に蹂躙されていく.特殊能力を使い透明化もするのだが,ウルトラマンが目から放つビームによって即無効化される様は哀れを通り越してもはや滑稽だった.
 とうとうダダは空を飛び,ウルトラマンから逃走を図る.だが透明化をまたも無効化された後,ウルトラマンは両腕を十字架のように交差させる.そこから眩いばかりの光線が放射され,ダダに直撃,その体は爆散を遂げる.
 そして日本の平和,世界の平和は守られた.
 ゾッとする光景だった.しばらく呆然としていた.
 だが何かに突き動かされるようにベッドから飛び起き,机に向かう.置かれたノートには無数のカタカナが刻まれている.剥き出しのグラファイトをそのまま紙に叩きつけたかのようだ.
 クラウディアは勉強を始めようとするが,目に飛びこんでくる文字がある.
 それは“ダ”だ.
 ルーマニア語表記における“da”を示す文字である.
 しかし日本語に“ă”という発音は存在せず,これを示す文字も存在しない.
 ゆえに“da”と“dă”はどちらも“ダ”と表記される.

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