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コロナウイルス連作短編その61「糞社会」

 精神科医なんてビチグソばっかだな。
 升路岱は腰を擦りながら、そう思う。腰の右側が凍てついた炎で燃えるような痛みに晒されていた。鋭くはない、鮮やかでもない、鈍重で濁った炎によって肉がゆっくりと焼かれている。低温火傷、その言葉がしっくりくるように岱には思える。
 痛みへの苦痛が精神科医への憎悪を煽りたてる。舛添昭というその医師は岱を自閉症スペクトラム障害と診断するが、この精神疾患への対策をキチンと指南してくれていないと岱は考える。究極的に自閉症スペクトラムは病ではない故に治すということはできない、だから共に生きていくしかない、だがどうやって? 岱はこれが知りたいのに、昭は口を濁す。岱自身、これを問うに必要な言葉を自分自身で紡げていないと思えたが、彼は口から発話される言葉を信頼しておらず、喋ることや会話することに恐怖と軽蔑を抱いている。自分にも責任があることは重々承知で、だがその状態の患者から何らかの言葉を引き出すことこそが精神科医の仕事ではないかと岱は一方的な不信を抱く。それは昭への個人的な不信から"精神科医"という概念そのものへの普遍的な不信へと変貌しようとしている。そして鞄には彼から処方された薬が入っているが、これを飲んで希死念慮や世界への憎悪が減じられたとは到底思えない。生きづらさは果てしないままだ。致死の憎悪は銀河で在り、宇宙で在り、それ以上の無限だった。
 緊急事態宣言以後も、街には未だに人々が溢れている。皆がマスクは着けていながらも、この犇めきは脅威以外の何物でもない。急いで駅に行き、家へ帰りたい、例えそこが自分の精神を全く理解しない両親によって経営される監獄だとしてもだ。岱は自然と速足になるのだが、彼の瞳にとある風景が投げこまれる。人間の汚れた犇めきからは遠く隔たったベージュの無垢な壁、なぜこんなものが都市の真っただ中で汚れずにいるのか疑問に思える。そしてその壁の前に車椅子に乗った青年がいる。コートを着込む一方で、平つばを後ろに向けながらキャップを被っている。黒地に白い文字で"CHAOS"と書いてあるので、その破滅的なダサさに岱は思わず苦笑する。
 突然、青年が地面から何かを持ちあげる。スプレーだった。そして彼は一気呵成に文字を書いた――糞社会。極太の黒文字は異様な存在感を発揮しながら、岱の網膜へと殴りかかる。不快な気分になった。だが目が離せない。その後彼は車椅子で器用に動き回りながら、様々なスプレーを使っていわゆるグラフィティを描いていく。"糞社会"という文字以外は頗る抽象的な色彩の饗宴といった風で、そこからは青年の才気が煥発していた。抽象画、そんな言葉が思いうかんだ後、岱の頭にはジャクソン・ポロックという名前が思いついたが、それ以上は何の名前も現れない。ニューヨークで活躍した黒人のグラフィティ作家、そんなイメージも現れるが彼の名前は思い出せない。そして文化資本の貧相な自身を恥じる。
 青年の周囲には自然と人だかりができていたが、その人ごみを突き抜けて、2人の警察官が現れる。片方は異様な肥満体型であり、もう1人はまるで未来派の残像のような口髭を蓄えていた。警察官は青年がグラフィティを書くのを止めようとするが、彼は腕を荒々しく振りほどこうとする。徐々に警察官の力も頑なになっていくのだが、そこに違和感がある。岱はネットの動画で、辺野古の基地建設に反対する人々や何の罪もないが"怪しそうに見える"外国人に対して、驚くほど暴力的な態度を取る警察官を何度も見た。だがここにおいて警察官は青年にどう対応していいか考えあぐねているようなぎこちなさがある。その理由が岱の頭にはすぐさま浮かぶ。青年が車椅子に乗っている、つまりは身体に障害があるとハッキリ伺える、これだ。岱には根拠のない確信がある。その後も割あい穏便に警察官は青年に対応し、足掻く彼を優しく宥めながら、肥満の警察官の方が車椅子の後ろに回り、それを押すことになる。まるで心優しき介護者といった風に。
 身体のガイジは得だよな、精神のガイジと違ってさ。
 岱は3人の後ろ姿を見ながら、心のなかで吐き捨てる。
 もし俺が落書き書いてたとして、警察官がああやって対応するか? しないだろ。暴力と恫喝で追い詰めて、強制的に交番に連れてくんだろう。例え俺が「自分は自閉症スペクトラム障害なんです」とか言ったり、首から精神障害者マーク、なんて物が存在してたらだが、かけてても、心のなかでせせら笑いながら俺をボコボコにするんだ。でもアイツはどうだよ、VIP待遇じゃねえか。見て分かる障害持ってる奴はお得だよな。周りの人間が助けてくれる、権利を主張すればバリアフリーが実現、警察だって守護天使になってくれる。精神のガイジなんて幾ら障害があるって言っても理解されず馬鹿にされて、側溝の泥水啜らされるだけだ。親にすら無能なキチガイ扱いされる、いや親にこそ最も軽蔑されるんだ。自分の精子と卵子で俺を生みやがったのに。精神障害者は自閉症の奴らみたいに、顔のパーツが中央に寄ってる知障顔にならない限り、障害者だと思われないし心配はされない。俺は違う、健常者に薬と医師の診断書を見せて長々と説明義務を果たして、初めて障害者になれるんだ。俺は生まれた時から障害者なのに。
 脳髄をめぐる血管がブチブチと破裂するのを感じながら、岱は未だに彼らの後ろ姿を眺めている。そこに何か既視感を抱いていた。そしてふとした瞬間に、あるイメージが思い浮かぶ。岱は教室の椅子に座っている。前の方に車椅子に座って、机に向かう少年がいる。これは小学生の時の記憶だと岱は思う、だが真偽はハッキリしない。当時岱の小学校に車椅子の生徒が通うのに必要な設備、例えばエレベーターなどが備えられていたか、岱は全て忘れている。だがこの風景は真実味を以て、今の岱に迫る。
 彼はひたすら消しゴムで紙を擦り続け、消しカスを作っていく。そのカスを纏めて大きなカスの塊を作りあげる。人差し指に吸いつく粘着質なカスの触感は小学生の岱を高揚させる。そしてカス自体は消しゴムと同じ白でありながら、他のカスと合体し大きくなっていく度に妙な黒に染まっていく。その黒の源が何か分からないことが、岱の知的好奇心を刺激するのだ。ある程度まで大きくなった塊を見ながら、岱は大いなる達成感を覚える、富士山を踏破した時に味わう感覚と同じようなものだと彼には思える。
 消しカスの塊をしばらく眺めた後、岱は車椅子に座る少年の後頭部を見た。短すぎる髪は幼稚すぎるもので、岱はそのセンスに軽蔑を覚える。髪を包む黒の色彩も弱弱しいもので、すぐにでも毛根ごと全てを引っこ抜くことができるように思える。その貧弱な頭皮に、岱は思いきり消しカスの塊をブン投げた。見事に頭部に当たり、少年は驚いて周囲を見渡す。一部始終を見ていた周りの生徒たちは忍び笑いを厭味たらしく響かせる。少年はそれに気づきながらも、もちろん状況を収拾することはできない。恥だけが無音で、急速に膨れあがる。車椅子に座ったまま少年は泣きはじめた、ダセえよと岱は思った。今すぐ立ちあがってその弱い頭をブッ叩いてやりたい。
 岱の後頭部に何かが当たった。何度も当たった。振り向くと2人の少年が消しカスの塊を投げていた。岱は既に気づいているのに、彼らは投げるのを止めない。そのうちカスの塊は岱の顔に当たる。周囲の生徒たちは、今度は忍び笑いでなく露骨なまでの哄笑を響かせる。周囲の生徒たちが笑っていた。教室中の生徒が笑っていた。教師も一緒に笑っていた。他の教室でも皆が笑っていた。学校中の人々が笑っていた。町の住民全員が笑っていた。都市そのものが笑っていた。日本が笑っていた。世界が笑っていた。地球が笑っていた。宇宙が笑っていた。全てが笑いを抑えることができなかった。だが岱の瞳に映るのは少年の後頭部と車椅子の背もたれ、ただそれだけだった。

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