ルーマニア語を学ぶ方法

 この日、舞岡憲児が呼んだデリヘル嬢はいつも呼んでいる女性ではなかった。彼女は不在だったからだ。最初は心配だったが、実際会ってみると写真よりも綺麗なので安心した。先にシャワーを浴びにいき、ぺニスを念入りに洗う。その時、自分の太鼓腹が目についた。爆発寸前の腫瘍のように惨めな有り様だった。憲児はそれを一発叩いてみる。ただ痛いだけで、凹むことはなかった。いっそ爆発してくれればいいのにとぼんやり思った。
 そしてセックスが始まった。耳を噛んでもらったり、乳首を舐めてもらったり、背中に乳房を押しつけてもらったり、ヒカリという名のデリヘル嬢にして欲しいことをしてもらう。彼女はなかなか上手かったのだが、唯一フェラチオだけは下手くそだった。ぺニスに小石のような歯が当たるのだ。ゴムをつけているのに痛みを感じる。
「痛いよ。もうちょっと優しく舐めてくれよ」
「ごめんなさい」
 だがヒカリのフェラチオは改善しない。彼女は外れだと憲児は思った。心の中には苛立ちが募っていく。そしてあろうことか、ヒカリは憲児のぺニスを噛んでしまったのだった。これには憲児も怒った。
「何してんだよ、いったい!」
「ごめんなさい」
「お前、ごめんなさいしか言えないのかよ!」
 一瞬、憲児は語気を強めたことを後悔する。だが怒りは十代の射精のように噴出してくる。憲児は自身のぺニスを握ったままのヒカリに説教した。何故デリヘル嬢なのにフェラチオすら上手くできないのか? 何故お前のような下手くそ女が雇われているのか? 親がこの仕事を知ったらどうする? 絶対に悲しむことを知りながらデリヘル嬢を続けているのか?
 そうやって説教を続けている中で、憲児は自分の娘である田村琴梨のことを思い始めた。今は大学に通っており、元妻である田村郁子の元で暮らしている。学費は自分たち両親で払っている。だがもし払えるほど余裕がなかったなら、琴梨もまたデリヘル嬢として学費を稼いでいたかもしれない。ヒカリは琴梨と同世代と感じた故に、なおさらその思いが強まる。そして憲児は自然とそのことについてヒカリに話していた。こんな仕事は止めて"まっとうな"仕事に就いて欲しいという願いからだ。ヒカリはぺニスを握りながら、俯いていた。
 結局、射精はできなかった。
 その日の夜、憲児は寝つけなかったので、焼酎を飲んだ。酩酊するうちに、脳髄がふやけてくるのを感じる。気分が良くなってついつい焼酎を飲み続ける。だが、ふと自分がたった独りで焼酎を飲んでいるという寒々しい事実が彼に迫ってきた。琴梨に会いたかった。熱い寂しさがこみあげてきて、思わず酒を煽った。そのうち気分が悪くなり、トイレに駆けこんでゲロを吐いた。ゲロの中では、この日食べた鮭の刺身がグチャグチャになっていた。便器に横たわりながら、その心地よい暖かさに触れて、憲児は泣いた。口の中へ涙の滴が入ってくる。涙とゲロが混ざりあって、全く奇妙な味がした。憲児は独りでずっと泣き続けたんだった。
 
 翌日、憲児は二日酔いのままで一会社員として営業に出かける。駅に向かううち、とめどなく汗が流れ出てくる。汗の粒がワイシャツにひっついて居心地が悪い。だが自分の意思では汗を止めることができない。通行人の中でも一人だけ汗まみれになっている自分の存在が恥ずかしかった。
 電車に乗って、パソコンでメールを確認している途中、ふと鼻に濁った悪臭が届くのに気がつく。周りから匂ってくるのかと思うのだが、もしかしたら自分が悪臭の元ではないかと思い始める。さっき噴出してきた汗のせいだ。悪臭は雑菌が繁殖するようにどんどん酷くなっていく。そのせいでメールの文面に集中できない。それどころか、周りの人間に自分の臭いが届いているのではないかと不安になった。こんなことなら脱臭スプレーを持ってくれば良かったと後悔する。
 取引先に行く途中、コンビニやドラッグストアを探したが、今回に限って見つからない。神の悪戯に憲児はイラついた。だが遅刻する訳にもいかない。彼は会社に赴く。商談の間、ずっと臭いが気になった。個人的な体感においては鼻が捻れるほどの悪臭ではないかと思った。目の前の男たちは和やかな笑顔を浮かべている。だが心の底では、この悪臭クソ野郎とでも思っているのではないか。それが怖かった。
 夜、彼は飲み会へと赴く。後輩たちがビールを飲みながら何か騒いでいた。若い社員の一人がイタリア人女性とセックスをしたらしい。それを聞いて周りの男たちは沸き上がっていたが、憲児は特に興奮することはなかった。むしろ昨日のデリヘル嬢との一件を思い出して、暗澹たる気持ちになった。自分は性的に惨めな経験をしながら、彼は良い思いをしている。少しイラついたが、それだけだった。しかし男たちは興奮を隠すことがない。この空気を壊したくないと思った。その思いは何て日本的なのかと思い至って恥ずかしくなる。だが憲児は男たちと一緒にジョッキを上に掲げる。
「乾杯!」
 若者がそう言って、空間が興奮に湧いた。そんな光景を憲児はどこか遠目で眺めていた。
 帰り道、電車に乗りながら時間を過ごす。深呼吸をしながら辺りを見回していると、妙な光景が目に入った。三人の男が一人の女性を電車の脇に追い詰めているのだ。彼らは何もない風を装いながらも、女性は挙動不審に周りをキョロキョロと見渡している。不思議に思いながらそれを見ていると、男の一人が女性の胸を触った。それに続いて後の二人も彼女の身体を触る。これは痴漢行為だと憲児は直感した。彼女は静かにあの男三人に襲われているのだと。憲児は彼女を助けに行こうと思いながら、周りにいる乗客が誰も彼女のことを助けに行かないのを見て躊躇ってしまう。
 何で、自分は席から立てないんだろうか?
 苛立たしさと共に、そんなことを考える。そのうち電車が駅に着いて、女性は逃げ出していく。男たちは楽しそうに会話を始めた。憲児は彼らを睨みつけることしかできなかった。

 仕事が早く終わった日、彼は新宿の映画館に向かう。彼は暇な時は映画を観ながら過ごすのが好きだった。大学時代はいわゆるシネフィルで、フランス映画から中国映画、コメディからホラーまで片っ端から観て、仲間たちと議論を戦わせていた。自身、映画監督を目指していた時期もあり、何本か短編を作ったこともある。しかし時は流れて夢もいつのまにか萎んでいき、彼は普通のサラリーマンになった。それでも余暇に映画を観る習慣は続いていた。
 この日観るのはカンヌ映画祭で話題になったという映画だった。それ以外には情報を知らずに、観ることを決める。フカフカの椅子に座って、空間が闇で満たされるのを待つ。この時間は静かながら素晴らしく興奮する時間だった。そして映画が始まる。物語の主人公は一人の中年男性だ。彼の娘は大学の入学試験を控えていたのだが、暴漢に襲われて参加が危うくなる。ゆえに主人公は娘を合格させるため、あらんかぎりの方法を使う。賄賂や汚職などの卑劣な行為すらもだ。今作はそんな父親の姿を冷徹なリアリズムで描き出す。主人公に共感の余地などないように思えたが、憲児は娘のために全てを犠牲にする主人公に対して涙が零れそうになった。自分ももし琴梨がひどい目に遭ったのなら、ああして全てを犠牲にするだろう。だが今は琴梨に会うことすらもままならない。そんな自分が惨めになった。
 そうやって心を掻き乱される一方で、不思議に思うこともあった。この主人公たちが喋っている言語は一体何だろうか? 言葉自体はイタリア語やスペイン語に似ているような雰囲気がある。だが響きはむしろロシア語などに近い。その響きはまるで小さな石の数々がコロコロと転がるような感じだ。今まで聞いたことのない言語は、憲児にとって奇妙であると共に魅力的でもあった。
 家に帰って調べてみると、この作品はルーマニア映画だということが分かった。ルーマニアという国名を聞いたことはあったが、どんな国であるかは全く知らない。だが彼はチャウシェスクという名前を思い出した。小さな頃、彼が処刑される場面を親と一緒にテレビで観たことがあるような気がした。だがそれ以外は本当に何も知らない。
 憲児はGoogleで検索してみる。ルーマニアは東欧の一国でバルカン半島に位置している。芳醇なワインと恐ろしいドラキュラの国、EUに所属してはいるがその中でも最も貧しい国の一つ……
 憲児はルーマニアの言語について調べてみる。公用語はルーマニア語、イタリア語やフランス語などと同じロマンス語に属しているが、ブルガリアなどの周辺国に影響を受けてある程度スラブ化している珍しい言語である。
 おはよう:Bună dimineața
 こんにちは:Bună ziua
 こんばんは:Bună seara
 ありがとう:Mulțumesc
 私の名前は~:Mă numesc~
 よろしくお願いします:Îmi pare bine de cunoștință
 憲児はカタカナに従ってそれを読んでみる。ブナ・ディミニャツァ、ブナ・ジワ、ブナ・セアラ、ムルツメスク、マ・ヌメスク、ウミ・パレ・ビネ・デ・クノシュティンツァ……
 全く聞き覚えのない言葉の数々は、憲児の心を高揚させてくれる。

 ある日、会社に新入社員がやってきた。驚くべきことに彼は外国人だった。
「こんにちは。ぼくの名前はドラゴシュ・オルテアヌです。よろしくお願いします!」
 更に驚いたことに彼の日本語はとても流暢だった。発音は少しだけ奇妙ながら、他は完璧だ。自己紹介もユーモアを交えた軽妙な雰囲気が同僚たちに受けている。彼は一瞬で人々の信頼を獲得したようだった。そして憲児もその中の一人だった。だがそれはドラゴシュの自己紹介が上手かったからだけではない。彼は自分の出身をルーマニアと言ったのだ。その瞬間、憲児の頭に浮かんだのはブナ・ジワという言葉だった。こんな偶然があるなんてと憲児には全くの驚きだった。
 彼は日本語が流暢であるだけでなく、性格も明るいのですぐに同僚たちに好かれた。ずっと誰かと話しているので、憲児には喋りかける余地がなかった。それでも偶然帰り道が一緒だったので、勇気を出して喋りかけてみた。
「やあ、えーっと、ドラゴシュくんだよね」
「はい、そうですよ。でもドラゴシュだけで大丈夫ですよ」
 彼は朗らかな笑顔を浮かべた。
「そうか、じゃあドラゴシュ……」
 緊張して、憲児はお尻を掻いた。だが肉をつねって勇気を奮い立たせた。
「マ・ヌメスク・ケンジ・マイオカ。ウミ・パレ・ビネ・デ……えーっと、このあと何だっけ」
 ふとドラゴシュの方を見ると、その顔には驚きが溢れていた。まるでバズーカを突きつけられた鳩のような顔だった。
「ルーマニア語喋れるんですか?」
「いや、いやいや。ちょっと知ってるだけだよ。ちょっとね。えっと、今は夜だから……ブナ・セアラ、で合ってるかな」
「そうです、合ってますよ。いやあビックリですね。ルーマニア語が分かる日本の人に初めて会いましたよ」
 彼の笑顔は琥珀のように明るく、憲児まで嬉しくなった。
 これがきっかけで憲児はドラゴシュと仲を深めたのだったが、それがきっかけかドラゴシュの教育係に任命されることになった。憲児は彼を取引先の会社まで連れていき、懇意にしている社員たちに紹介していく。ドラゴシュは流暢な日本語と持ち前の明るさで以て、彼らの心を瞬く間に掴んでいく。外国人であることを利用して、うまく会話を積み重ねていく話術が彼にはあったのだ。日本でここまでできるのだから彼はルーマニアじゃ特別に優秀だったんだろう、憲児はそう思った。
 そんなドラゴシュの身の上が少し気になり、午後になって憲児は彼を喫茶店に連れていく。
「どうかな、仕事の感触は?」
「いいと思います。皆さん優しいですし、手応えはありましたね」
「いいね。その調子だよ」
 しばらく他愛ない会話をしてから、ドラゴシュがどうして日本に来たのかを訪ねてみる。
「ぼくはトランシルヴァニア地方の小さな町で生まれました。自然が豊かで、特に森の神秘的な雰囲気といったら素晴らしいです。そこで子供時代を過ごして、それ自体は楽しかったんですが、両親はここの生活に少し危機意識を抱いてました。村はとても貧しかったんです。そしてぼくに"ここに未来はない。ブカレストに行って可能性を見つけ出せ"と言いました。その通り、ぼくはブカレストの大学に通うことになりました。だけど……この都市での生活はぼくには合いませんでした。説明は難しいんですけど、町はものすごく息苦しくて孤独に満ちていました。それでぼくは鬱に陥ってしまったんです。ほとんどひきこもりみたいな状態になってました。ぼくを送り出してくれた両親を思うと、申し訳なさで泣き続けるほどでした。でもその時に希望となってくれたのがアニメだったんです。そのファンタスティックな世界を見ている時は、絶望を忘れることができました。そして思ったんです。こんなアニメが生まれた国で生きることができたら、どんなに素敵なんだろうと。そこから死ぬ気で日本語を勉強しました。それで……まあ色々あって、こうやって日本で本当に生きてるわけです」
「すごいな、ドラゴシュは。すごいよ、本当」
「いや、そんなすごくないですよ」
「そうやって謙遜するあたり、完全に日本に浸ってるって感じするよ」
「はは、そうですか?」
 ドラゴシュは笑いながら頭を掻いた。

 この日は琴梨と会える数少ない一日だった。彼らは渋谷で待ち合わせをして、まず109へと向かう。彼女はたくさん服が買いたいとお願いしてくるので、憲児は言われるがまま買ってしまう。だがその時に浮かべる、彗星のように輝いた笑顔は憲児にとって唯一無二のプレゼントだった。その後は、琴梨の好きなサーティーワン・アイスクリームを食べにいく。甘いものを食べている時の琴梨はことさら可愛かった。
 こうして琴梨がしたいことをした後は、憲児がしたいことをする。自宅に戻ると、彼は琴梨にDVDのジャケットを見せる。
「今日観る映画はヴァレリオ・ズルリーニだ!」
「ふうん……」
 琴梨はいつものように興味なさげだった。憲児も彼女はフェリーニやゴダールなどの芸術映画が好きではないことを知っていたが、あの手この手で好きになってもらいたいと思い、会った時は毎回芸術映画を見せていた。
「もっと、ポップコーン食べながら観られる映画ないの?」
 これもいつも聞くセリフだった。彼女は例えばMarvelやザ・ロックが出る類いの映画などが好きだった。彼氏ともそういう映画ばかりを観ているらしい。憲児はそんな空っぽな娯楽映画に琴梨を取られたくはなかった。
 そして映画が始まった。内容は青年と年上の女性との悲恋だった。彼はこのイタリア映画が大好きで、年に何回も見直すほどだった。
「このヴァレリオ・ズルリーニって監督はな、イタリアで最も過小評価されてる映画監督なんだよ。この時代は現実に即した演出が評価されるネオ・リアリズモの時代だったから、メロドラマを多く作る彼は評価されなかったんだ。しかも彼は性格がかなり気難しかったらしくて、プロデューサーたちと何度も衝突したらしい。その末にたった9本しか作品を作れず亡くなってしまったんだ。だけど彼の作品は全部傑作だよ。特に『国境は燃えている』と『タタール人の砂漠』それからこの『鞄を持った女』は映画史に残る傑作だよ。俺的にはこの作品が一番思い入れあるんだが、それが何でかっていうと……」
 憲児は言葉を続けようとするのだが、いつの間にか琴梨が眠ってしまっていることに気づく。それを残念に思いながらも、憲児は彼女にタオルケットをかけた。そして彼は映画を観続ける。モノクロームの映像の中で、思春期の青年と身持ちの悪い女性のぎこちなくも美しい愛が紡がれていく。観るたび、彼はその清らかさに言葉を失った。そのうち彼の一番好きな場面がやってくる。決定的な別離の予感の中、砂浜で二人はキスをする。その時に淡くきらめく光が、憲児は好きだった。
 その場面を見てもらおうと、思わず琴梨を起こそうとする。
「おい、最高だぞ。この場面は!」
 だが彼女は不機嫌そうな表情を浮かべて、唇を舐めた。それから携帯を見るのだが、瞬間に表情が明るくなる。
「浩樹が会いたいって。だから帰る」
 浩樹というのは琴梨の恋人のことだった。露骨なまでに幸せそうな彼女の姿に、憲児はイラつく。だが彼女は部屋から出ていき、独り取り残されてしまう。彼は映画を観続け、いつも通り涙を流した。

 憲児はドラゴシュに誘われて、ルーマニア料理を食べに神保町へと赴く。ここには憲児がかつて通っていた大学があり、その街並みに懐かしさを感じた。ナデジュデという名のレストランは神保町駅のすぐそばにあった。
「ナデジュデっていうのはルーマニア語?」
「ええ、そうですよ。"希望"という意味です。そして信頼という意味も込められていますね。あと昔、ソフィア・ナデジュデという小説家もいました。とても偉大な人物で、彼女の名前を冠した文学賞もあるくらいですよ」
「へえ……」
 中に入ると、まず耳に入ったのは朗々たる音楽だった。おそらくルーマニアの民族音楽だと思う。軽快で明るく、気分が弾むような響きをしている。ルーマニア料理への期待も高まっていく。ドラゴシュは店主らしき中年女性とハグをして、会話をする。どうも彼は常連客らしい。周りを見渡すと、ルーマニア人らしき人々も多い一方で、褐色の肌をしたアジア系の人々もいる。客は多国籍らしい。
 テーブルで他愛ない会話をしながら待っていると、料理とワインがやってきた。ドラゴシュはルーマニア語で感謝の言葉を口にする。ムルツメスク、前に見た言葉だった。
 乾杯をしてから、まず憲児はパプリカの肉詰めを食べてみる。トマトスープを吸ったパプリカはとても肉厚で、食べごたえがある。中の挽き肉は香ばしく、旨味が口の中へと豊かに広がっていくようだった。そしてサワークリームをつけて食べてみると、酸味とコクのおかげで美味しさが倍増した。それを味わいながら、赤ワインを飲んでみる。最初は甘みが柔らかく広がりながら、後からスパイシーな刺激が浮かび上がり、とても格調高い。フランスやスペインのワインとはまた違う美味さだった。
 次はウィンナーをポテトサラダやピクルスと一緒に食べてみる。血の色が濃厚な野性的な見た目をしている。口に入れてみると、重厚な拳撃のような濃厚な味が爆ぜてくる。かなり塩味が濃く、舌にガツンと来た。
「このウィンナー、味が濃厚で美味しいよ」
「そうですか? よかった! でもこの味は上品な方ですよ。ブカレストのウィンナーはもっと味が濃いですよ」
「ホントか? そりゃ興味深いな」
  そうして会話をしながら、憲児たちは食事を楽しむ。ひと段落した後、彼はハーブティーを飲んで落ち着く。ソカタという花から出来ているという。静かに身体へと染み入る優しい味だった。その時ふとテレビの方を見てみると、映画が放送されていた。色とりどりの扮装をした人々が狂喜乱舞している、楽しげな映画だ。
「ドラゴシュ、あの映画知ってるかい?」
「もちろん知ってますよ。ヨン・ポペスク=ゴーポの『もしぼくが白いムーア人だったら』ですよ。ルーマニアではとても有名なファンタジー映画です。」
「そんなに有名なのかい?」
「そうですね。共産主義下のルーマニアでは三つのジャンル映画が流行りました。コメディもの、歴史もの、そしてファンタジーものな訳です。そして中でもこの『もしぼくが白いムーア人だったら』と『ヴェロニカ』は、ルーマニア人の子供だったら絶対に観てます。共産主義真っ只中に生まれた子供も、共産主義が終わった後に生まれた子供も。ぼく含めてですが」
「そりゃ面白いなぁ」
「ぼくも好きですよ、結構」
 ドラゴシュは笑った。
「君は映画好きなの?」
「好きですよ。何でも観ますね。娯楽映画から文芸映画まで」
「じゃあゴダールとかアントニオーニとか好き?」
「好きですよ。特に『気狂いピエロ』や『勝手に逃げろ/人生』とか『女ともだち』や『欲望』が好きですね」
「本当に? 最高だな君は! さてはシネフィルってやつだな」
「いやいやそこまでは観てませんよ」
 そうは言いながら、ドラゴシュは頗る映画に詳しく、憲児も驚くほどの知識量を誇っていた。会話は弾み、彼らは場所を変えることになる。そこは瀟洒な闇に満たされたバーで、ドラゴシュの行きつけらしかった。彼はバーテンダーの女性に話しかける。彼女も外国人に見えたが、ルーマニア語で話したのには驚いた。彼女もルーマニア人らしい。ドラゴシュはリラックスした表情を浮かべていて、その姿を見るのはとても喜ばしいものだった。
「舞岡さん、この女性はアレックスというんですが、彼女も映画に詳しいんですよ。しかも映画の名前を言うとカクテルを作ってくれるという」
「こんばんは、まあそんな感じで作りますよ」
 アレックスもまた日本語が流暢なので、憲児は驚いた。
「ああ、じゃあトリュフォーの『アメリカの夜』は?」
「オーケーですよ」
 そして出されたカクテルは美しい群青色に小さな星が煌めくようなものだった。飲んでみると豊かな甘みが口の中へと広がっていく。それは愛としか形容しがたいものだった。憲児は嬉しくなって、映画について話し始める。大学時代の夢についても話した。ドラゴシュとアレックスは愉快げにそれを聞いてくれた。二人のルーマニア人に個人的な事柄を話すのは不思議な気分だった。同時に、日本にもこんなにルーマニアという国出身の人々がいるのだなと思った。そしてそれが無性に喜ばしいことのように思えた。

 憲児はドラゴシュともっと中を深めたくなり、本屋でルーマニア語のテキストを買ってきた。帰り道、心がとても踊った。
 だがルーマニア語は簡単なものではないというのにすぐ気付いた。まず彼を苦しめたのは名詞だ。大学でスペイン語を習っていたので、男性形と女性形というのは何とか理解できる。だがそこに中性形というのが加わっているのが難儀だった。câine(犬)は男性形でfloare(花)が女性形、そしてtren(電車)が中性形。ここに規則性は存在しているのだろうか。初心者の憲児にはまだ理解できなかった。しかもこれによって不定冠詞をつけるにも複数形を作るにも、やり方が変わってくる。これはなかなかの難関だと憲児は思う。
 だが更なる試練として立ちはだかったのが定冠詞の問題だ。全く理解できなかったのが、ルーマニア語において定冠詞は名詞の語尾につけるということだ。câineならcâine"le"、floareならfloare"a"、trenならtren"ul"になる。これが理解しがたい。英語の"the"とは比べものにならないほど難しいし、そもそも定冠詞は日本語には存在しないので、この概念自体が理解するのは難しい。今まで勉強した言語とは全く異なる言語だと憲児は思った。だが同時に、高い壁に立ち向かうゆえの楽しさも心の中に湧き上がってくる。もっと勉強しよう、そう思いながら彼はルーマニア語の文章を音読する。
 アア、アキラ! ビネ・アイ・ヴェニト!
 ブナ・ジワ、マリア。
 ウツィ・プレジント・イリナ。
 ウンクンタト・デ・クノシュティンツァ。
 アコロ、ルンガ・ビロウル・デ・インフォルマツィイ・スント・タタ・シ・ママ。
 マ・ヌメスク・ヤマモト・アキラ。スント・ディン・ジャポニア。
 ムルツメスク・ペントル・ウントゥンピナレ。
  (ああ、アキラ! ようこそ!
   こんにちは、マリア。
   イリーナを紹介するね。
   会えてうれしいです!
   あそこ、案内所の近くにいるのは父さんと母さん。
   ぼくの名前はヤマモト・アキラです。日本から来ました。
   ようこそ、ルーマニアへ!
   歓迎ありがとうございます)

 憲児はドラゴシュを家に招き、一緒に映画を観ることにする。彼は憲児のDVDコレクションを驚きとともに眺めていた。その中で色々とジャケットを見てから、彼が選んだ作品はアニエス・ヴァルダの『冬の旅』だった。
「ヴァルダの作品はたくさん観ているんですけど、実はこの作品観たことなかったんですよね」
「じゃあ良い機会だなぁ。これは傑作だよ、本当に」
 二人はドラゴシュが持ってきたルーマニア産ワインを飲みながら、映画を観始める。不機嫌なな表情を浮かべた孤独な少女が、フランスの荒野を進み続ける。彼女は様々な人と出会いながら、誰も彼女を孤独から救うことはできない。それでも少女は荒野を進み続け、そして……あまりにも救いようのない展開は憲児の心をいつでも震わせた。それでいてここには息を呑むような美しさも宿っていると思えた。ふとドラゴシュの方を見ると、彼は涙を流していた。涙の粒を拭い、嗚咽を漏らす。彼は本当に感動しているようだった。
「とても切ない映画でしたね」
 観終わってから、赤い目をしながらドラゴシュは言った。
「気に入ってくれて、俺も嬉しいよ」
「次は何を観ましょうか。アニエス・ヴァルダの他の作品を観ますか? それとも全く別のB級映画でも観ますか?」
「B級映画でも観ようか。近くのスーパーで何かかってこよう」
 彼らは家から近いワイズマートというスーパーに行き、コカコーラやポテトチップスなどのお菓子を大量に買い込んだ。夜の道を静かに歩いていると、いきなりドラゴシュが歌い始めた。陽気な曲調で、闇の中でも輝くように響いていた。ルーマニア語なので何を行っているのか分からなかったが、心がウキウキした。
「おいおい、近所迷惑だって怒られるぞ」
 憲児は笑いながら言った。
「はは、すいません」
「それ何の曲なんだ? ルーマニアの有名な歌?」
「『ヴェロニカ』って映画に出てくる"春の歌"って名前の曲です。多分これもルーマニアの子供ならみんな知ってますよ」
「面白いな。今度観たいな」
「いいですね、観ましょうよ」
「ルーマニア語分からないから、横で解説してくれよ」
「はは、分かりました」
 家に帰ってから、彼らはC級のサメ映画を観ることになる。三つの頭を持ったサメが人を喰いながら、ロサンゼルスを破壊していくという内容だった。余りのCGのショボさにドラゴシュは笑い転げていた。更に第二、第三のサメが現れて世界の年を破壊していく。その中には東京も入っていた。サメが東京タワーを凄まじい勢いで破壊していく。
「こりゃ、俺たちも死んだな!」
「そうですねぇ。でもこういうのでブカレストは出てこないんで、ちょっと寂しいですよ」
「まあ東京は有名だからな」
 そして映画が終わっても、二人はコーラを飲み続ける。
「ドラゴシュ、日本ではどこに行ったことある?」
「日本でですか? えっと東京と京都、福岡と新潟には行ったことありますね」
「じゃあ、今度行きたいところは?」
「うーん……箱根ですかね」
「意外だね。何でだい?」
「この前テレビで観たんですよ。自然も豊かで料理も美味しそうだし、行ってみたいなと」
「じゃあ今度行くか!」
 そう言って、憲児はコーラを一気飲みした。

 帰り道、憲児は偶然元妻である郁子を見かけた。彼女は色鮮やかなドレスを身に纏い、後姿だけでも美しかった。彼女は人ごみの中へと静かに消えていく。憲児は思わず郁子を追った。進んでいくごとに、周囲の街並みは頗る瀟洒なものに変わっていく。自分は場違いな存在のように思えてくる。だが郁子は悠然と道を歩いていく。一方で憲児は必死に彼女についていく。
 そして彼はレストランらしき建物に辿り着いた。郁子はその入り口の前に立っている。誰かを待っているようだった。憲児は遠くからその姿を眺める。郁子は心なしかソワソワしており、落ち着きがない。何度も顔を撫でている。その癖は彼女が緊張している時に出るものだと元夫である憲児には分かった。
 と、郁子が突然手を振り始める。彼女の見つめる方向を見てみると、同じく手を振る男性がいた。自分と同世代に見えるが、スーツの仕立ては洒脱で髪型も洗練されている。全身から余裕のオーラが滲みでていた。まるで日本のジェームズ・ボンドといった風貌だ。彼が郁子と会う相手ではないようにと願った。だが正に彼がその相手だった。会ってすぐ、郁子は彼とキスをした。脳髄に斧をブチ込まれるような衝撃を感じた。最悪な気分だった。あの男は郁子の恋人だと、憲児は直感的に感じた。
 そして憲児はその先が見たくなくて、走って逃げた。自分はデリヘル嬢にフェラされるくらいしか、女性と接触はない。一方で郁子は離婚した後に恋人まで作っている。そんな自分が惨めに思えた。こうして辿り着いた先には、コンビニがあった。衝動的に、憲児はブドウ味のチューハイを買って外で飲み始める。腹の中が熱くなるのを感じた。いつも以上に太鼓腹が膨らんでいるように思えた。彼はそれを乱暴に叩いた後、またチューハイを飲む。脳髄がふやけてくるのを感じながら、同時に生温い滴が頬を這いずるのを感じた。その滴は口に入ってくる。チューハイと違ってその滴は塩辛かった。そして自分が泣いているのに気づいた。極彩色のネオンに満ちた街並みが、彼の瞳には痛かった。
 コンビニの前で惨めに泣き続けた後、ふと思い立って憲児は電話をかけた。
「ドラゴシュ、週末箱根に出かけないか?」

 週末、レンタカーを借りて、早速二人は箱根へと向かう。車の中では様々なことについて話した。仕事の愚痴、日本に住むうえで楽しいこと面倒臭いこと、最近行った美味しいレストラン……ラジオをかけると若手ロックバンドの曲が流れてきた。
「いいですね。この曲好きなんですよ」
「へえ。これ、ウチの娘が好きだよ」
「娘さん、琴梨さんって名前でしたっけ?」
「そうだよ」
「由来は小さな鳥の"小鳥"ですか?」
「そうだね。妻が可愛い名前をつけたいって言って、鳥が好きだからこの名前になったんだ。漢字は綺麗なものを探して、名づけたよ」
「へえ、いいですねえ」
「ところで、ドラゴシュってどういう意味なんだ?」
「これはスラブ語なんですが"drag"という言葉があって、"愛しい"とか"最愛の"って意味があります。」
「君の名前も、とても綺麗だね。まあ、琴梨には負けるけどね」
「はは、まあ、でしょうね」
 その後、二人はルーマニア語について話し始める。
「なあドラゴシュ、どうして日常生活でよく使うような動詞ばかり活用が不規則なものばかりなんだ? 例えば"mânca(食べる)"とか"bea(飲む)"とか"vedea(見る)"とか」
「うーん、文法についてはネイティヴに聞いちゃ駄目ですよ。答えられませんもん。舞岡さんは"する"がどうしてあんな複雑に変化するか説明できますか?」
「えーっと、いや無理だな」
「でしょう?」
 ドラゴシュはケラケラと笑う。
「覚えるには、とにかく口に出すしかないですよ。行きましょう!」
 ドラゴシュは憲児の頭を叩いた。
「mănânc、mănânci、mănâncă、mâncăm、mâncați、mănâncă」
「あー……マヌンク、マヌンチ、マヌンカ、ムンカム、ムンカツィ、マヌンカ」
「beau、bei、bea、bem、beți、beau」
「ベアウ、ベイ、ベア、ベム、ベツィ、ベアウ」
「văd、vezi、vede、vedem、vedeți、văd」
「ヴァド、ヴェジ、ヴェデ、ヴェデム、ヴェデツィ、ヴァド」
 二人はこれを呪文のように唱え続けた。まるで幼稚園で童謡を歌っているとそんな気分だった。ふとドラゴシュの方を向くと彼は無邪気な笑みを浮かべていた。そして憲児も笑ったんだった。

  彼らは箱根やすらぎの森へと向かう。ドラゴシュの故郷の森でたくさん遊んだという言葉を憲児は憶えていて、おそらく好きだろうとここに連れてきたのだ。まず森に入ると、耳を優しく撫でるような小鳥のさえずりが聞こえてきた。それに合わせて、空気を大きく吸う。東京とは比べものにならない清らかさだ。身体全体が浄化されるような心地になる。
 彼らは木の影を頼りに、森の奥へと分け入っていく。緑色の神秘性が鮮やかさを増すと共に、世界が更に美しく輝き始めるのを感じる。憲児は葉の間から差しこむ太陽の光に向かって手を掲げる。古い童謡と同じように、てのひらに真っ赤な血潮が流れるのが見えるような気がした。ドラゴシュが近づいてきて、同じように手を掲げる。ふと土の豊かな匂いを感じた。それが森の匂いなのか、ドラゴシュの匂いなのかは分からなかった。
「どうだい、この森気に入ったかい?」
「ええ、いいですね。空気も自然もとても美しくて」
「君の故郷にもこんな森はあるのかな?」
「故郷の森はですね……もっと恐ろしいというか、暗いというか」
「ふうん……」
「禍々しい何かが、神に近い謎めいた何かが隠れているような雰囲気なんですよ。説明が難しいんですが」
「そんなところで子供の頃、遊んでたの?」
「ええ、そうですね。子供の頃は怖いもの知らずだったんですよ」
 ドラゴシュは恥ずかしそうに笑った。
「実際、禍々しい何かに遭ったことは無いんですが、他の何かには会ったことがあります。黒い森の中で友人たちと遊んでた時です。彼らとはぐれて独りになってしまい、森の中を彷徨ってました。すると物陰から何と熊が現れたんです。小熊ではなく、大人の熊ですよ。もちろん恐怖で動けなくなりました。しかし熊も動きませんでした。そしてぼくと熊は見つめ合うことになったんです。静かに、静かにただ見つめ合いました。その時間はまるで永遠のようで、死を覚悟し続けました。だけど熊はゆっくりと帰っていきました。ぼくは一目散に走って逃げました。そして走り続けたら、どうしてか故郷の村に着きました。家に帰って母に抱きつきました。そこで初めて、自分がおもらしをしているのに気付いたんです」
ドラゴシュの言葉に思わず憲児は笑ってしまう。
 その末に、彼らは湖へと行き当たる。エメラルドの湖、その向こうには霧がかかり神々しい雰囲気を放つ山が見える。憲児は岸辺に腰を据えて、山を眺めた。ドラゴシュも横に座る。誰も何も喋らずに、静謐なる時間が満ち満ちていく。この静けさにたゆたうような時間が憲児にはひどく心地よかった。

 芳賀ノ原という旅館に着き、部屋でしばらく休んだ後、二人は夕食を食べることになる。相模湾や駿河湾で獲れた新鮮な魚介類、神奈川県で育てられた牛と豚の肉、仙石原の豊かな自然の中で育った野菜、それら地元産の食材をふんだんに使った和食だった。まず憲児はアワビの刺身を食べてみる。その繊細な味に、彼は思わず目をつぶった。ドラゴシュの方はイセエビの焼き物を食べていたが、自分と同じように美味しさに目を瞑っていたので、何となく嬉しくなった。そして次はステーキを食べている。贅沢な旨みに全身が満たされていく。
「ドラゴシュ、和食はどう?」
「最高ですね。こんな美味しいもの食べたことないですよ」
「ルーマニア料理もいいけど、日本料理もなかなかだろ?」
「毎日食べてもいいくらいですね!」
 そして二人は温泉へと入りにいく。露天風呂は紫色の空に抱かれて、美しく輝いていた。まず憲児は右手で水面を撫でてみる。少し熱いが、それが気持ちよくもある。彼とドラゴシュは同じタイミングで露天風呂に入っていく。その快感にドラゴシュが思わず呻き、憲児は笑った。
「温泉も最高だなあ」
 憲児は目前に広がる、深緑色の山に視線を向ける。勇大に聳え立つ山に胸が震えるのを感じた。久しく見ていなかった、素晴らしい風景だった。と、突然ドラゴシュがルーマニア語で何か言った。憲児には何を言っているのか分からなかった。
「今、何て言ったんだ?」
「"カッケェなあ……"みたいな意味ですよ」
「ふうん」
 憲児はお湯で顔を洗った。
「なあ、ドラゴシュ。変なルーマニア語を教えてくれないか?」
「変なルーマニア語ってどんな?」
「まあ、スラングとかそういう感じの奴だよ」
「そうですか、ふむ。分かりました」
 ドラゴシュは鼻を掻いた。
「最初は基本的なところで"futu-i"ですかね」
「その意味は?」
「"ファック・ユー!"ですよ。車乗ってる時、相手車に煽られた時とかに使えますね」
「いいね!」
「"Ceapa ma-tii!"なんかはルーマニア語独自のスラングですかね」
「また"ファック・ユー!"的な?」
「意味は近いです。"ちくしょう!"って感じですかね。でも文字通りの意味は"お前の母ちゃんの玉ねぎ!"って意味です」
「ルーマニア人は玉ねぎ嫌いなのか?」
「いやむしろ逆ですよ。どんな料理にも使います。日本人より絶対使いますよ」
「日本人は垢抜けないゴツゴツした男のことを"じゃがいも"って呼ぶよ。あと女性の太い足を"だいこん足"って呼んだりするね」
「それも面白いですね。他に使えそうなスラングは……"căcăcios"とか」
「何だそれ、響きが面白いな」
「これは"クソッタレの"って意味ですね。"Căcăcios mic ce ești"で"テメエ、この細切れクソッタレ野郎が!"みたいな意味です」
「こりゃ、ルーマニア旅行に行った時、めちゃめちゃ使えそうだな」
「そうですね!」
 そんな話をするうち、日は暮れて世界は黒に染まっている。

 部屋に戻った二人は、ベランダに出て日本酒を飲み交わし始める。森から吹いてくる風が憲児の浴衣を優しく撫でてくる。最初は他愛ない会話を続けていた。だが酔いが回ってくるうち、感傷的な気分になってくる。救いようのない孤独が再び首をもたげてくるのだった。そして憲児はドラゴシュに自分について話し始めた。三年前に妻である郁子と離婚したこと、その郁子には既にカッコいい恋人がいるころ、娘である琴梨と一年に数回しか会えなくなったこと、それでも彼女のことを世界で一番愛していること、自分が全てに見放されてるんじゃないかという絶望を抱えていること、もうこのまま一生救われないのではないかということ……話しながら、憲児は思わず涙を流し始める。
「家族を省みなかった俺が悪いって分かってる。でも全てをもう一度やりなおせないかって希望が捨てられないんだ」
 憲児は涙を止められずにいる。
「俺の人生って一体何なんだろうな……」
 鼻水がダラダラと口に入ってくる。格別に塩辛かった。
「舞岡さん……」
 そんなドラゴシュの声が憲児の耳に優しく響いた。憲児が泣き止むまで、ドラゴシュはそばに居続けた。彼は背中をさすり続け、憲児はその優しさに身を浸した。
 そうして泣き止んだ時、急に自分が恥ずかしくなる。
「ダメなとこ、見せちゃったな。ドラゴシュ、ごめんな」
「ダメじゃないですよ、全然。悩みは誰にもありますよ」
「はは、ありがとう」
 すると、ドラゴシュもまた真剣な顔つきになる。
「憲児さん、ぼくも言わなきゃいけないことがあります」
 その力強い言葉に、憲児は背筋を伸ばした。
「ああ、そうか、わかったよ」
 しばしの沈黙の後、ドラゴシュは言った。
「ぼくはゲイなんです。つまり男性が好きなんです」
 憲児はその告白に少し驚く。
「大学の頃、鬱になったと言ったと思うんですが、ゲイであることが原因だったんです。ぼくにはオヴィディウという恋人がいました。ぼくよりも少し年上で、丸い鼻がとても可愛い人でした。ぼくと彼は一目で惹かれあって、愛しあいました。ですがルーマニアはとても保守的な国で、同性愛に対しては寛容ではありません。ですからぼくらは隠れて愛し合わなければいけませんでした。ある日のことです。ブカレストのバーで楽しんだ後、二人で家へ帰りました。酒に酔っていてぼくらは油断していました。通りでぼくは彼にキスをせがんで、オヴィディウを困らせました。でも彼は優しいから最後にはキスしてくれました。そこに、クソ野郎どもが現れたんです。キスするぼくらを見て彼らは罵倒の言葉を浴びせかけ、そして殴りかかり、最後にはリンチしてきました。このことは思い出したくないし、言葉にしたくもありません。これが原因でぼくとオヴィディウの関係は粉々になりました。彼はブカレストから消えました。心にも身体にも傷を負ったぼくは独りになり、鬱になりました」
 ドラゴシュは少しの間、沈黙に浸る。
「深い絶望の中で、救いとなってくれたのは日本のアニメや漫画です。様々に魅力的なキャラクターが現れるあの世界なら、ぼくの居場所もあるのではないかと思いました。ぼくは必死で日本語を勉強しました。ここではない別のどこかで生きていける日を夢見て。そしてぼくはこの日本の地を踏んで、憲児さんと出会うことができました。あなたとの出会いはぼくにとって宝物のようです。本当に感謝しています」
 ドラゴシュはゆっくりとお辞儀をした。
 憲児は驚きの中で、彼の言葉を噛み締めていた。そして自分は今何をすればいいのかに思いを巡らせた。反射的にいくつかの言葉が思い浮かんだが、それはドラゴシュを傷つける言葉だと理解した。
 憲児は何度も深呼吸をした。
 そして憲児は静かに言った。
「そんな大切なことを俺に話してくれてありがとう。本当にありがとう」
 憲児はドラゴシュを優しく抱きしめる。するとダムが決壊したかのように、ドラゴシュは大声で泣き始めた。それと同時に憲児の身体をキツくキツく抱きしめる。
「おいおい、強くハグしすぎだぞ。それがルーマニア流なのか?」
 憲児は笑った。
「今日は朝まで飲もう。お互い話したいこと全部話そう」
「はい、そうですね」
 ドラゴシュの笑顔は涙と鼻水まみれだった。

 様々な場所に行った後、憲児と琴梨はマクドナルドへ向かう。しばらくは無言でハンバーガーとフライドポテトを食べ続けた。だがある時、憲児は言った。
「俺、今ルーマニア語を勉強してるんだ」
「ルーマニア語?」
「ルーマニアって国のこと知ってるか?」
「今、初めて聞いたと思う」
「そうか、そうだよな」
 憲児はポテトを食べる。
「お前は知らないかもしれないけど、世界にはルーマニアって国があってルーマニア語って言葉があるんだよ。それで俺はそのルーマニア語を勉強してるんだ。俺の友達のことをもっと深く理解するためにさ」
「へえ」
 琴梨はコーヒーを飲んだ。
「突然なんだけどさ、俺がルーマニア語で自己紹介をするとこ、聞いてくれないかな」
「別に、いいけど」
 その言葉に、憲児は唾を飲んだ。

「マ・ヌメスク・ケンジ・マイオカ。スント・パトルゼチ・シ・シャセ・デ・ブルスタ。スント・ディン・プレフェクトゥラ・カガワ、ジャポニア。パシュネア・メア・エ・サ・ストゥディエズ・リムバ・ロムナ。プリエテン・メウ・エ・ロムン。アシャカ・カ・ブレアウ・サ・ボルベスク・ウン・リムバ・ルイ。ロムナ・エ・フォアルテ・デフィチル・エ・ディフェリト・デ・ジャポネザ・コンプレト。ダル・エ・ディストラクティブ・サ・ストゥディエズ・ロムナ。ウントル・オ・ジ、スペル・カ・ポト・サ・ヴォルベスク・ク・ロムニ・ペステ・トト・ウン・ルメ」
("私の名前は舞岡憲児です。46歳で、日本の香川県出身です。趣味はルーマニア語を勉強することです。私"な"友達はルーマニア人です。だから"から"彼の"の"言葉で喋ってみたいのです。ルーマニア語は難しい"でし"日本語と全然違います。でもルーマニア語を勉強するのは楽しいです。いつか、世界中"は"いるルーマニア人と話せる日が来たらいいなと思います")

 全てを言い切り、憲児は大きな溜息をついた。いきなりルーマニア語が喋りたいと言った自分を奇妙に思わないか、憲児は不安だった。しかし琴梨は人目も憚らず拍手をした。
「すごいね、父さん。アタシ、大学でドイツ語勉強してるけど、そこまで喋れないよ。何言ってんのか分かんないけどね」
 憲児はその言葉に嬉しくなる。
「父さん、今いい顔してるよ」
「そうか? ありがとう」
 憲児は満面の笑みを浮かべた。

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。