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コロナウイルス連作短編その90「26分」

 長谷川勤は病院の待合室にいる。犇めきあう加齢臭、腐敗したような固さに包まれた椅子、潔癖的なまでに綺麗なベージュの壁、地獄へと続くドアの連なり。勤は大分前から痔を患っていたが、尻を他人に露にすることへ恥辱を覚えるうち、痛みの度合いが一線を越えた。その激痛に耐えられず、とうとう彼は病院へと這いずるように赴いた。今正に座っている時すら、脳髄まで沸騰するほど鮮烈な痛みを味わっている。同時に肛門からは常に膿が流れだしており、妻である長谷川倫子の生理用ナプキンを着けざるをえない。生理用ナプキンを着けながら歩く、生理用ナプキンを着けながら食事をする、生理用ナプキンを着けながら眠る。全てが恥晒しに思えた。
 横から「26分」という言葉が聞こえた。声の主は病的に細く衰えた髪を持つ老婦人で、横には恐ろしいほど肥え太った中年女性がいる。おそらく母娘なのではないかと勤は予想する。
「26は部屋番号で、4時になったら超音波の検査を受けます」
 妙に余所余所しい丁寧語を以て、女性はそう言った。彼女は介護士なのやもと予想を少し変える。
「どうしたらいいの」
「後、30分ほど待ちます」
 女性は冷静に応答する。彼女は異様な量の脂肪を肉体に蓄えている。勤には女性の纏う脂肪の怒涛が羨ましい。最近は奇妙な、禍々しい食欲不振が続いており、食事をうまく摂取することができない。強制的に肉体へ食物を取りこむと、腹が下り、デロデロと下痢便が這いずり落ちてくる。それによって否応なく身体は痩せていきながら、周囲の同世代が現在進行形で展開させる肥満の醜悪さに比べると我ながら好ましく思えた。しかし胃薬などを飲んでも不振は治らず、身体から肉が音もなく消え失せる。さすがに不安を感じた。倫子は「痩せてっていいんじゃないの」と事もなげに言うが、日に日に焦燥感の影に背中を焙られる。
「26分?」
 そう老女が尋ねた。
「26は部屋番号だから違います」
「どうすればいいの」
「4時になったら超音波の検査を受けます」
「26分に誰か迎えに来るの?」
「誰も迎えに来ません」
「どうすればいいの」
「4時になったら超音波の検査を受けます」
「26分?」
 奇妙な会話は否応なく勤の耳に滑りこみ、吐き気を催させる。それを嘲笑うかのように、会話は幾度となく繰り返される。何なんだよ、あの会話は。心のなかで毒づく一方、彼女たちの言葉で時空間それ自体が改変され歪むような感覚を味わい、悍ましさを抱く。
 ふと、自分の親が耄碌し、あの老女のように同じことを延々と、永遠と繰り返す"キチガイ"に堕したらという思いに晒される。"キチガイ"とその言葉の残響が細菌兵器のように脳髄に広がる。昔住んでいた家、2階の南に位置する畳の部屋、そこには"キチガイ"となった祖母が幽閉されていた。不倫した祖父を刺殺したと誰かから聞きながら、それでは何故刑務所や精神病院でなく、あの家にいたのか、それは今でも分からない。彼女はほとんどの時間、部屋にいたが、深夜だけ足を引きずる泥臭い音とともに廊下を歩き、階段を下っていく。子供部屋から勤は確かにその音を聞き、1階のトイレで尿を放出するてぃろてぃろという音まで聞いた。鼓膜の震えが、勤を不快にさせる。父は幸運にも心臓発作でポックリ死に、母親は今独りでの生活を楽しんでいる。そして当然"キチガイ"は大分昔にくたばっている。だが独りの母親が更に年老い、あの老女のように意味の分からない言葉を喚き散らかすことになったら。曖昧なままで在ってほしい未来への予感が、壮絶な極彩を伴い、勤の網膜を裏側から刺し貫く。思わず身体が震え、バランスの消失が臀部に激痛を齎した。
「26分?」
 老女がまた同じことを言った。
「26は部屋の番号なので違います」
 女性がまた同じことを言った。だが
「時計ではないです、時計ではありません。この意味分かりますか?」
 今までとは違う言葉だった。あの非人間的反復が終るという期待を、勤は持った。
「どうしたらいいの?」
「4時になったら超音波の検査を受けます」
「26分に誰か迎えに来るの?」
「誰も迎えに来ません」
 期待は無意味だった。あまりにも堂々巡りの会話を聞いているだけで、脳髄が老いさらばえ疲弊するのが分かる。
「どうしたらいいの?」
「あなたの名前は?」
「何て?」
「あなたの名前は?」
「26分?」
 会話が振り出しに戻る。
「どうすればいいの」
「4時になったら超音波の検査を受けます」
「26日?」
「今日は2日だよね。26日までいる訳ないでしょう。何で意味不明なこと言うの」
 長谷川勤という名前を呼ばれ、彼は診察室へ入っていく。医師は陰湿な雰囲気を湛えた若い男で、一目で信頼に足らない人間だと確信する。痔の症状を説明した後、勤はベッドに寝かされる。
「ズボンと下着を半分脱いでください」
 勤は躊躇いながらも、臀部をおもむろに露出させる。皮膚が診察室の生ぬるい空気に晒され、瘴気を吐き出した。そこにゴム手袋を着けたらしい医師の両腕が触れる。熱く武骨だ。この肉の塊が自身の尻穴に触れ、その度に激痛を催す、死にたくなるほどの蹂躙、凌辱だと勤は思った。そしてズボンを履き直し椅子に座った後、勤は即刻の手術を宣告された。刹那の衝撃のなかで、彼の頭に入ってくるのは断片的な単語だけだ。
 痔瘻。
 穴。
 ゴム。
 激痛。
 体液。
 待合室に戻ると耄碌した老女はどこかに消え、ただ肥った中年女性だけがいる。彼女の視線の先にはモニターがあり、患者を落ち着けるための環境映像が流れている。安らかな波、青の揺蕩う空。痔が治ってコロナ禍が終ったなら倫子と旅行に行きたいと、そう思った。だが実際には新宿のハローワークに行く必要がある。彼は仕事を馘になったばかりだ。雇用保険について説明を聞かなくてはならない。

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。