なれなかった自分と今ある自分

こんばんは、川西長人です。

些か酔うております。

「果たしてnoteの使い方ってこんな感じで良いのかな?」という疑問を抱えつつ今宵もまた性懲りも無く筆を握るのは、アルコールがもたらす熱に、心まで浮かされているからだと思います。

……果たして。


さて、今夜話そうと思うのは「かつて私がなりかったもの」と「それになり損ねた自分が、今どう生きているか」ということです。

防臭剤必須の予感がしますね。

とはいえ過去の自分と現在の自分が不可分である以上、これから様々なことを語るにおいては、一度は私が「こんな願いを抱えて生きてきた」ということに触れぬ訳にはいかないようにも思えるのです。

はてさて。

私はもともと、物書き志望でありました。

死を思う中、友人は数えるほどしかおらず、そんな中でも私の支えとなったのは、数多くの美しき“作品”でありました。

最初は純粋に「自分も書いてみたい」「小説を通して自己表現をしたい」
そのような思いで筆を取ったのですが、

次第に、「多くの素晴らしい作品がそうであったように、私も生きる希望すら持てぬ人の支えとなるようなものが書きたい」「小説を通して、視界の届かぬ先にいる人にも希望を届けたい」
そう思うようになりました。

……まぁそれも、父の“物理的”な介入によって、文学部進学を諦めざるを得なくなった際に、消えてしまった夢なのですが。

それから私もいろいろな経験経て、私の生きる動機は、次第により外的な方向にシフトしていき、
飲食業就職を経たこともあり、「自分自身を通じて、隣人を幸せにしたい」と、そういう願いへ、少しずつ形を変えてきました。

「他者の支えになりたい」「人の幸福を己が喜びとできる人間でありたい」

それは今も昔も変わらぬ願いではあるのですが、
未だに私は今の自分の有り様に、幾許かの居心地の悪さと、もどかしさを感じます。

果たして私の手は、本当に救いを求める人に届いているのだろうか、と。

本当に闇の中にある人は、社会に出て、人に助けを求める力さえ持たぬのではないだろうか、と。

そんな時救いになるのは、あるいは隣人の励ましなどではなく、一編の詩、一本の映像作品、一冊の小説ではなかろうかと。

かくして今日も私は悩みながら「隣人の幸福のために、今ある自分の全てを捧げよう」と息巻き、社会へと身を繰り出すのですが
一方で「これで闇の中にいる誰かが、あるいはかつての自分が救えるだろうか」という思いも捨てきれずにいるのです。


◆ ◆ ◆ 


以前から興味があったアドラー心理学について、何冊か本を読みました。

今の私の有する価値観に非常に近しいものを感じ、読んでいて面白かったです。

ですが、心理学とするにはどこか啓発的で、「この気づきは、本当に必要とする人の耳に届くだろうか」と、幾分疑問にも感じました。

私が知る忍野というキャラクターは「人は勝手に助かるだけさ」とよく口にしていましたが、
「助かろうとしている人しか助からない」とするならば、それはあまりに救いがなさ過ぎるとは思いませんか?

……私は、脆弱で、人の手を掴む元気さえ残されていない人にとっても手を差し伸べられる人間でありたい。

日々そのような綺麗事にほだされています。

とは言え、選び取らねば可能性は無限とは言えど、一方で誰も支えられない。

そうした迷いの中、私は他になす術もなく、ただただ一心不乱にフライパンを握る日々なのです。


とっぴんぱらりのぷう。

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