相対主義と絶対主義について

こんばんは、川西長人です。

火曜日の今日は哲学のセミナーを受けてきたのですが、今日は少し様々な考えが秩序なく働いています。
以前より感じていた違和感が、顕在化してきたと言いますか。

ですので今宵は相対主義と絶対主義ということについて、少し考えてみたいと思います。


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そもそも私たちは、何のために生きているのでしょうか。

今読んでくださっているそこあなたは、我々の人生の意義を、なんと捉えていますでしょうか。

古くからのこの問いに、哲学・宗教・心理学・精神医学・文学などが、暫定的な答えをもたらしてきました。

その一つ一つは一定の説明をしてはくれますが、万人が等しく頷くに足る答えというのは、現状まだ出ていないように思われます。

そもそも僕は、何を求めて哲学を学び始めたのでしょう。

当初の僕はボンヤリと「哲学とは“真理”というものを追求する学問なんだろう」と捉えていました。
哲学を学ぶ多くの人の中には、今尚そう答える人もおおいのではないのでしょうか。

ですが次第に僕は「哲学とは、答えのない問いに対して、普遍的でかつ万人が了解するに値する答えを求める学問なのではないだろうか」と考えるようになりました。

相対主義の時代にの中にあって「人はそれぞれ違うものだから」「万人が了解する答えなんてない」とニヒリズムに走るのではなく
真摯に追求し続けることによって、共通理解が得られる答えを模索し続けていく営みなのではないだろうかと。

……それが現時点で私が考える哲学です。

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私が受けている哲学のセミナーはプラトンを始めとした古代の西洋・東洋の思想をまとめ、
「古代の哲学者達が言っていることは、根幹では同じ」「よりよく生きるために知恵を求めるとはこういう行為のことである」と、一定の答えを提示してくれています。

人がより良く生きることはこういうことであるという模範を示し、無知ゆえの苦悩を取り去るをことを目的としているように思えます。

ですが僕個人の考えでは、それはどちらかと言えば、哲学ではなく宗教に近い役割なのだろうなと、そう思います。

今受けているセミナーは確かに深い教えがあり、その教えを実践していくことは、ある意味では“よりよく生きる”ということに繋がるのだろうなとは思いますが

一方で、どこか考え方を押し付けられているような感覚も、多少なり感じています。


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現代において主流となっている相対主義は、一方では美しく響きますが、思考の放棄や無秩序、ひいては他者の軽視に繋がります。

他方で、「唯一これが真理である」とする絶対主義もまた、同じような危うさを孕みます。

「絶対的な真理などないとして、でもその中でも謙虚に答えを追求していく」というのが、
僕は人が持つべき“誠実さ”なのではないかなと思います。

真の相互理解と人生の意義について、僕は苦しみながらも、長く向き合い続けていきます。

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