晩夏の夜に思う

秋虫の声が聞こえだす季節となりました。

僕はといえば相も変わらず、何もわからず迷いのまま生きています。

人の持ちうる“答え”など、狭量なもの、暫定的なもの。
そうとは知れど、「僕は果たしてこのままで良いのだろうか?」と胸に去来する悩みさえ振り払うようにして眠りにつく日々に、えもいわれぬ焦りを感じています。

無論、確固たるものは求めていません。
ですが、悩み考えることを放棄してしまうのが怖いのです。

僕は長く、自死について考えていた時期がありました。
その時に救いとなったのは、いくつかの作品です。

「その時君の命は燃えているか?」
おやすみプンプンの作中で、最も琴線に触れた一言です。

エヴァで言えば「あんたまだ生きてるんでしょ。だったらしっかり生きてそれから死になさい」
「今の自分が絶対じゃないわ。後で間違いに気付き後悔する。私はその繰り返しだった。ぬか喜びと自己嫌悪を重ねるだけ。でもその度に前に進めた気がする」という一節。

火の鳥で言うなら「命を無駄遣いしない」という言葉。

これらの言葉が、今も僕を生かしてくれています。

懸命に生き、命を燃やして生きることーー。

“生”自体を肯定してくれるものは何もありません。
傷だらけの体で血反吐を吐き、それでも日々生きる者にとって、対岸にいる他者からの「死なないで」と言う言葉は、なんと浅薄で無力なことか。

僕個人にとって自身の生を肯定できるのは「悩み苦しみ、それでも命を燃やしていきている、その実感」のみなのです。

だからこそ「善く生きたい」「美しく生きたい」と願わずにはいられませんし、同時に「善とは?」「美とは?」について、深く考えていきたいと感じています。

◆ ◆ ◆

なかなか難儀なもので、この社会で生きていく上では、労働を経ずして生きるための糧を得るのは困難なようです。

先述の通り、僕は「命を燃やして生きていたい」と考えているのですが、副次的に「人に価値を与えられる人間になりたい」とも考えています。

そんな僕は紆余曲折を経て、半ば自ら望む形で飲食店では働いているのですが、仕事を通じて改めて「組織で動くことの難しさ」のようなものを感じています。

この星には80億もの人が暮らしています。

正しさや意味なんてものが自ずから存在しえぬのが、この世界です。
個々が自由に自分の信じたいものを信ずることが許されています。

ですが、ひとたび組織に所属してしまえば、そこには正しさや善さや美しさの物差しが確かにあって、「こうしよう」「これが正しい」「かくあるのが美しい」という、人に与えられた価値基準の中で、同じ方向を向いて走ることが求められます。

僕の所属する会社は、一般的に言えば社会性が高く、“良い事”を指向している企業と言えると思います。

一方で従業員への“ミッション共感”のようなものを求める傾向が強く、そこにやりがいを覚える従業員も多くいるのは確かですが、僕は時折「果たして?」と考えてしまいます。

“善いもの”っていうのは、“美しいもの”っていうのは、その人にとってそうであるというだけであって、その物差しは他者にまで与えるべきものなのだろうか?

そう考えてしまいます。

◆ ◆ ◆

僕は美しく生きたいです。

ではその美しさとは如何なるものかと問われれば、もちろんそこに万人を納得させるに足る、確固たる答えはありません。

僕は最近こう思います。

「生き方について価値観は、人に与えるものでも、人から与えられるものでもない。自分が何を真とし、何を善とし、何を美とするか。それは個々人が持つ壮大な宇宙の中で絶えず問い続けるべきものだ。人から与えられる神話ではなく、自分で紡いだ神話でこそ自分の生の価値を見出さなくてはならない」

これ自体、“べき”とか“しなくてはならない”なんていう物言いがある時点で「私個人の考え」の範疇を抜け出しはしないのですが……。

それでも尚、僕は問い続けてしまうのです。

生命を正しく使う生き方について。

命が燃えているという、その生き方について。

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