自己への恐怖心という、美徳

頑強さを持つモノは、触れるもの傷つけうる。
そのことへの恐れを抱かねばならぬ。

私はそう考えています。

私が影響を受けている多くの人の中に、元陸上選手の為末さんがいるのですが
為末さんは時折、“当たり前”ということに言及します。


“当たり前”は時に、前の推進力やエネルギーを生む。
一方で、当人が無意識に「そうである」と信じているが故に、摩擦や軋轢も発生させうる。

……私は和食屋での厳しい下積み自体を経て、かなり“タフ”になりました。
人間的な繊細ややわらかさは必要とされず、ひたすらタフネスのみが求められ、それがなくては生き残れない職場でした。

今私に周りには、しなやかさを湛えた美しい人がたくさんいます。
その繊細ゆえ傷ついてゆくことも多くあろうと、想像したりもします。

どこか頑強になってしまった私は、そこで何を望むべきでしょうか。
等しく、繊細でありたいと願うべきでしょうか。

……否。

もつべきは、己が無意識に持つ“当たり前”への懐疑、平たく言ってしまえば、自己に対する客観的な視点ではないか。
今はそう考えています。

全ての人が持つように、私の中にも多くの“当たり前”があります。
それ自体は忌むべきことではなく、必要なのは内省を欠かさないことなのではないかと、そう思います。

今日も己が無意識に持つ歪みは、誰かを傷つけているかもしれない。
それは毒にも刃にもなり、時に人を殺しうる。

そこに対する恐怖心が、僕にはきっと必要なのです。


……おおよそ皆さんのご想像通り、今宵も幾分酔っております。

居酒屋のあさりバターの舐めつつそんな事思う内に、夜はしんしんと更けていくのです。

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