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"人工と自然"論

自然に対してヒトがなした環境を「人工」といいます。
「人工」は心地がいいはずなのですがプラスチックやコンクリートのように自然を侵食する素材が蔓延してくるとヒトは自然を恋しがるようになります。
しかし自然は放っておくと埃や落ち葉が降り積もり草木は奔放に生い茂ります。
したがってほどほどに自然を受け入れつつ適度に掃除をしながらヒトは暮らしてきたのでしょう。
家や庭をつくるにも人工が勝りすぎるのは野暮。落ち葉ははきすぎず草木も刈りすぎず程よく茂るにまかせます。
まるで打ち寄せる波が砂丘をあらう渚のように、人為と自然がせめぎあう「ほどほどの心地よさ」を探し当てることそれが「掃除」なのかもしれません。
文化や文明を超えて営まれる掃除というごく普通の営みの中にヒトの本質が潜んでるのではないかと考えてのことでした。
この先の未来においてどんな技術が進んでもヒトは生き物。身体の奥底に響き続ける生のリズムがあります。ここに耳をすませていきたいものです。

これは原研哉さんの文章を引用させてもらったもので今、庭が必要とされる理由のひとつだと思います。また人工に対して人為的ではあるが自然を近づける行為のひとつが庭をつくるということなのかもしれない。

最初は人為的ではあるが庭に棲む生き物たちは時間とともにその場所での自然というベクトルの方向に進んでいく。原さんの文章にある「掃除」がボクら植木屋でいう「手入れ」で。それは自然のベクトルに進んだものを少しだけまた人工に戻す作業と言ってもいいかもしれない。しかし打ち寄せる波とはなんて素敵に表現なんだろうと思う。「物事は放っておくと乱雑、無秩序、複雑な方向に向かい、自発的に元に戻ることはない」というエントロピーの増大の法則というものもボク的には「手入れ」をイメージする上でイメージしやすい考えだ。
フィクションからノンフィクションへでもいいかも(笑)
自然方向へのスピードは植物は早いが石などもゆっくりだけどどちらも庭のなかで同じ方向に向かっていってる。

もし自然というものと人工(人為かな)というものにもしバランスがあるとしたら
禅寺の庭などは 人工(限りなく)10:自然0
生態系や潜在的な植生でつくる庭 人工0:自然(限りなく)10
でその二つの庭を両極に置いて考えてみる。
禅寺の庭もものすごくゆっくりなスピードで自然に向かうし、潜在植生でつくったものを放っておいたら完全な自然(荒れ地、ジャングル?)になっちゃうと思う。
禅寺の庭などはそのかぎりなくゼロに近い速度がある種の永遠性、宗教性とつながっていくという仕掛けがあると思う。

急に話は小さくなって
ボクらGREEN SPACEのつくってる庭はこのバランスでいくと
自然が4〜7くらいなのかなと。(逆にいうと人工が3〜6)
経年で自然方向に6とか8にいっちゃったものを
手入れで5とか7に戻す。
つくるバランスはボクらの感覚だけど
手入れのバランスは施主様の感覚。
例えば結構切ってすっきりして欲しい施主様もいれば
あまり手が入ってないようにして欲しいという施主様もいる。
またご自身で気に入った植物もプラスして楽しむ方もいる。
いろんな要因でそのバランスは変わってくるので
庭はボクらじゃなくて施主様がつくってるともいえると思います。
またボクらよりもう少し庭師的感覚が強い方がつくるものは
人工7〜8:自然2〜3
くらいなのかなぁって。
もちろんどっちがいいとか悪いとかじゃなくて
それぞれにカッコいいと思うバランスがあると思います。
これはボクの頭の中での遊びですので。

また話は変わりますが
イオンに宮脇昭さんが植栽をするということは
イオン 人工10:自然0

宮脇さん 人工0:自然10
という極端な組み合わせで
プラスマイナス0でいいのかもですが
なにか違和感をボクは感じてしまうのはそういうところなのかなって。

街路樹などは
街 人工9:自然1
に対して
街路樹 人工8:自然2
(街路樹は生き物だけど同じ樹種、高さのものを均等に配置してるのでこのバランスかなと)
そして昨今よく言われるぶつ切り問題はなんと手入れしてるのに
人工が8から9に増えるという行為。
そのことでヒトは人工的なものがより人工的な方向にベクトルが動くと悲しくなるということがSNSなどを通じてわかります。(適当です)
街路樹でわかることは
街に自然を増やそう目的でいれていて
もともと街路樹は人工的なベクトルが強いので
ほぼ必要以外は切らなくていいという結論に。(もちろんこれも適当)
あと 街 人工9:自然1 のバランスが
心地いいヒトが一定数いて落ち葉などで自然の数値が増えるのが
嫌でクレームをいうヒトがいるということの認識も重要です。
最後に「手入れ」で人工の数値を増やすテクニックをお持ちのかたが
いらっしゃるということです!!!!

ざっくりくくって申し訳ないですが
ある程度、ヒトの力で自然をおさえつけようとする
西洋の庭は 人工8:自然2
くらいのバランスに自然方向に進む幅も小さくしていて
経年しても 人工7:自然3 くらいの印象が。
でもコロナ前の旅行でいろいろ作品をみてまわった
ピート・アウドルフは
グラスなどをもちいて四季の変化や自然の方向への速度の早い庭をつくったのではないか。
人工4:自然6

経年の幅を
人工2:自然8
くらいに。その幅は庭にダイナミックさとゆらぎみたいなものを与える。
そしてボクがピート・アウドルフに興味をもったのは
人工:自然のバランスそしてベクトルの速度の幅の好みが似ていたからじゃなかったのかなと
今これを書いてて思いました(笑)
(詳しくはインスタの #コウゾウがみたピートアウドルフ  で)

またボクが訪れて感動したNYのハイラインなどは
もともとは人工9:自然1の線路が
廃墟になることで 人工2:自然8
みたいな方向に進んでいく中で
ジェームスコーナーそしてピートオウドルフが庭をつくることで 
壊して新しくするのではなく
人工4:自然6
少しだけ戻すくらいの微妙なバランスが
最高だったんじゃないかなと思います。
そしてまた自然にもどっていく速度がある程度感じられるもので
ボランティアなどの方も含め日々メンテナンスしている感じもよかったです。
イオンと比べたら違いがよくわかりますよね。

手入れでいうと
古川三盛さんという方がいらっしゃいますが
古川さんのつくられる庭そして手入れは
ほぼ自然に近いところでされていて
いつもすごいなぁって思います。(お施主様も含め)
人工3:自然7くらいでつくられて
経年で人工1:自然9までもっていって
自然が10になっちゃう手前で手入れして
ほんのちょっとだけ人工にもどされてるイメージです。
実際に長い時間をかけてみたわけではないのでなんともいえないですが
著書や作品をみた印象です。
そういうのを植木屋の技術というのかなと思います。

原研哉さんの文章からいろいろと妄想を膨らませてみました。

世界は絶妙な関係で成り立っているのです。

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