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"庭をつくるとは"論

「疾駆/CHIC 11」という雑誌を読んだ。
その中に蓮沼執太さんの「立日」という連載で
上妻世界さんとの対話という形をとったものがあった。

その中の蓮沼執太さんの言葉で
"「人が何かに触れることで音を出し、音楽にしていく。」と考えてしまいます。歌声だって、身体の内部を震わせることで、世界に音を出しているわけですね。でも、それはまちがっているんじゃないかな?自然の音だって、風が木に当たれば音がなり、虫の羽が重なれば音がなり、雨が上空から地面に当たれば音になる。それは人間が出す(奏でる)だけではなくて、聴くという行為も音楽なんですよね"

このことは庭にもあてはまるのではないかなと思い
音楽=作庭(庭をつくる)に入れ替えて考えてみた。
ボクらは手を動かしながら庭をつくっているが
"庭をつくる"ということをもう少し広く考えれるのではないか。
たとえば見るという行為も庭をつくることになるのではないか。
たとえば食べるという行為も育った大地を想像することで庭をつくるということになるのかもしれない。
これは以前から思ってたことだが、つくり手だけではなく、受け手(クライアント)も庭をつくっている。それはただ見てるや、そばにいるという行為だけだったとしても。もうちょっと言うなら誰もいない場所ではそれは庭にならないんじゃないかもしれない。

そしてそしてもう少し広げてみると
人だけが庭をつくってるのではなく、ボクら植えた植物たちも庭をつくってるし、それを取り巻く環境もまた庭をつくってる。
そう考えると”庭をつくる”における植木屋はその微調整役なのかもしれないですね。

蓮沼さんの言葉を読んでいろいろと思考があっちこっちに巡り巡ったのでした。


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