建設機械化史総論32 第4期(タワーエキスカベータ)

1.5.2建設機械整備費

10.建設機械化の重点

(4)タワーエキスカベータ

 タワーエキスカベータあるいはスラックラインを最初に製作したのは昭和14年内務省新潟土木出張所の機械工場で、容量は1m3であった。使用した現場は最初は石川県の手取川の改修工事に掘削機として用い、改修終了後庄川改修工事に活躍し今も健在である。あの時代において北陸の急流河川の玉石掘削用としてはスラックライン以外にないと考え、各メーカーに当って断られ、遂に自力を以もって製作した先輩方の努力に対しては深く敬意を払う次第である。
 常願寺川改修工事を担当して居られた橋本規明氏は河川工事の権威であるが、かねてより建設機械化にも極めて熱意を持ち、筆者が経本において建設機械整備費を設定する覚悟を決めたのも、橋本さんに激励されたのが有力な一因であることは既に述べた通りである。橋本技官は常願寺川改修にはタワーエキスカベータを絶対必要とする旨を主張され、整備費の一部を割く様要求された。
 高木君は初め石川島重工にタワーエキスカベータの製作方を依頼したが、石川島は昭和23年度内という納期に自信が無く辞退した。次に日立製作所に話をしたところ、当時設計部長をしていた渡辺輝雄氏が二つ返事で引受け、昭和23年の5月初め中岡君と一緒に現地調査に乗り込み、庄川にあった1m3のタワーエキスカベータを調査し、常願寺川の現地を詳細に調査研究した。常願寺川沿岸の農家の人々は、田畑より2m2も高い河底に対しては、絶えざる不安を持っているので、河床を下げる有力な機械が入る予定を聞き、欣喜(きんき)して大歓迎をした。渡辺、中岡両氏は金屏風の前に座らせられ、殿様扱いを受け、かなり心臓の強い筈の両氏もいささかドギマギしたそうだが、現地民の期待の如何に大きかったかを証する挿話であろう。
 庄川にあるタワーエキスカベータの容量は1m3であったが、常願寺川は日本一の荒川であり、従って玉石の径もはるかに大きく、新しく製作する機械の容量は2m3にすることになった。日立の設計陣は庄川の機械の研究、外国資料の蒐集研究、設計の苦心を経て製作にかかった。期限は昭和24年3月一杯だったが、1つには全く新しい試作のために日時を要したのと、1つにはストライキの影響で、工場製作の終ったのは5月の末になってしまった。したがって現地の据付の完了したのは7月末になってしまったのである。
 しかしながら総重量180tに及び、高さ40mを越す本機が2台、河原に屹立する様は誠に見事であった。現地農民の喜びも察するに余りがある。この2台のエキスカベータを最初として全国の荒川に次々と1m3~2m3のエキスカベータが入って行き、現在は建設省のでも約20台に垂々とし、更に電源開発の骨材採取用機械として活用され今や全国では数十台に及ぶタワーエキスカベータが活躍していることを考えれば、常願寺川の功績また偉大なりというべきであろう。以上の話だけでは極めて円滑にでき上った様であるが、途中種々問題があり、建設省の中でもなかなか揉めたのである。当時常願寺川の工事費は総額2,000万円位しかなかったのに、2台のエキスカベータの製作、据付費4,500万円におよび、従来按分(あんぶん)比例的予算に慣れている外の地建では、機械整備費もやはり工事費に按分して付けるべきだと主張し、工務部長会議で高木君は吊上げにあい、頑張り通してようやく常願寺川に入れることに成功した。
 我々も最初常願寺川にタワーエキスカベータを入れることについては、工事費が小さいので外が承知するかどうかが疑問だったので、慎重に討論したのであるが、建設機械整備費の性格は重建設機械に重点を指向すべきであり、またこの新しい予算をクローズアップさせるためには余程思い切ったことしないと、その効果があいまいになるおそれがあるので、いささか行過ぎの感もないではないが、世人の目をそばだたせる意味を含めて、常願寺川に入れることにしたのである。したがってこれが失敗すれば勿論責任をとる覚悟でいた。さいわいロープの問題、クラッチの問題等部分的には時々故障もおきたが、根本的の問題はなく概ね成功したのは幸いであった。橋本技官の熱心と育成のよろしきを得たことが成功の最大原因であることはいうを俟たない。常願寺川には5台のタワーエキスカベータが活躍し、昭和27年の大出水には、掘削の効果がはっきり現れ、破堤を免れ、現地民の感謝は如何ばかりかはかりしれないものがあった。

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