建設機械化史総論20 第4期(公共事業に関する指令)

1.5.1経済安定本部と公共事業

2.公共事業に関する指令

 昭和21年5月22日連合軍総司令部は日本政府に対し昭和21年度予算、公共事業計画費60億円の計上を指令して来た。G.H.Qはこの計画は年100~125万人の失業者を吸収するもので、食料、衣料および燃料を増産してインフレ防止策を確立するのに必要と認めたのである。この計画の達成に必要な資金の割当およびその決定には新設の経済安定本部が当ることになった。
 当時大蔵省主計局に勤務していた杉山知五郎氏がこの予算の担当を命ぜられ、経済安定本部に移って熱心にこの仕事に当った。公共事業は元来失業救済を主要な目的の一つとして出発したので、労働問題を取扱っていた第4部に公共事業の事務局をおいたのである。第4部は労働関係の事務の他に公共事業の事務を取扱うことになり、公共事業に関する労務関係には労働省から派遺された渋谷直蔵部員が杉山部員に協力することになった。

3.公共事業の定義


 公共事業とよく一口に云うがその範囲は非常に広汎多岐に亘っている。経済安定本部で取扱うことになった公共事業は次のように定義した。
(1)経済安定本部の取扱う公共事業とは必需品の生産又は分配を増加し又は之に便宜を与える。工事等及び国民に必要な運輸、通信、公安、衛生、教育、社会福祉等の要求を充足する為の工事等であって、国の直轄又は補助カート又は公共団体等によって行われ失業者の活用に資するものをいう。

例えば
(i)開拓、農業水利、土地改良
(ii)漁港、船溜、漁礁
(iii)農業土木、林道、木炭生産作業道、荒廃林地復旧造林
(iv)災害桑園復旧
(vi)砂防
(vii)道路(viii)港湾、倉庫、作業船、航路標識
(ix)鉄道及び通信特別会計の資本勘定
(x)水力発電
(xi)地下土木施整備
(xii)復興土地区画整理
(xiii)戦災都市街路事業
(xiv)建物疎開跡地整備
(xv)上下水道
(xvi)危険建造物処理
(xvii)庶民住宅及び既存建築物住宅化
(xviii)官庁建造物(刑務所、学校等を含む)
(X1X)引揚民宿泊所、公立図書館等の建設
(xx)補導及び授産
(xxi)大小の公共施設
(xxii)失業対策応急事業

 以上に見る如く公共事業は建設事業の大部分を占めているが、国又は国の補助に依らない発電所の建設とか工場の建設とかの産業施設は含まれていない。
 さてこの広汎な公共事業の運営を掌るためには少数の部員では到底その任に堪えぬのは明かである。また一般会計公共事業を一括額で計上し、その枠内で経済安定本部が事業の優先順位を決定して認証し、4半期毎に予算をつけることになったが、最も困難なことは、各事業間にいかにして均衝調和を保たしめることである。限られた資金、資材の数倍にのぼる各省の要求の中から経済効果を考えて選択し、でき得る限りバランスのとれた査定、認証を行ってゆくことはまことに困難な仕事であった。

4.公共事業委員会の設置

 公共事業の重要性を認識し、その運営を適確にかつ強力に行うため、政府は公共事業委員会を設置することに決定し、委員長には内海清温博士を任命した。内海博士は直に委員の編成に着手し、建設事業に関する権威者を網羅し、かつ関係各省の関係局長を含めた委員を選定した。事業の種類により5つの部会をおくことになった。

(1)第一部会、総括事項、資材、労務、その他他部会に属せざる事項
(2)治水、利水に関する事項
(3)交通、通信に関する事項
(4)農業、利水に関する事項
(5)都市、公共施設に関する事項

 委員としては吉岡計之助安芸皎一東畑精一林米七宮長平作山崎匡輔吉田徳次郎岡部三郎赤木正雄大西英一高井亮太郎溝口三郎、金森誠之、岩沢忠恭金子源一郎小林紫朗田中豊三浦義男鮫島茂太田勇次郎武富英一島田藤榧木寛之の各専門家が就任し、他に各省の関係局長が加った。
 筆者は当時戦災復興院計画局土木課に勤務していたが、内海先生の招きに応じて経済安定本部に部員として転勤した。時期は昭和21年の10月上旬であった。公共事業委員会の事務局は第4部であったが、部長は北岡寿逸氏で、公共事業の担当副部長は大蔵省から派遺された日下部滋氏であった。部員としては先に述べた杉山知五郎渋谷直蔵の両氏に筆者が加わり3名となり、その下に10名余の事務職員がいた。しかし公共事業の計画および監督の全責任を負う委員会が、これだけの僅かな人数の職員では到底その事務を円滑に推進することはできない。そこで各委員から各専門分野の幹事を部員として差し出して貰うこととした。主なる部員としては、深谷克海、小池挙、片平信貴宮沢吉弘比田正奥田教朝村井進景山二郎山岡包郎、熊倉真三、小林秀弥、伊藤愿、小笠原喜郎の各氏である。公共事業委員会の発足は11月の末であったが、実質的には10月中から各委員の指導により各部員が公共事業計画、資金資材の配分、監督の業務について仕事を始めていた。最初の仕事は昭和22年度公共事業費の予算編成であった。まず各省の担当局課から予算要求の説明聴取会を連日開催し、委員長、委員、全部員が聴取側に立ち、疑問の点は徹底的に質問し、公共事業全般の知識を全員が身につけ単に自分の専門にのみかたよることなく、すべてガラス張式の形式をとり、秘密主義を極力排し、当時流行の民主主義的な会議に終始した。一通りヒヤリングが済むと各部会長が主任となって各省要求予算の査定作業を開始した。当時は食糧事情も悪く、交通機関も不自由だし、すべての点において生活自体は貧窮のドン底にあって委員長初め委員諸公も仕事の重要性に鑑み極めて熱心に、また部員諸君も筍生活をつづけながら毎夜に暖もなく頑張っていた。生活は苦しい仕事そのものに日本経済再建の一翼を担う誇りと感激を覚え無理な作業にも不平をこぼす者は1人もなく熱心に続けた。その間に公共事業の定義、報告類の作成、経済効果の測定基準等は次々に大衆討議で決定して行った。特に杉山氏は、G.H.Qとの接衝も多く、前からの関係もあって作業の中心であった。
 しかるに21年12月30日突如として公共事業委員会の勅令が廃止された。その理由は、本勅令が公布前にG.H.Qに連絡がなかったこと、委員の人選が短期計画には適切でないこと、というのであった。もちろん公共事業委員会の存在を好まない側の策動によるものであるが、その頃は虎の威をかる狐の多い時代であった。折角委員諸公も熱心に努力されていただけにその落胆ぶりも目に余るものがあったが、まことに何とも致し方はなかった。

5.建設局の設置

 公共事業委員会は廃止されたが、「経済安定本部は国費に依り行わる一切の公共事業の計画及び一般的監督の責に任ずる」という公共事構処理要綱に基く事務は依然として残っているので昭和22年度予算の査定事務は引続いて行った。内海博士は部長格で残り、日下部副部長が事務局長格で査定事務を進行させた。公共事業関係の事務は第4部の中で公共事業班と称した。委員会の仕事は班が継承し、21年度予算は22年3月に決定を見た。22年5月に総選挙があり社会党が第1党となり片山内閣が成立し、経本長官には和田博雄氏が就任した。これより先4月初頃G.H.Qの指令もあって経本に局課制が布かれることになった。その際公共事業関係は建設局として新設され、計画課、公共事業課、建築課、産業施設課の4課を設置されることになった。社会党内閣となってから人事が行われ、初代の局長高野与作氏が任命された。計画課長伊藤剛氏、公共事業課長杉山知五郎氏、建築課長小林秀弥氏、産業施設課長菊池淳一氏が夫々任命された。筆者は公共事業課において企画調整係として杉山課長の補佐をすることとなり、他に計画課を兼任して資材班長になった。企画調整係は予算の査定に当って技術的面の検討を行う参謀的役割であり、資材研は生産局の資材配当計画作成の場合の公共事業関係の主査を勤める役割であった。この両方を兼ねたことが後に建設機械整備費の設定に当り非常に役立つことになったので特に記しておく次第である。

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