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-小説- ミモザからはじまる 【1.ミモザ】

歩く時はイヤホンをしない。自分の中を流れる音に、風が鳴り、草木がそよぎ、鳥が歌い、そうした音と混ざりあってできあがる音楽をふさいでしまうのがもったいないから。
と、かっこつけて言ってみても、ある曲の受け売りなのだ。

「イヤホン外せば聞こえる
 世界と混ざる 混ぜる音楽
 そよぐ木々 すべる水面
 すれ違う自転車の車輪
 君の声が聞こえたらなんて」


BRIGHT DAYというバンドの『イヤホン』という曲だ。そのフレーズがかっこよくて、若葉(わかば)は、イヤホンを外して歩くようになった。頭の中のメロディに日常の音を混ぜ込むと景色が輝いて見える。その時その場所だけの音楽を楽しむことを覚えた。
それでも、自分の中の声が大きすぎる時は、そっとイヤホンでふさぐのだけれど。
若葉は、いつか行きつけの店を見つけたいと思いながら、月に一回のご褒美として、いろいろなカフェを訪ねている。今日の目的地は、レトロカフェ。SNSで紹介されているのを見て、行ってみたかったカフェだ。
川沿いのゆるやかな坂道を上っていくと、黄色のかすみが視界に入ってくる。
「ミモザだ」
駆け寄るように近づくと、つぶつぶと丸く小さい花が集まって咲く満開のミモザの中にカフェがあった。鮮やかな黄色い花と羽のような葉の隙間に、看板の文字が見えた。
「珈琲と音楽 うたたね」
格子戸を開くと、コーヒーの香りが心地よいまろやかな空気に迎えられた。
「こんにちは」
店の奥から男性の柔らかな声が、穏やかなインスト曲に乗って届いた。
「こんにちは」
「お好きなところへどうぞ」
マスターがカウンターの中からほほえみかける。
若葉は、昔ながらの食堂みたいな造りだと思いながら店内を見回した。カウンター席の他に、小上がりの座敷席があり、地元のおばあちゃんたちがニコニコとおしゃべりに花を咲かせている。
お話の邪魔をしては申し訳ないという気持ちと、靴を脱ぐというハードルもあって、座敷席は遠慮して、カウンター席に座ることにした。
マスターは「どうぞ」とメニューを差し出し、水の入ったグラスをカタリと置いた。テーブルにグラスの影が美しく映る。
メニューは、マスターの手書きのようだ。軽やかで流れるような文字で書かれている。
若葉がグラスを傾けると、さわやかな香りが鼻に届いた。レモンウォーターだ。レモンがかすかに口に広がって、気分がすっきりとする。
テーブルの上には、小さなビンに草花が活けられている。それぞれのテーブルごとに、ビオラ、ムスカリ、なずな、ハコベなど庭の花も野の花も取り合わせて、さり気なく丁寧に飾られている。おばあちゃんたちのテーブルには、白い水仙がピンと咲いている。若葉の前には、小さくあしらわれたミモザが、ふわふわとした春の空気をまとっている。
若葉がメニューを一通り見たところで、ちょうどマスターが声をかけた。
「お決まりですか?」
「うたたねブレンドと、それからプリンをください」
「はい。お待ちください」
マスターの流れるような動きを眺めつつ、視線を動かしていると、店の奥の壁に何かが貼られていることに気付く。近づいてみるとフライヤーだった。ライブやイベントのフライヤーがきれいに並べて貼られている。中には、地元のお祭りのポスターや、手書きで作られた子ども会のイベントのポスターまであって、顔がほころぶ。
テーブルの花々や、このフライヤーのスペースからも、この店のあたたかく細やかな心配りが伝わってくる。
色とりどりの中にある、一枚のフライヤーが若葉の目に留まった。上質な白い紙に、黒い文字でRound Scapeと書かれた、シンプルな一枚。洗練された印象を受ける。「Listen here」という小さな文字に誘われるまま、ポケットから取り出したスマートフォンで、文字の下にある白と黒の四角いコードを読み取ると、フライヤーと同じイメージのシンプルなウェブサイトが表示された。耳に白いイヤホンを付けて、ロゴの下に現れた動画の窓の三角マークを押してみる。
『around』と、文字が浮かんで消えた。

音楽を待ちわびる観客がひしめき合うライブハウス。薄暗いステージに、バンドの姿がぼんやりと見える。音が鳴ると同時に観客が揺れる。楽器のリズムとメロディに重なって、声が響いた。

「いつもの道が 知らない道」

その歌声は、深く揺らいで、その場の全てを引き連れていく。ゆるやかに始まった曲は、音を重ねてスピードを上げていく。白い照明が、バンドメンバーと観客を焚き付ける。音の渦を巻きあげていく。

「変わらない景色
 いつの間にか少しずつ
 変わる景色 
 いつしか忘れてしまう」

若葉は、不思議な感覚にとらわれた。
ライブハウスの熱気を強く肌に感じたかと思えば、観客の波を飛び越えて、ステージに立っている。そして、いつもそうしているかのように、ボーカルの横に立って演奏している。横顔を見ながら、歌声の力に身をまかせて、ギターを鳴らす。

「花開かせて  
 僕はこの歌を歌う
 変わる景色 
 馴染む空気作る
 変わる僕ら 
 そのままではいられない」

音が止み、汗と歓声の感覚に包まれ、笑っている自分に気付いたところで、手の平の動画は止まり、カフェにいることを若葉は思い出した。自分の居場所という心地よい感覚が、心にぺたりと貼りついていた。
「あ、コーヒー」
若葉はイヤホンを外しながら急いでカウンターの方に振り返ると、白いシャツが目の前にあった。シャツのボタンのステッチが青色だ、と思ったのと同時に目線を上にやると、マスターではない男性がそこにいた。
「それ」
「え?」
「それ、見てくれた?」
男性は若葉のスマートフォンと白いフライヤーを指さした。
「動画ですか? はい、見ましたけど」
「それ、俺のバンド。Round Scape」
「え? えー!」
「見るつもりなかったけどちょっと見えた。ごめん」
「本当ですか? もうめちゃくちゃかっこよかったです。シティポップみたいな軽やかさにブルージーなテイストも感じられて。抑えた熱さって感じの歌声に、ほんのり甘さが隠れてて、しびれました。白に群青色をちょっとだけ混ぜていくみたいな」
「熱いな。でも、何か、ありがとう」
「もしかして、ボーカルさんですか?」
「そう。やけど、メンバー俺しか残ってないけどな」
男性は、少し苦い顔をした。若葉は少し言いにくそうに、口を開いた。
「あの」
「ん、何?」
「私を入れてくれませんか?」
「ん?」
「このバンドに入れてください」
若葉は、早口にそう言って、頭を下げた。
「待て待て。メンバー募集のポスターちゃうで。落ち着け。話聞くから、まあ座って」
カウンター席に並んで座ったところへ、マスターが声をかけた。
「お待たせしました」
若葉と男性の前にそれぞれ、コーヒーとプリンが並んだ。つやつやと光るカラメルソースに見とれてしまう。
「おいしそう」
「いただきます」
二人揃って、コーヒーを飲む。華やかな香りとなめらかな苦みの後に優しい甘みが感じられる。豊かな余韻が残る。
「こんなおいしいコーヒー、初めて飲みました」
「うまいやろ」
プリンをスプーンですくうとかためで、口の中でほろりとくずれて、卵の風味をしっかりと感じる。素朴なおいしさに表情がゆるんだ。「おいしい」と若葉がこぼすのを、マスターが見守っていた。
「亮(りょう)ちゃんがナンパなんて珍しいね」
マスターがからかった声を出す。
「いえ、私が」
「お姉さんが? やるねえ。どうぞごゆっくり」
「おい、シン」
マスターは、声をかわしてカウンターを出る。ピッチャーを片手に、タブリエエプロンをなびかせた。座敷席の会話の輪に入っていき、まもなく華やかな笑い声が上がった。
「で、それで?」
「そうでした。私、森下(もりした)若葉(わかば)と言います。専門学校に行って、ギターやってたんです。まじめに頑張ったつもりなんですけど、うまくいくかどうかは別問題で。いつも、普通でおもしろくないって言われてました。専門で組んでたバンドは授業のためで、他の子には別に本命のバンドがあったから。音楽で生きるって決めたけど、それだけでは進路も決まらなくて。今日、Round Scapeの曲を初めて聞いて、一目惚れ、一聞き惚れしました。私をバンドに入れてください。さっきそこでライブの動画見てたら、私がそこにいるのが見えたんです。ステージの上で、あなたの横に。いきなりこんなこと頭おかしいみたいですけど。こんな感覚、初めてで」
若葉は一気に言葉を吐き出した。
「あの短時間で、えらい気に入ってくれたんは分かった。ありがとう。でも若いよな。若すぎる」
「二十一歳です」
「若っ。そんな若かったら、何だってできるし、どこにだって行けるやろ。もったいない」
「そんな、もったいないわけないです。もったいなくなかったらいいですか。自分で選んだ行き先がRound Scapeだったらいいですか」
「いいですかって言われたら。そんなん、あかんとは言えへんやろ。耳もいいみたいやし。進路というにはあまりにも頼んないけどな」
「それって?」
「よろしくってことやな」
「本当ですか? ありがとうございます。がんばります。よろしくお願いします」
「こちらこそ。俺は河西亮(かさい りょう)」
そう言って、右手をスッと差し出した。
軽く触れた亮と若葉の手の平は、遠慮がちに二回揺れた。
「お、なんか交渉成立だね」
マスターがカウンターへ戻ってくる。亮がこの数分間のできごとをマスターに伝えているのを聞いて、若葉は自分の突拍子のなさに気付き、顔を赤くしてうつむいた。
「すごいすごい。なかなか大胆だね」
マスターが嬉しそうに声を上げて笑う。
「この頑固者を動かすなんて、一体どうしたらできるの。僕にも口説き方を教えてほしいよ」
マスターの言葉は止まらず、若葉の赤面度は上昇していく。うつむいた先にあるミモザの花が一粒、テーブルに落ちているのが見えた。指でつまんで、紙ナプキンの上にそっと置いた。
「シン、そのくらいに」
見かねて亮が声をかける。
「ごめんごめん。嬉しくてさ。そうだ。これ、お祝い。よかったらどうぞ」
いつの間に用意したのか、魔法のように二人分の苺のケーキを差し出した。
「お祝いって。さすがやな、マスター」
「ありがとうございます、マスターさん。かわいいケーキ」
生クリームのケーキの上に、スライスした苺がきれいな模様を作っている。
「メニューには載せてないけど、僕がケーキを食べたかったから作ったんだ。あと、僕は、シンでいいよ。マスターでももちろんいいけどね」
あっさりとした甘さのケーキは、甘酸っぱい苺のおいしさを引き立てていて、プリンを食べたばかりにも関わらず、二人はあっという間に食べてしまった。
「とってもおいしかったです、シンさん。気持ちが落ちつきました」
若葉が笑うと、シンはゆっくりと頷いた。
「じゃあ、ここでライブお願いできるかな? 来月でいい?」
「ん?」
「はい?」
亮と若葉の声が重なった。
「動き出したなら、早い方がいいでしょ。よろしくお願いします」
かしこまって頭を下げるシンを見た二人は、言葉が出なくて顔を見合わせた。亮は眉間にシワを寄せ、若葉は首をかしげている。
「いっちょ、やったるか」
観念して亮が声をあげた。
「やったりましょう」
若葉もそれに続いた。
「ということで、こちらこそよろしくお願いします」
亮が言い、二人でカウンターに手をついてお辞儀をした。
「やった。久々だね。彩(あや)にポスターとフライヤー、頼んどくね」
「ああ」
亮が少し渋った声で返事をした。
今日知り合ったばかりの人から知らない名前が出るのは当然ながら、若葉は、「彩」という名前になぜか胸騒ぎがした。
「次いつ来れる?」
亮の尋ねる声が聞こえた。
「いつでも来ます。明日とか」
バイトのことが若葉の頭をかすめたが、すぐにそう答えていた。明日のシフトは変わってもらおう。バイトをやめたってかまわない、そんな気持ちにさえなっていた。これから始まる日々への大きな期待があったのだ。
「明日な。またここで」
シンが思いついたような声を出した。
「ねえ、写真撮っとこうよ。今日の記念に。ちょっと待ってて、カメラ取ってくるから」
店の裏へ入って行った。
「シンさんっていい人ですね」
「優しすぎるんや、いつも」
「お待たせ」
シンは、一眼レフを持って急いで帰ってきた。

シンのおすすめで、店の前で撮影することになった。
「もうちょっと、ミモザの方に。看板の下くらいに立って。ちょっと離れすぎ。一歩ずつ中に寄って」
シンから指示がポンポン飛んでいく。
「いいねいいね。撮るよ。ハイチーズ。って顔が固いよ」
シンは喋り続けながら、撮影している。カシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャ。
「おい、何枚撮んねん」
連写のごとく鳴り響くシャッター音に、亮と若葉は二人して吹き出した。笑顔の二人を逃すまいと更にシャッター音が連なった。二人をファインダー越しに見つめていたシンは、さっき会ったばかりの二人とは思えない空気を感じていた。ハッとしてカメラから顔を上げる。二人が何かを動かす、そんな予感がした。
「最高。いい写真が撮れたよ」
「あはは。ありがとうございます」
笑い声に包まれた。風に吹かれたミモザも側で笑っていた。

「じゃ、また明日」
そう言って別れた。若葉は坂を下りながら、亮は坂を上りながら、シンは店の戸をくぐりながら、「そういえば」と思う。
「音聞いてもらわないで決めてよかったのかな」
「音聞かないで決めてよかったんか」
「音聞かずに直感で決めるなんて、最高」
そんな迷いのような不安のような思いは、三歩進んだ頃には消えていた。自分の直感に頼って飛び込めたことに充足感を覚え、色々なしがらみに捕らわれずに決められたことが閉塞感を破り、新しいことが始まる期待感に浸り、ただ嬉しいことが嬉しかったのだ。
「帰って練習しなきゃ」
「片付けなあかん」
「いい顔してたな」
駆け出したくなるような、明日を楽しみに思うような、こんな気持ちはいつぶりだろうか。

さっき聞いたばかりの『around』のメロディが流れてくる。

「変わる景色 
 馴染む空気作る
 変わる僕ら 
 そのままではいられない」

見上げる空は、白に混ぜた群青色を濃くしていく。川の流れは、優しく撫でて、角を丸くしていく。川原の草は、風に歌って、好きな方向に伸びていく。若葉は、音楽が景色を彩るものだと思っていたけれど、景色が音楽を彩ることもあるのだと感じていた。
イヤホンをしなくても、音楽は今日も流れている。


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