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-小説- ミモザからはじまる 【4.つゆくさ】

低い音でスマホが震える。明るい窓が亮からの着信を知らせる。
「もしもし」
「今いいか?」
「大丈夫ですよ。バイト終わって、ちょうどカラオケに来たとこです。ちょっと練習しに」
若葉は、重い扉を開いて、小さな部屋に入る。
「そうか」
「何かありました」
「ああ。メール送ったんやけど。そこに付いとるURL開いて」
若葉は電話をスピーカーに切り替えて、メールを開く。
「はい。これですね。何ですか」
メールのURLの先に、空色が広がった。見覚えのある色に、若葉はほっとした。
「これって」
「俺らのホームページ。彩がリニューアル案送ってくれた。さっき電話あって、若葉にも見てもらってって」
「彩さん、仕事早っ!」
空色の中に、ロゴが浮かんでいる。シンプルな作りには変わりないが、ロゴが新しいものになっている。
「彩いわく、若葉が入ったから、丸さを足してみたんやって」
確かに、今までのきっちりした印象に比べ、柔らかさを感じる。若葉は、ロゴの文字に小さく葉っぱの模様が付いているのに気づいて、はっとする。きっと、若葉の葉を入れてくれたんだ。
「めちゃくちゃいい。嬉しいです」

ページをスクロールすると、動画の窓が現れた。
ライトの中に亮、そして若葉の横顔が見える。
「この前のライブだ」
「そう」
「カメラ置いてあるなとは思ってましたけど。シンさんが撮ってると思ってました。彩さんだったんですね」
二人は同じタイミングで見ることにした。
「せーの」
亮はマウスで、若葉は人差し指で、三角ボタンを押した。
『around』の文字が浮かんで消えると、亮の声が流れてくる。若葉は、その声を聴くたびに、耳がピンとなる。続けて若葉の音が流れ始める。
「恥ずかしいですね。いくらでも反省会できそうです。ああ、下手くそ」
「緊張感そのものやな。声が震えとる」
背中を合わせて座っているかのように、ぽつりぽつり言葉を交わす。
映像が止まり、そっと若葉が尋ねた。
「あの。彩さんって、何か言ってましたか」
「ああ。ライブ終わり、すぐ帰ってったからな。声かけたら、仕事あるからって」
亮がさらりと答える。
「そうなんですね」
「ああ、でも、ライブよかったって言うとったで」
「そうですか……。彩さんって、すごいですね」
いつだって彩さんは亮さんのことを一番に考えているように見える、とは言えなかった。
「そうか。まあ確かにデザインいいよな。なかなかよう言わんけど。ページ、これでええな?」
「もちろんです。最高です。彩さんにありがとうございますって伝えてください。それから。亮さんからも、ちゃんと言ってくださいね。ありがとうって」
少し間が空いて亮が出した声は、すばやく駆け抜けた。
「はいはいはい。分かっとる、分かっとる」
「絶対ですよ」
「OK」
「はい」
「じゃまた。あんま遅くなんなよ」
「はい」
「気いつけてな。おやすみ」
「おやすみなさい」
電話がブチッと音を立てて切れた。背中合わせの感覚から、さっと元の場所に引き戻された。もっと静かに、フェードアウトするように切れたらいいのに。
薄暗く、しんとした部屋の中、パソコンの画面がやけに明るく、空色がぽっかりと浮いている。手元のスマホには、若葉の名前が残っている。ソファにすっぽりと座って、彩に電話しようと思ったが、やめた。明日にしよう。亮はそっと目を閉じると、静かな夜がはっきりと聞こえた。
派手なストライプ柄の壁を背景に、スマホの画面には空色が揺れている。若葉はギターケースをぎゅっと抱えて、目を閉じた。カラオケのメロディが小さな音で流れているのが聞こえた。若葉の好きな曲、『イヤホン』だった。若葉はそれに合わせて、小さく小さく口ずさむ。

「優しい風 なびく髪
 君の耳のイヤホンがのぞく
 どんな音が流れているの?
 僕もそこに行くよ 
 君にとどく 歌を」

この曲のように、自分にも曲を届けたい誰かがいるだろうか。
自分の曲を歌って欲しい人ならいるかもしれない。
何度も励まされてきたこの曲に、また背中を押される。
ギターとノートを取り出し、ギターを弾いてはノートにどんどん書き留めていく。中身の見えない箱の中から、手にしっくりとくる感覚を頼りに、一つ一つ音を取り出し、つなぎ合わせていく。
壁にかかった電話が時間を知らせる音にも気づかずにいた。


亮は裏のおじいさんの家へちょこちょこ手伝いに来ている。ちょっとしたことでも喜んでもらえるのがありがたい。庭の畑で、野菜の苗を植えているところに、おじいさんのひ孫が遊びに来た。
「りょうくん」
「お、ゆうちゃん。この前は、お歌聞きに来てくれてありがとう」
ライブの時に、声をかけてくれた男の子だ。追いかけっこをしたり、砂遊びをしたりして遊んでいるうちに、思った以上に時間が過ぎてしまっていた。若葉は先にスタジオで待ってもらっていたのだった。
家に戻ると、初めて聞くメロディが亮を迎えた。若葉の声も小さく聞こえてきた。
そっとスタジオの扉を開けると、若葉が焦った様子で振り返った。
「あ、おかえりなさい」
「ただいま。遅なったな。それより、何? 今の曲」
「あー。聞かれちゃった。あの、ちょっと曲を作ってみようかと」
「若葉の曲か。よさそうやった。もう一回弾いてみて」
「まだちゃんとできてないんで」
「ええから。弾いて」
「うん。弾いてみます」
 まっすぐに前を向いて、亮の目を見ないようにして、若葉は、ギターを鳴らし、歌い始める。

「ステージライト まぶしくて目を閉じる
 息を吸う音が 大きく聞こえる」

その音は、そよ風に揺れる草花のようだった。遥か遠くまで、ささやかに届く音が耳を撫でた。

「Sky Blue Soda
 光のあわが つぶつぶと
 丸く丸く丸く 浮かんでくる
 小さなあの子のひとみ
 キラキラと たたく手 あげる声」

若葉は最後の一弦を弾き切ると、亮の声が迎えた。
「ええやんか。この前のライブの曲か。『あの子』って、ゆうちゃんのことやな。ええな。次のライブには、この曲入れよな。シンも次いつするって言ってくれとる」
「よかった。この曲を亮さんに歌ってもらいたくて」
亮は、若葉の光宿る目を見て、この曲にかける思いを感じた。そして、同時に、この曲のよりよい形が浮かんだ。
「いや。これは俺じゃなくて、若葉が歌った方がええんちゃう」
「え。やっぱりだめだったですか。こんなしょぼい歌が歌えるかってこと?」
「いやいや。そうやなくて。若葉が歌った方がいい歌になる、絶対」
「いやいやいや。亮さんに歌ってもらいたくて作ったんですよ。こんなへなちょこな声では無理ですよ。Roundはやっぱり亮さんの声じゃないと」
「俺の声がいいのは分かっとる。やけど、強い声だけがいいわけじゃないやろ。新しいRoundの色を付けていきたいと思っとったからちょうどええ」
「えー、無理でしょう」
「歌った方がいい。大丈夫や。ボーカルがスイッチするのもいいやろ」
それでも、若葉は渋った顔をして、あきらめきれないでいた。
「じゃあ、せめてせめて、亮さんも歌ってください。一緒に歌うことにしてくださいよ。歌うのが嫌で言ってるんじゃなくて、亮さんにこの曲を歌って欲しいんですよ」
二人で歌う。亮の頭の中に、二人の声で歌う曲が自然と描けた。それこそが新しいRound Scapeの音だと思えた。
「それもありかもな。その方向でやってみるか」
「やった。もっといい曲に仕上げます」
「シンがまた喜ぶな」
亮の声に、若葉のギターそして声が重なっていく。音楽が生まれる喜びを歌に込める。
自分にしかできないとは言えない。けれど、誰にでもできるとは思わないことにしよう。
描く景色がどんどん膨らんで広がっていく。そしてそれは手に触れられる距離にある。大きくて小さな歌。広く狭く包む歌。一つの夜を閉じ込めて、日常に解き放つ。


萌黄色の傘を、雨が強く打つ。若葉はそのリズムに合わせて、長靴を鳴らした。
庇の下で傘の雨粒を落としていると、視界の端に小さな青色が映った。道路と庭の間に集まって咲いたつゆくさが、こちらを向いていた。雨露に光るその美しい佇まいに、清らかな気持ちで満たされた。
若葉はチャイムを押して、玄関の戸を開くと同時に、家の中に向かって声をかける。
「やっぱり今日も雨ですね。この前、ギター置いてってよかったです。ギターもずぶ濡れになるとこでした。亮さん、つゆくさがきれいに咲いてますね」
「お、来たな。はよ入って」
リビングから亮の顔だけがのぞいた。そわそわした様子の亮の声に引っ張られて、若葉が部屋に入ると、スピーカーから心地よいピアノのメロディが流れていた。いい音に思わず耳がピンとなった。
亮は、若葉にタオルをポンと渡すと、高揚を押さえた声で話した。
「聞け、若葉。フェス決まったぞ」
「フ・ェ・ス?」
「フェスティバルのフェスや」
「それは分かります。なぜ? どうして? ということです」
「アリスって知っとるよな」
「歌手の岩瀬アリスさんですか」
女性ボーカリストの岩瀬アリスは、メッセージ性の強い楽曲が女性を中心に人気を集めている。
「アリスが主催しとるUNBIRTHDAY FES。それに出る」
若葉は音楽雑誌で、UNBIRTHDAY FESの記事を読んだことがあった。アリスの出身地にある森林公園で開催されているこのフェスは、アーティストのセレクトセンスや地元との協同に力を入れるている点などが紹介され、チケット完売必須の注目フェスだと書かれていた。アリスのインタビュー記事には、数年前からアリスは演者としては出ずに、裏方に回っていると書かれていたことを思い出した。
「出るって言って勝手に出られるわけじゃないでしょう」
「アリスから連絡があったんや」
「またまた、そんなこと言って。騙されませんよ」
「嘘ちゃうで。たまたまネットでライブ映像見て、声かけてくれたんやって」
「そんなことありますか? 騙されてるんじゃないですか」
「騙されてない、と思う。明日の打ち合わせもアリスの会社であるし、大丈夫や」
「明日?」
「明日や。若葉も行けるか」
「急ですね。行けますけど、本番いつなんですか?」
「三週間後や。出るんでいいよな」
「三週間……間に合いますか?」
「『うたたね』のライブと同じように作っていったらいい。いつも通りに。間に合う」
「分かりました。やってみたいです」
まっすぐな若葉の目に、亮はほほえみと一緒に頷いた。
「フェスのステージとなると、前のRoundに比べて、迫力が足りないですよね」
「そんなん気にせんでええ。今のライブを見てオファーもらったんやから」
「そうなんですけど。何かもうちょっと欲しいですよね」
「せやな。フェスやし、サポートメンバー頼んでもええけどな」
いつも通りと言いながらも、「うたたね」のステージより規模も大きく、客層も違うことを考えると、無駄に頭に力が入ってしまう。ふとした合間に、亮の眉間にはシワが寄り、若葉の口はとがっている。言葉の合間に流れる雨音を、ピアノの音が和らげていた。
「ピアノとかどうですか。今流れてる感じのピアノ。めちゃくちゃ気持ちいい音。軽やかで、鮮やかで。シャボン玉がふわふわしてるみたい。誰の曲ですか?」
若葉の言葉に、亮の動きが一瞬止まった。ふっと立ち上がり、オーディオの側から一枚のCDを取ると、若葉に手渡した。
「このCDですか。Shinji Koyama……」
CDジャケットには、ピアノを弾く男性の後ろ姿、そして小山(こやま)慎司(しんじ)『utatane』とある。
「これ。もしかして、これってシンさん」
若葉はポツンと置いて行かれたような顔で亮を見つめる。
「そう」
「え、シンさん、ピアニストだったんですか!」
「そうや。別に隠しとったわけやないけどな」
「すごい、すごい」
先ほどまでのきょとんとした表情をキラキラした表情に変えて、若葉は声を弾ませた。CDケースを開いたり閉じたりしている。ケースの中から、まだあどけないシンが笑いかけている。
「もうやめちゃったんですか」
「家の都合みたいやな。CDも何枚か出して、テレビにも出とったけど、スパっと辞めてここに帰って来た。家に帰るってなかなかできそうでできへんからな。本当にすごいと思う」
亮がずっと遠くを見つめて、思いを巡らせながら、物語を読み聞かせるようにゆったりとした声で語った。
「シンは、昔イベントで知り合ってから、いつも何かとずっと気にかけてくれて。俺が今ここに住まわせてもらえるのも、シンが口利いてくれたおかげやしな。俺の人生、シンに導かれてるようなところはあるかもな」
「そうだったんですね」
その物語には、亮とシンのこれまでの歴史とつながりの強さが流れていた。若葉はまばたきを忘れて、その流れをじっと見つめていた。
「シンはすごい。本当に何でもできるんや。コーヒーだって何だってめちゃくちゃうまい。誰にでも出せる味じゃない。誰にでもできることじゃない」
「誰にでも出せる音じゃない」
「せやな」
若葉の頭に感嘆符が浮かんだと同時に、言葉が出ていた。
「シンさん、誘いましょう」
「そう来たか」
うつむいて考える亮の頭の中の渦が、眉間に深いシワを作った。
「声かけてみてもいいけど。俺も一緒にやってみたいけど。シンはやらんと思う」
「はい。でも聞くだけ聞いてみたいです。いいですか」
「わかった。早い方がいいけど、今日は店休みやな。用あるみたいやし」
「明日の打ち合わせって、亮さんにお願いしてもいいですか? 私が、明日シンさんに話してきます」
「OK。まかせた」
力強くうなずく亮に、若葉は小さな拳を挙げてみせた。
「がんばります。非常に緊張してきました」
「そんな気負わんでええ。話できたらすぐ電話してな」
明日の打ち合わせに向けて、セットリストを考え始めるが、どこかそわそわとして、シンのピアノを聞きながら、シンが入ってくれたらどんなアレンジにしていこうか、いつのまにかシンのことを話してしまう二人だった。


梅雨の晴れ間に、草木の緑が強く輝いている。その光に力をもらって、若葉は「うたたね」の戸をくぐる。
「若葉ちゃん、おはよう。今日は早いね。亮と待ち合わせ?」
「今日は一人なんです」
「どうぞお好きな席へ」
「はい」
若葉はカウンター席の真ん中に座った。テーブルの上の細いビンに、三本のネジバナが活けられている。らせん状についた花を目でなぞる。水の中で、茎についた空気の粒が光っている。
「何か飲む?」
「あの、今日はシンさんに、お話があって来ました」
「うん」
シンが傾けるピッチャーの中で、ミントの葉がひらりと揺れた。
若葉が傾けるグラスから、涼し気な香りがふわりと漂った。
「昨日、亮さんのところに連絡があって、フェスが決まりました。UNBIRTHDAY FESっていうフェスです」
「え! すごいじゃん。アリスのフェスだよね。楽しそう」
シンは手を叩いて喜んだ。
「あと一か月もないんですけど。亮さんは今日打ち合わせに行ってるんです」
「何かと急展開だね。でも二人なら大丈夫だよ」
「それで。昨日、亮さんのところでCDが流れてたんです」
若葉は鞄から一枚のCDを取り出した。シンの『utatane』だ。
シンの顔が一瞬で曇った。一度うつむいて、無理やり笑って見せたのがわかった。
「そうなんだ。恥ずかしいな」
「シンさんのピアノ、すごくきれいな音で、めちゃくちゃ好きでした。」
「ありがとう。別に隠してたわけじゃないんだけどね。表舞台からは足を洗って、ここに帰ってきたんだ」
「家のご都合って亮さんから聞きました。シンさんは本当にすごいって。シンさん、Roundでピアノを弾いてもらえませんか。一緒にフェス出たいです」
「何の話かと思ったら、そういうことか。うん。表向きは家のために帰ってきたことにしてるけど、全然かっこいい話じゃない。逃げ出したんだ」
グラスを伝って、ぽとりと水滴が落ちる。シンも水を飲み、言葉を続けた。
「僕のピアノで、みんなが喜んでくれたらいいって思ってたんだ。呼んでもらえる所にはどこへでも行った。だけど僕は、音大にも行ってないし、賞を取ったわけでもない。席を並べた誰も言わないけど、何か言われてる気がして、肩身が狭かった。自分で決めた道なのに、間違ってる気がしてしまったんだ。それで、また別の所に行ったら行ったで、言いたくないことを言っていたり、弾きたくない曲を弾いていたり。喋り声にかき消されて、僕の音を誰も聞いていないんだ。気づいたら、表に出ることが、ピアノが、つらくなってしまってた。そんな時、僕の顔を見て、『戻って来てくれ』って、病院のベッドの上で父がそう言ったんだ。母は、僕の手をさすってくれてた。今まで自分の好きなようにしたらいいって言ってくれてた両親が、言い訳を作って、僕を救ってくれたんだ」
息が詰まって苦しくなった若葉は、言葉と息を吐き出した。
「シンさん、ごめんなさい」
「何で若葉ちゃんが謝るの。僕がうまくやれなかっただけのこと。でもね、人生に間違いなんてないんだ。全部正解なんだよ。散々間違ってるって言われてきたけどね。帰ってきてよかったと思ってる。コーヒーをおいしいと言ってもらえることも、音楽を聴いて笑ってる顔を見ることも、同じように嬉しい。帰ってきて分かったのは、答えは一つじゃないってこと。じいちゃんばあちゃんの良しと、両親の良しと、僕の良しと、子どもたちの良しは違う。違って当たり前なんだ。ここでの暮らしは、昔は少し苦手だったけど、守ることにも新しい風を吹き込むことにも同じだけの重さがある。こうじゃなきゃいけないっていうのにしばられてたのは自分だった。時間をかけてそれが分かった。それもまた僕にとっての正解なんだ。って、かっこよすぎたかな」
シンの顔に穏やかな笑みが戻っていた。
若葉は、ほっとしたようでもあり、心に重しが残ったようでもあった。シンのその笑顔は、感情を抑えて、いつも通りに見せてくれているのだと分かったから。シンの優しさの後ろにある光と影の美しさにめまいがするようだった。
若葉は、シンの言葉を思い返しながら、自分に重ねようとしてみる。楽しい日々の中、いつもどこかに不安があって、何も正解を見つけられないような気がしてしまう。
「私にもいつかシンさんのように思える日がくるんでしょうか」
そうつぶやいて心に渦巻く言葉を、口角を上げて留めた。
「もちろん僕だって、僕一人でここまで来られたわけじゃないからね。実家に帰るって決めた時、亮が心配して家に来てくれたんだ。その時、コーヒー出したら、『めっちゃうまいやん』ってものすごく喜んでくれたんだよね。普通に淹れただけなのにさ。あの時の亮には、本当に救われたんだ。それが今につながってる」
話しているシンはとても幸せそうに見えた。
「こうして暮らすことに満足してるんだ。僕がピアノを弾かなくても、素敵な音楽はたくさんある。もう音楽には戻らないって決めたんだ。でも、誘ってくれて本当に嬉しかった。Roundのこと、一ファンとして心から応援してる」
「わかりました。急にこんなこと言って、すみませんでした」
若葉は丁寧に頭を下げた。「全部正解」と心の中でゆっくりと唱えた。
「私もシンさんのCD聞きますね。一ファンとして」
小さく声を出して、シンは笑った。

店の外に出ると、太陽の光で世界は輝いていた。若葉はそのまぶしさに、体中からため息が出るようだった。
ポケットからスマホを取り出して、歩き出す。亮さんに電話しなきゃな。がっかりするだろうな。もっといい言い方があったんじゃないか。やっぱり亮さんに頼むべきだった。でも、シンさんの心は決まってたから、結果は変わらない気がする。シンさんも、ずっと今のシンさんだったわけじゃないんだな。一緒にライブしたかったな。ぐるぐると思いながら、動かす足からは、とぼとぼと音がする。電話しなきゃ。電話しなきゃな。
若葉の背の方から、ガラガラと戸が開く音がした。
「若葉ちゃん!」
シンの声がまぶしい世界に響いた。若葉が振り返ると、店の前にシンが立っていた。
「若葉ちゃん! 思い出したよ。そのど真ん中にいる時は、正解かどうかなんてわからないんだった。やるよ! Roundでピアノ弾かせてください」
選手宣誓のように、まっすぐで高らかな声だった。今までに見たことのないシンの表情は、恥ずかしそうで、潰れそうに柔らかくて、若葉は自分と同じ年頃のシンを見た気がした。
若葉は、「キャー」とか「わー」とか「やったー」とか叫びながら、ばたばたとシンの元へ駆け寄った。
「シンさん!」
若葉は顔全部を笑顔にして呼びかけた。
「若葉ちゃん、よろしくお願いします」
シンのまっすぐ差し出す右手に、若葉の右手は安堵を伝えた。二人の後ろで、ミモザの葉が、銀緑に優しく光ってさらさらと揺れていた。
若葉のスマホが左手の中で震え、亮からの着信を知らせる。待ちかねて打ち合わせの前に電話をかけたのだろう。
「亮さんからです」
「僕が出るよ」
シンがとんとんと自分の胸を指差した。若葉はシンに電話を託すと、シンの耳元から急いた亮の声が漏れた。
「若葉、どやった?」
「もしもし、僕だよ」
「シンか。もう話は聞いたってことやな」
「うん。聞いたよ」
「で、どうなん」
「うん。でも、ごめん。断らせてもらった」
沈黙の音が流れた。亮の落胆の表情が目の奥にはっきりと浮かんだ。
「そうか。そうやろな」
「ごめん。でも、すごく嬉しかった。だから、一緒にさせてもらうことにしたよ」
「ん? どういうことや」
「そういうことだよ。僕もRound Scapeに入れてください。よろしくお願いします」
一拍置いて、沈黙を破ったのは、シンと若葉の笑い声だった。
「おい! まじか、お前。やってくれるな」
電話からこぼれた亮の声が大きく響く。
「いつかの仕返し。僕は根に持つからね」
亮の笑い声も混ざり合う。いつかの「うたたね」でのやりとりが駆け巡り、空気がふるえて、気温が上がる。シンは亮の笑う声を満足そうに吸い込んで、若葉に電話を差し出した。
「亮さん、やりましたよ」
「おい、若葉! よくやった。本当によくやった」
「はい。打ち合わせ、よろしくお願いします」
「終わったらすぐ帰るから」
「待ってます。シンさんと一緒に」
「また後で。行ってくる」
若葉の耳元で、電話の切れる音が小さく鳴った。
シンは額にうっすら汗を浮かべて、すっきりとした表情で空を見上げている。若葉はその隣で空色の川面を見送った。


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