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天使になった歌姫♡(中編)


 

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"[AC CM]公共広告機構 知らんぷりよりちょっと勇気"
https://youtu.be/z6NTwLt2ZiE

同年7月23日リリースの7th「HELP」は公共広告機構(現:ACジャパン)のいじめ防止キャンペーン「しらんぷりもいじめ」のテレビコマーシャルで使用された。


 
  "本田美奈子. - Oneway Generation"

https://youtu.be/QJznVKoBRkY


  1987年2月リリースの9thDシングル。

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  1987年(昭和62年)放送のドラマ『パパはニュースキャスター』には本人役で出演し、主題歌に採用された「Oneway Generation」は、ドラマ自体の好評にも支えられ人気を博した。

また、同じ年の映画『パッセンジャー 過ぎ去りし日々』も歌手の役ということで引き受け、劇中事故で亡くなったレーサーの兄に捧げて「孤独なハリケーン」(9月9日発売)を歌った。

この3曲で、本田にとってオリコンランキング最高位である2位を獲得したのだった。

  その後、本田は女性だけのメンバーでロックバンドを組むことを思い立ち、東京と大阪でオーディションを行い...

1988年(昭和63年)1月に“MINAKO with WILD CATS”を結成する。


"ルージュの伝言 本田美奈子 With ワイルドキャッツ"
https://youtu.be/wFsoAWTYQHs


こうした彼女の試みの背景には脱アイドルへの志向や、海外のロックスターと共演したことや、当時の国内でのバンドブームの影響があったのかも知れません。


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ツインドラムという特異な編成や、バンドとしてのデビュー曲「あなたと、熱帯」の作曲を忌野清志郎が手がけたことなどは話題となった。


初めて自ら作詞を手がけたのもこの頃だった。


  さらに、演歌への志向へ
当初は演歌歌手志望で、事務所のオーディションのために準備してきた楽曲は演歌ばかりだったと言う。

しかし、所属するボンド企画が演歌歌手を育てた経験がなく、アイドルとしてデビューすることになったらしい。

当時のアイドルには無い楽曲になったのは、本人の意向を考慮し個性を活かした戦略だと言えそうです。


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"本田美奈子 越冬つばめ"
https://youtu.be/qSEvtZVthtU


また、ロックバンドを解散し再びソロに戻った頃には、出演のテレビ番組では着物を着て演歌を歌った。


  ソロ歌手に回帰後の89年10月、シングルをリリースするも、チャートは最高53位に留まる。

  忘れられたアイドルとなっていた。
  アイドル歌手としての壁にぶち当たったのだ。


  この1989年9月末、アイドルの歌や姿をお茶の間に届け続けた歌番組[ザ・ベストテン]は役目を終焉したのだった。

  アナログレーコードからCD(コンパクトディスク)に完全に移行し、さらなるウォークマンの流行で、音楽ががお茶の間から個々のものへと変化を遂げた。
  共有する音楽が無くなり、CDは売れなくなり、音楽業界が冷えきってしまった。

  その結果、音楽スポンサーが消え、歌番組の存続が難しくなったのだった。

  限られた番組だけの僅かなアイドル枠に激減し、多くのアイドルがテレビに登場出来なくなってしまう。。

  そして、バブルが崩壊始まり、華金のカラオケスナックどころでは無くなったのだった。

  音楽冬の時代に売れたのはバンド・ボーカル系のアーティストとなった。

  音楽文化の時代の転換点の狭間で、本田美奈子は苦しんだかも知れません。

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  プロデューサーの高杉は、ミュージカルへの挑戦をすすめる。



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