創作という名の翼

創作というモノへの渇望


モノが作りたいという欲求は果てる事が無い
表現者でありたいが 自身 という道具を選択できない人間は
染み出したソレ 創作により 自分の中の何かを表現する道しかない。

どの文章つかうか、どこを改訂するか
そんな事は後回しでペンはすすむ。今時はキーボードだが

もし わがままが許さる立場の人間、そういう役割を演じる事が許可された人生だったなら、幾人もの人生や、その家族の人生、関係先や関与するもの全てを灰燼にしても、表現者に戻りたいものである。
しかし、そんな人として生きる中での、誰もが、当然のように許された権利ですら行使できぬほど、遠くに来てしまい、未だ人生列車は走り続ける。

表現は 還り刺さる


自分をなんらかの形で表現したいと願う人間
そんな事を考えすらせず生きる人間
どちらが正しいというモノでもなく、どちらが優れているというモノでも無い

SNSの発達で、気軽に世に何かを発する機会が増え
批判や誹謗を繰り返し、その量も年々膨大に増えていくこと
しかし SNSのタンツボのような発信は、どちらかといえば
後者が、タンや糞尿を垂れ流す延長線上の話であり、前者を選ぶとイバラの道を選ぶことになる。

表現者が垂れ流すソレは、苦悩や葛藤、修練や練磨の先にあり
その末に出たものである。
「デジタルタトゥー」という言葉があるが、綺麗なソレなら後世まで伝わり、誰かを良い方向へ作用し影響して導いてくれるだろう。
自分の中から出た ソレは自分の本来の業であれ、誰かを演じた先にある発信であれ、自分の体から離れた表現という名の新たなソレは どういう形か 表現者に還り刺さる。

体から染み出したものでなく ただ誰かに承認されたい。というだけで発信されたものを見せられるのは悪くは無いが 魅せられることはない。
残念ながら 表現者ともパフォーマーとも思えない
ただ 憧れ 道端の大道芸を 俺もできるんちゃう?と見よう見まねでするレベルのものは 自分の家のトイレのドアにでも貼っておいて、用をたす時に見て悦に浸ってればいいと思う。
表現が己に還る前にどこかの道端に落ちてしまうであろう程度の表現なのであろうよ。

そういえば、漢字のタトゥーが流行った時に、テレビカメラに白人のお兄ちゃんが自慢げに見せた「台所」というタトゥーは、ちゃんと消せたのだろうか

体から離れたソレが 誰かを幸せにしたり ほっこりさせたりできるようになるなら それは素晴らしい行為だと思う。
SNSの画像やつぶやきを いつまでも覚えているものだろうか
明後日になれば 知り合いが上げてた画像すら忘れてしまう。
表現は、誰かになんらかの作用を与えてこその表現であって欲しいと願う


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