見出し画像

【ANIME】2017年、アニメ作品における新たな興隆・・・・セカイ系・赤松健・日常系・まどマギ・ゆゆゆから振り返る【ディストピア・ポストアポカリプス編】

2016年から2017年にかけての2年間で、日本のアニメ作品における一つの転機を迎えた。2017年のアニメシーンでみえた作風、新日常系・ディストピア系・終末系・ポストアポカリプス系の作品が、はっきりとした爪痕を残したといっていいだろう。

しかして、明確な支持層はどんな人か?といわれると、言葉にしづらい面がある。ここでは翻って、そういった世界観・作品世界が支持されるようになった理由や背景を捉えてみたい。その流れを捉えることで、見るものが傾倒していった流れを紐解くことができると思う。

MAG文化(マンガ・アニメ・ゲーム文化)における主要なストーリーライン/文脈をおさらいした初回、90年代末から活躍によって00年代以降の現在におけるMAG(マンガ・アニメ・ゲーム)文化に多大な影響を及ぼしてきた赤松健の作品について書いた第2回「赤松健編」、その赤松健作品ワールドを引きずったムードで興隆を迎えた日常系作品には制作側・読者の共犯関係があること書いた「日常系編」

2009年に「けいおん!」が大ブレイクを迎え、日常系作品のムードがMAG文化でも主流になったわけだが、2010年代以降には2つの作品が大きなブレイクを果たした。「魔法少女まどか☆マギカ」と「結城友奈は勇者である」 この2作品について書いたのが前回の「まどまぎ・ゆゆゆ編(新日常系)」であった。

今回で連載もラストになる、この2作品が描いた先の世界、つまりディストピア系・終末系・ポストアポカリプス系編をお送りしたい。

__________________________________

新日常系という言葉をいったん忘れ、ここからはディストピア系・終末系(終末もの)・ポストアポカリプス系作品を推し並べてみよう。

ディストピア系ときくと、いくつか察しがつく人もいるだろう。理想的社会・空想的社会を意味する「ユートピア」とは、「感情などの非論理的・非合理的なものを排除した、効率的な理想の社会」をさすつまり理性で統制された社会のことであり、欲望が必ず叶う場所という意味では決して無い。

だが「ディストピア」は、「効率的な理想の社会」を過剰に進めた結果、「合理性をなによりも重視し、個人の感情すらも排除し切った社会」をさしている。先述した「魔法少女まどか☆マギカ」では、このディストピアの側面がかなり押し出された

終末系とは、大規模な戦争・自然災害・病気などの巨大な災害、あるいは超越的な事象によって、文明や人類が死に絶える様を描いたものだ。終末した世界の後の世界、人類文明が死に絶えた後の世界を描いたものがポストアポカリプス系作品といえる。

こうして見てみると分かるが、これら3系統は地続きに繋がっている。登場人物の世界が一様にして危険な状況にあるということだ。

この連載で、最初から何度も申し上げているが、2010年代アニメ作品では、これらの系統が大きな影響力を及ぼしている。魔女によって世界が壊される寸前までを描いていた「魔法少女まどか☆マギカ」や、2013年の「進撃の巨人」が最たる例として、社会の善悪が人工知能によって判断される作品世界を描いた「PSYCHO-PASS」、太陽系がガウナと呼ばれる謎の生命体によって破壊されてから1000年後の世界を描いた「シドニアの騎士」が挙げられよう。同作品と同じ時期に放映された「蒼き鋼のアルペジオ -アルス・ノヴァ-」では“霧の艦隊”と呼ばれる謎の人型軍艦群に人類は敗北を喫した後の世界観だ。

一旦、かしこまった基準から外れた作品をあげていこう。2010年にアニメ化された「学園黙示録 HIGHSCHOOL OF THE DEAD」は、ゲーム「バイオハザード」よろしく、おだやかな日常生活を送っていた学生たちが、突如襲ってきた生ける屍との戦いへと巻き込まれるサバイバル作品で、ポストアポカリプス系作品だと言えよう。「NO.6」「新世界より」「フラクタル」もこうした作品群だろう、アニメ映画作品なら「楽園追放 -Expelled from Paradise-」「ハーモニー」があげられる。

ライトノベル系のファンタジーものの作品に目を見てみると、「ノーゲーム・ノーライフ」や「オーバーロード」などがラノベ作品ファンを中心に大きな人気を博したわけだが、人間文明が衰退し、少なくとも現代の人間生活とはかけ離れた水準の文明として、ライトノベル作品では描かれている事が多い。そして重要なのは、人間の存在は非常に矮小なものとして描かれ、「劣等種族」として強く描かれていることにある。そういった意味で、「人類は衰退しました」の表現はいまでも斬新さが残っている。

人類同士が宇宙と地球を行き来しながらも戦いを続ける「機動戦士ガンダムシリーズ」はこの2010年代でも根強い人気を持っており、シナリオの中途で世界大戦勃発がほのめかされる「STEINS;GATE」、死後の世界を描いたファンタジー作品「Angel Beats!」など、こういった作品ですら、「人の死や文明の終わりがまさに隣り合わせのもの」として描かれていたことを忘れてはいけないだろう。

__________________________________

『人の死や文明の終わりが、まさに隣り合わせのものである』という表現がなされている作品、2017年のテレビアニメにおいて、その先鋭となる「新日常系」「ディストピア系」「終末系」「ポストアポカリプス系」と目される。ピックアップしてみよう。

「けものフレンズ」「少女終末旅行」「宝石の国」「クジラの子らは砂上に歌う」「終末なにしてますか? 忙しいですか? 救ってもらっていいですか?」そして2期となる「結城友奈は勇者である -鷲尾須美の章-/-勇者の章-」。アニメ映画やOVAでいうなれば、「虐殺器官」があがる。人間文明から隔絶されたファンタジー世界内の磁場が強い作品といえば、「メイドインアビス」「龍の歯医者」をあげるべきだろう。

これら作品では、幸せな空間や理想そのものを描いてはおらず、キャラクターは目指す先で手に入れるもの、手に入れるはずであろうと予期されているものとして描かれている。その実、作品内で描かれることなく終わってしまった作品もある。何よりも、どの作品も視聴者に「日常のぬくもり」「平穏な日常に戻りたい」「人が住む世界に生きられる喜び」などを痛感させてくれる作品なのは言うまでもない。そのために彼らは戦い、あるいはさまよい続けるわけだ。

これら作品に共通するといえば、大いなる敵≒世界の謎に対して、少ない仲間たちと集団で挑むということだ。「結城友奈は勇者である -鷲尾須美の章-/-勇者の章-」「宝石の国」「クジラの子らは砂上に歌う」「終末なにしてますか? 忙しいですか? 救ってもらっていいですか?」は言うまでもなく、自分たちが住む世界とはまったく違う存在≒大いなる敵との戦いである。

それゆえにバトルアニメとしてカウントしてしまいそうだが、どの作品とも、外敵との戦いは受け入れざるを得ないものとして描かれており、大切な存在と共に過ごしていたいという願いが先立って表現されているのを忘れてはいけない。「彼らさえいなければ、幸せな時間を過ごせるのに」という切実さの向こうで、彼らはバトルに身を投じるのだ。

__________________________________

ちがった1作品をピックアップしてみよう。「少女終末旅行」は明確なバトル作品ではないわけだが、終末をむかえた世界をメインキャラたった2人で順繰りとさまようというストーリーは、人間という存在の小ささと、どうしようもなく広すぎる空虚世界という対比があり、文明や人間社会をほぼ失ったあとの世界で哲学的思案なども盛り込まれている。

最終話において、「この世界は滅亡する」と異生物から告げられてもなお、「でもわたし(ユーリ/チト)には、チト(ユーリ)がいれてくれれば、それで良い」と話しかけ、アニメ版のストーリーは終わりをむかえる。彼女ら2人同士の関係性が世界の終焉とともに終わってしまうことを予期されていつつも、彼女らはその終わりを受け止めようとしているし、そのふるまいは「別に気にしない」というふうにも見える。

彼女らは、世界の終焉を受け入れる勇気を心に持ちながらも、ケッテンクラートに2人で乗り込み、世界を順繰りに廻り、その時を待つことになる。家を作り、足を止め、生活をすることをしない彼女ら2人の生活、その心内に不安や孤独という見えざる大いなる敵と、常に戦っているわけだ。まともに受け取るなら、彼女ら2人の心理的なストレスは相当なものだ。

状況が好転することはないし、変えることはできないだろうとおもう(原作漫画最終話まで読んだが、口にはしないでおきたい)。ハッピーエンドは約束されていない、というかこの場合におけるハッピーエンドとはいったいどんな状況をさすのだろう?。

だが、敵(≒空虚)と対峙し続ける緊張感を失われたわけでもなく、その空虚とうまく付き合っていこうというほんの少しのポジティビティが描かれている。それは初回から最終話にかけて起こった、たったひとつだけの大きな変化でもある。

今作での表現は極端ではあるが、『人の死や文明の終わりが、まさに隣り合わせのものである』という冷々たる感覚を、今作は無言のうちに表現している。ときにはストレートに、ときにはメタファーとして、時にはそんなことを喧伝することなく、「これが作品の世界観なんです」という風に提示されていく。

__________________________________

この2010年代にこういった作品に人気が集まる所以は、現実に対するこのような冷々たる感覚が、ある意味ではベーシックに、ある意味では当たり前のものとして需要されたことを指しているのではないか。

そしてこの「現実に対する冷々たる感覚」は、過去の名作と比較する時によりハッキリと形作られる。ガンダムやドラゴンボール、セーラームーンにうる星やつら、マクロスシリーズにエヴァンゲリオンなどとを比較した時、「終末した世界のなかで生きる」「終末していくことに抗う」ことを重点的に視野に捉えた作品があっただろうか。そして、1つの作品だけの熱量にとどまらず、これほどまでに多く作品群として、ベクトルとして見えてきたことがあっただろうか

この指向性の裏に、現代日本における生き辛さ・行き場の無さ・期待値の低さが潜んでいるといっても過言ではない。学校の校舎でゆっくりと紅茶を飲む女子高生に目を奪われている外側で、徐々に徐々にと蝕んできた世界(≒現実)の生きづらさが、制作者/視聴者という単なる立ち位置とは無関係に、「新日常系」「ディストピア系」「終末系」「ポストアポカリプス系」といった作品への愛情へ転化していく。それは、セカイ系と目されていたような作品群にも似た作品構造だろう。

つまり僕らMAG文化を愛する人は、日常系の勃発から10年以上経過し、その渦の中で生きてきたことでわかってきたのは、世界を信じていないし、むしろ世界は滅んでいるものとして期待すらしていない、ということである。

一度大きくアニメ作品やMAG文化でヒットした作品を見てみればわかる。勇者でもないくせに異世界に転生したがるし、ものすごい力を得て敵を駆逐してはかわいい女の子に愛されたいとし、そしてアイドルに自己投影しては「夢をつかむ」という彼らの行動とシンクロして内面的自身の身体性(≒勇気)を得ようと躍起になり、あまつさえリアル世界のライブシーンや現実の場所に足を運び、作品世界・作品キャラクターと同一化(≒愛)しようとする

その姿は、ひとえに言って、逃避的な需要なのだ。

そういった作品が制作される欲望と、その裏にあるリアリズムがガンガンに駆動している。これが2017年まで生きてきた2010年代の日本アニメ、そして2018年におけるアニメ作品の現在、MAG文化における最新の情景なのだ。

もちろんその情景は、政治的・経済的に世界情勢から遅れをとりつつある日本の内情をそのままに描いているかのようだ。「社会という荒野の中で共同体を生きる」そんな撤退戦を強いられている社会情勢が、手を変え品を変え、近年のアニメ作品は丹念に描かれているように感じるのだ。

こんにちは!!最後まで読んでもらってありがとうございます! 面白いな!!と思っていただけたらうれしいです。 気が向いたら、少額でもチャリンとサポートや投げ銭していただければうれしいです!