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往復note(15):アートや芸術は一般の人にとって何なのか?

Tさん、こんにちは。

返信ありがとうございます。

現代アート界隈を、車界隈のシャコタン・鬼キャン好きと比較するところ面白く感じました。

美術界隈の流行のスタイルや時事ネタなど、現代アートらしいしぐさを押さえておかなければアートとしての形態が崩壊する作品はたびたびみかけます。私は一般の人々にとってそのような現代アートしぐさがある意味「車界隈でいうところのシャコタン・鬼キャンをかっこいいと思う層が共有している価値観・文脈」に相当するのではないかと推測しています。

質問頂いた、下記の件について、色々考えてみました。

Kさんは一般の人々がどの程度まで現代アートもしくは芸術を理解することが望まれると思われていますか?

一般の人が芸術を理解するとはどういうこと?

まず、現代アートはちょっと置いておいて、芸術一般を理解するってどういうことでしょうか?例えば科学であれば、その知識を得るには、本を読んだりして勉強することで理解度をあげていくことができますが、芸術を理解する、わかるということは知識だけでなく、経験(体験)が特に大事ですよね。そのためには普段から芸術に接する環境が必要です。それは今の日本の場合、都会が圧倒的に有利な状況です、ポスターやネットの情報で触れてもそれがすぐに観に行ける環境でないと経験できません。もちろん、そういう環境があっても、芸術に触れる余裕(時間的な)がないとやはりダメかなと思います。

そういう意味で、効率性を求める時代と、経済的、時間的ゆとりのない人が増えている今は、芸術にとってなかなか厳しい時代のような気がします。逆説的に言えば、ゆっくりとした時間とゆとりを取り戻せることが、芸術に触れることによって一般の人が得られるものなのだとも言えます。

芸術を理解するという話に戻すと、一般の人にとって、どれだけ芸術に時間を割けるかということが理解の程度に大きく影響すると思うし、その理解度は別に違っていていいと思います。というか理解度が人によって違うことそれ自体も芸術を鑑賞することの楽しみだったりします。理解度よりも大事なことは、継続的に芸術に触れたいと思う気持ちを持つかどうかということです。芸術を理解するとは、何か到達点に至ることではなく、そのプロセスを色々楽しむことであり、それこそが一番実りの多いものだからです。

現代アートは、一般の人に受け入れられるものなのか?

話を芸術一般から、現代アートに移します。先日愛知県美術館で「ミニマル/コンセプチュアル ドロテ&コンラート・フィッシャーと1960-70年代美術」を観ました。ミニマルについては、「わび・さび」の文化がある日本人にも分かり易いかなと思ったのですが、コンセプチュアルについては、アート好きな人以外には正直よくわからないんじゃないかなと思いました。

現代アートは、欧米主導でコンセプト重視なので、そのコンセプトを読めばなんとなくわかりますが、ちゃんと理解するには文脈だけでなく、欧米の言語によって伝えることが大事という文化そのものを十分理解する必要があります。なので一般の人にとってあまり理解できるものではないように思いますし、理解しなければいけないものでもないように思います。「ああ、こんな事やってる人たちもいるんだな」で良いのではないでしょうか。一般の人には関係のないゲームをやっていると言ってもいいかもしれません。車界隈のシャコタン・鬼キャン好きを見る目線と同じかもしれませんね(笑)もちろん、シャコタン・鬼キャンに興味が向いたら勉強して理解しようとしてもいいし、他の文化圏の国の人たちがどんな風に考えるかを知ることは悪いことではありません。ただ、欧米の芸術が特別優れていてそれだけが目指すべきものというものではないということです。

そもそも芸術は、言語が生まれる前からあったものであり、宗教絵画とかの場合は、言葉がわからない人に伝えるためにあったもので、言語の世界とは関係なく一般の人にわかるものであったはずですが、どんどん一部の人たちのものになってしまったところがあるように思います。それは芸術を楽しめる余裕そのものが一部の人に限られていたということかもしれません。その結果が今の現代アートの多くのものに言えるような気はします。

すべての現代アートがそうであると言っているのではなく、たぶん、響く対象が極めて限られているんだろうなということです。現代アートが対象とすることの範囲が増えすぎていて、一般の人の関心と重なる部分が少なくなっているのではないでしょうか。そういう意味で、先日観た「はならぁと」が、今、人々の関心となってきた環境問題を入口にしているのは、アートや芸術に関心を持つきっかけづくりとしては悪くないとは思います。

日本人にとって芸術とはどういう意味があるのか?

話を日本人という観点でもう少し考えると、明治期に洋画が取り入れられ、それと区別する形で日本画が生まれ、現代アートもその流れで欧米を追いかける形で取り入れられたわけで、美大生や美術を学んだ人はともかく、一般の人にとっては、気軽に楽しむというより、お勉強するもの、だから美術館で観るものみたいになっているような面もあると思います。

もともと日本の芸術は、工芸品など手業による巧みさを見せたりするものが多く、それは日本がものづくりで工業化に成功した要因でもあると思いますが、コンセプトという概念より、もの重視であるため、現代アートでも、ものとしての完成度が低く、コンセプト重視のものは受け入れられにくいようにも感じます。

一方で能楽のように、存在しないものを想像で補って楽しむという文化もあり、これなんかはVRやARと親和性が高いと思うので、日本の芸術が現代アートへの接続性がないわけではないという面もあります。例えばそういう方向で、日本人が本来持っていた感性のようなものを現代に合わせてアップデートするものであれば日本人ももっと現代アートを受け入れられるのではと考えます。

変化の激しい時代で効率性が求められるなかで、ゆっくりと考えたり、何か普段は感じたりしないことを感じたりさせてくれるものが本当は必要なはずで、それが本来、アートや芸術の役割の1つであると思います。そしてアートや芸術がそれにどれだけ応えているかが、どれだけ受け入れられるが、芸術、アートが理解されているということのバロメーターのような気もします。それはまた社会にゆとりがあること、つまり社会がある程度健全であることのバロメーターでもあるでしょう。

取り留めなく書いてきましたが、何となく答えになっているでしょうか。

人間にとって幸福とは何なのか?

さて、先日ネットの記事で、人はSNSを辞めるとほぼ確実に幸福度があがることが証明されたというのを読みました。確実に幸福になれるのに、なぜ人はSNSをやめないのでしょうか?

人は幸福になりたくないのでしょうか?そもそもずっと幸福であるとはどういう状態なんでしょうか?そんなことがあるのでしょうか?外から見るとボーっとしているだけにしか見えなくても幸福だったりするかもしれません。

そんなことを先日、國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』を読んだ時にぼんやり考えていました。

Tさんはどう思いますか?人にとって、幸福であるとは何なのかについて思うことを聞かせてください。


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