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墓地から考える、死ぬことについての意味

先日、墓地設計者の関野らんさんのトークを聴きました。関野さんは「風の丘樹木葬墓地」などを設計された方です。その墓地の映像が紹介されていましたが、従来のいわゆる墓地っぽくなくてなんかとてもいいなと思いました。

以前聴いたPodcastで、ある東京に住んでいる方が、田舎の親が永年供養でお墓買ったからという知らせを受けて、自分はともかく東京生まれの子供たちに引き継げないよ、本当に勝手に決められて困るという話をされていたのも思い出し、墓というのは、そこに入る人のものではなくて、残された人のものなんだなと改めて思いました。

人生120年とか言われるようになって、人は長く生きることにやたら拘るようになっているけれど、なぜ生きることにそこまで執着するんだろうとおうことを色々考えてきました。トークの中でも話に出ていましたが、かつての日本の村では、村の中心に墓地があり、人々はその墓地を囲むように暮らしていました。そしてお盆には死者を迎え、盆踊りをして、また死者を送りました。そういう意味では死が身近であり、だからこそ死は恐れられていなかったらしいです。つまり共に生きていた人々に自分の存在が記憶されているから死んでも怖くないと思う事ができるんではないでしょうか。自分の存在は自分1人のものでなく、記憶として残ることを共にしてきたものたちと共にあるものではないだろうかと考えました。

現代の墓地は、居住区のすぐそばにはなく、お盆など特別な機会にわざわざいく場所になっています。日常から遠ざけられた死者たちの場所という感じです。それは普段は存在を忘れられてしまうことではないでしょうか。そんな風に忘れられたくないという事が生への執着になっているような気がしたりもします。それがかえって人を利己的にしていて、生きていても他者から忘れられる存在にしてしまっているのかもしれません。

そういう意味で、残された人にとっての墓地というのは、死んだ人との関係性によってどこにどのような形であるべきかが決まるような気もします。それによって必然的にどんな墓が良いのかも決めていいように思うのです。

大切なのは、ただ長生きするのではなく、残された人との関係性を如何に大事に生きていくかに尽きるんじゃないかという事です。そう生きていくことで死が怖くなくなるように生きられることと思います。


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