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往復note(7):日本人はなぜ白黒つけたがるのか?

Tさん、こんにちは。

回答ありがとうございます。

絵はゲームの作法でもって見ることもできますが、それと同時に意識しなくても動き続ける身体側に属するイメージを含有しており、その能力によって引き起こされる鑑賞者の反応自体が絵の本質であり人々がわかろうとする対象なのだと私は考えます。それは「わかる/わからない」というよりも「受容できる/できない」の問題なのです。

そうですね、確かに鑑賞者側の受容できる力によって、絵がわかるかどうかが変わりますね。ある意味、絵によって鑑賞者の受容力が試されているとも言えますね。

日本人、日本社会について

日本人は何かと黒か白かをはっきり分けたがる傾向があります。有耶か無耶か考えるのは不毛なことも世の中には当然あるとおもうのですが、そういったことで最近なにか問題意識を抱いたことはありますか?

この質問について、最初に思ったのは、日本人ってそんなに白黒はっきりさせたがってたかなということでした。日本人論については、これまでに色々な方が書いていますが、割と最近のもので言うと橘玲著『(日本人)』では、”日本人とはきわめて世俗的で、反権威主義的で、そして個人主義的な、つまり「利に聡く自分勝手な」国民”ということになっています。そのままでは自分勝手な国民である日本人が、社会を廻していくために空気という縛りが必要だったということになります。特に地域社会の空気という縛りがだんだんなくなってきている中で、色々なルールが(それはこれまでのルールであったり、欧米からもたらされた概念であったりですが)その代わりになっているように思います。それでそのルールに従っているかいないかが異常に大事に思われるようになっていて、「なぜお前はルールに従わないんだ」みたいな話になることが多いのかなと思います。

ここで問題なのは、そのルールが何であれ、従っている人も従いたくない人も自分たちで、どういう理由でこのようなルールが必要になったのかということをよくわかっていないことがよくあるということです。特に欧米から取り入れた概念の場合、その背景とかが良く理解されないまま、言葉だけが普及しているために、お互い違う意味に取っていたりして誤解していることもあり余計にややこしくなっています。特に日本人は言葉に感情が引きずられるところがあり、ルールが絶対視化されることがよくあります。欧米人にとっては、言葉というのは他者とのやり取りをするツールであり、ルールもそのツールによる構築物であるので問題があれば、議論の上、変更していくということができるのですが、日本人は長らく自分たちを全く理解しない他者と共存することがなかったので、言葉と感情がかなり結びついていて、議論が感情的になりすぎるため、話し合ってルールを変えようということにあまりならないんだと思います。

言い換えれば、日本人は構築的(コンストラクティブ)ではなく、受容的(アダプティブ)であるということです。そして何かルールを作ったらそれを受容するか否かみたいになりがちです。例を出すと、先日ワークライフバランスを取り入れた会社の新人が次々と辞めていったという記事がありました。その会社ではワークライフバランスを守るため、退社時間が決まっており、それは新人にも厳格に適用されるようです。それだけ聞くといい会社だなという感じですが、その新人は、部署の今までのやり方に対し、色々変更提案をするのですが、上司からそんな変更していたら、今まで以上に時間がかかるから、これまで通りやるようにと言われ、色々なことがほとんど前例踏襲みたいになっていて、自分がこのままでは成長できるかどうか不安になり辞めて転職したそうです。

この記事は、ワークライフバランスという言葉の日本人の捉え方をよく表しているように思いました。ワークライフバランスは本来は時間を仕事と家庭に分けることらしいですが、それなら別に個人で週単位とか、月単位とか、年単位とか、あるいはもっと長く5年単位とかでバランスしててもいいわけで、会社のルールとして全員同じでないといけないことはないのに、それがないと自分で決められない人が大多数になるため、会社全体で決めてしまうということです。受容的であるために、自分の中にルールを作ってそれを他者とすり合わせて共通ルールとしていくというのが苦手なため、何かルールを作ってくれと望み、でもそのルールが自分には合わないと文句を言うという感じによくなりますね。

社会のルールと意識の誕生と

Tさんの質問の裏には、そういう日本社会でどうやって生きて行けばいいの?という疑問があるようにも感じました。日本社会が欧米のようになればいいのかというとそういう話ではなくて、欧米社会のようなルールを自分たちで作っていくというのも、それはそれで面倒です。

人間の意識が生まれたのは、約3000年前という説があります。(ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙』)それまでの人間には意識(内観という自分を認識すること、つまり心と言い換えてもいいかもしれません)がなく、神の声のようなものを聞いていてそれに従って行動していたそうです(現代における統合失調症と同じような感じ)。なので意識が生まれたとき、その代わりとして宗教を求め、宗教がなくなると科学にその代わりを求めたのだということです。そういう視点で見ると欧米社会も日本社会も何かに従おうという行動を人は取るのだということで大差はないとも言えます。

仏教もそういう心(内観する意識)が生まれた時に誕生しているので、心とどう付き合うかの方法ではありますね。芸術にもそういうところがあるのではないでしょうか?神の声を聞いている人もいるかもしれませんが。そこに仏教(宗教)と芸術と科学の接点があるように思います。社会については、構築的でありながら、同時に何かに従っているような、それらのバランスが必要なのかもしれませんね。それについてはこれからも考えていかないといけないと思っています。

絵画と音楽の関係性について

ちょっと話題を変えて、Tさんへ質問ですが、芸術大学というと大きく音楽科と美術科があるというイメージがあるんですが、絵画と音楽の関係性とか違いについてどう思いますか?個人的には、音楽の方が人の感情にダイレクトに素早く訴えかけるように思うのですが、一方で絵画はじわじわと訴える感じがしています。Tさんの意見を聞かせて下さい。

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