「はじめての沖縄」と満州の話

岸政彦著「はじめての沖縄」読了。沖縄について語ることの 難しさというか、人がその土地について語りだすまでに要する時間というものについて色々考えさせられた。人が心のうちに秘めた話を語りだすには、その人とどれくらい付き合えばいいのか、そしてそれはどこまで本音なのか。そんなことを思ったのも最近年老いた母から満州の話を聞かされたからだ。

母は、終戦の前年に祖父(母の父)に連れられて満州に渡っている。祖父曰く、空襲のある本土より、満州の方が安全だというのが理由である。しかし満州に渡ってしばらくして戦況が悪化し、日本軍が手薄になると朝鮮族の襲撃をしばしば受け、彼らは金銭とか、金目のものを奪いに来ることがよくあったらしい。日本人も家の中の柱や壁に穴を掘って隠したりしていたらしいが、朝鮮族は目ざとく見つけてそこから掘って奪っていったとのことだ。母は淡々と語ってくれたが、当時の母の恐怖は如何ばかりであったろうか。

朝鮮族の強奪が収まるのは、毛沢東軍が来てからで、その後は治安はよくなったそうだ。しかし小学校は共産党式になり、授業そのものは日本語で引き続き行われたらしい。只、毛沢東の歌だけは中国語で歌わされたと、その歌を母が歌い出したのには驚いた。もう何十年も前で歌詞の意味も全く解らないが歌は覚えているのだ。その後、蒋介石軍が来て、日本人は帰国船に乗せられることになり、母も帰国できたのだが、あのまま毛沢東が支配していたら、帰れなかったかもしれないとつぶやいたのが印象的だった。

それまで母から聞いた満州の話といえば、冬には氷点下30度になり、小便もすぐに凍ったといったたわいもない話だけであったのに、急に上記のような話をしたのは何故だろうと思った。母が年老いて昔のことを思い出したからなのか、私がもう十分に人生の経験を積んだから話をしても大丈夫と思ったからなのか、それはよくわからないが、こんな身近にいる存在でさえ、すべてを話したりしないものなのだということをなんだかしみじみと感じたのである。

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