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『あのこは貴族』に見る生き辛さと希望

映画『あのこは貴族』を観てきた。松濤に住み、裕福な生活をしてきた榛原華子(門脇麦)と、地方から慶応大学に進学するも、親からの仕送りがなくなり中退することになった時岡美紀(水原希子)が、それぞれに自分なりの進路を見つけて歩みだすというラストは、清々しく、全体的にも良く作られた良い映画だった。只、2人がその過程で色々遭遇することなど、モヤモヤすることもあったので、その辺りをちょっと考えてみたい。

観ていて思ったのは、人はどうしても生まれ育った環境という枠にとらわれてしまうという事だ。そしてその枠から外に出るには、自分とは違う枠の中で生きている存在が必要なんだという事だ。華子にとっては、相楽逸子(石橋静河)という存在がその枠から出るきっかけを作ってくれ、美紀にとっては、平田里英(山下リオ)という同郷で、慶応に進んだ存在が新たな道を歩む誘いをしてくれる。

ここで枠の外に出るということを言ったけど、枠から出ること自体は必ずしも良い事ではなかったりする。現に華子の慶応大学時代の友人たちは、逸子が結婚しないことを暗に非難というか、自分たちと同じような行動をしないのか不思議に感じている。彼らにとっては、その枠の中にいるのが居心地がよさそうだ。

この逸子という存在が、華子と美紀の間を取り持つこととなる。華子の婚約者となった青木幸一郎(高良健吾)と美紀が付き合っていることをたまたま知った逸子が2人を会わせたことからだ。そこからの逸子の行動はちょっと予期できなかった。美紀と華子をそれぞれ呼び出して会わせるのだが、そこで美紀を非難するのではなく、華子と美紀に話をさせ、そこから2人がどう考えるのかを決めさせるのだ。

そういう逸子という存在が、この映画の中で大きな希望になっているなと思った。逸子自身も不安定なヴァイオリニストという職業であるけれど、友人の華子を思って、美紀と会わせながら、美紀を非難することなく、判断を華子にさせようとする。そういう逸子の生き方に何かを感じたから華子も逸子をサポートする仕事を始め、華子も幸一郎との関係を断つことを決断したんだろうと思う。結果としてそれが美紀の新しい一歩にも繋がっていく。

人は枠の中でしか生きられないけれど、また1つの枠から別の枠に移ることが必ず幸せかどうかはわからないけれど、別の枠があるんだという存在が廻りにいることは、自分の枠から踏み出す勇気をくれるし、踏み出さなくても可能性があるという事を知ることで、枠の中にいる閉塞感からは少し楽になるはずだ。そんな存在が廻りにいたら大事にしたい。

華子が上流階級という枠の中から逸子の存在によってその枠から外に出ることを選択し、何か映画の最初の頃の窮屈そうに生きている感じが消えたように見えること、一方美紀は、富山という地元の枠から逃れて東京に来たものの、新しい枠を見つけられずにまあなんとか生きてきたという感じなのが、里英という友人から一緒にやっていこうと言われてようやく新しい自分の枠を見つけることができたということ、華子と美紀がそれぞれに自分が居心地の良さそうな新しい枠を見つけたことが観た後の清々しさに繋がっているんだろう。

地方出身者で、東京の大学で過ごした者としては、美紀という存在が一番近いんだけど、今は地方出身で東京の私大に通うのは本当に大変だと思う。でも今さら、地元の枠に戻りたくない存在は自分で新しい枠を作っていくしかないんだろう。その枠が居心地良くなるように努力していくしかないけれど、この映画のラストのようにうまく見つけられたらいいけど、見つけられずに日々懸命に生きている人も多いんだろうということがなんとなくわかってしまうのが、この映画を観て感じられたから少しモヤモヤしたんだろうなと今は思う。


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