物語化の問題と文化としての文化

5月31日に蔦屋書店のラウンジで、千野帽子さんと千葉雅也さんのトークを聴いてきた。ここでは、自分の記憶に残ったこととそれについて少し考えたことを記録しておきたい。

まず1つ目は、物語化の問題は、自分を被害者化してしまうということ。千野さんは著書でも触れていますが、祖母との経験を新たな物語化することで乗り越えたと語るが、千葉さんは、それはまだ途中の段階で、物語を作りながらもそれを絶対化しないことが大事と語る。その中で仏教者が物語化を逃れているという話が出たのも印象に残った。

人類が言葉を持った際に、過去や未来のことを話せるようになったが、同時に不安を覚えるようになったのだが、仏教の瞑想ではいま・ここに集中することで物語化が発生することを回避しているように思う。只、仏教の修行者が俗世に戻った場合、やはり悩みは出るもので、言葉を持ってしまった以上、物語化から抜け出すことは難しい。トークでももちろんどうすればよいなどという安易は結論は出ていないが、身体性が大事なのではないかとは思っている。

2つ目は、文化を文化として実用性から切り離して楽しむことがなくなったこと。こちらの方も息苦しさでは同じではないかと思う。資本主義がグローバル化することで、すべてのものが貨幣という同一の尺度で測られることがこれをもたらしている。資本主義を駆動するのは、差異であるが、同時にその差異を同じ尺度(貨幣)で統一することで拡張してきたのであるが、その流れの中で文化も1つの差異として消化されることになったことが、この息苦しさの原因かと思う。もう一度、文化という差異を差異として同じ価値尺度で測れない消費(というか蕩尽?)の仕方を考えないといけないと思う。

2つの論点とも容易ではないが、今後ずっと大事にしたい論点であると思う。


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