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国語の先生ガチでありがとう

先日、小説をコンペに応募したら賞をいただいた。とてもうれしい。

ここに作品リンクを勝手に貼って良いのか分からないから、危ないことはしないでおきますけど。
私のプロフィールとかをよく見ていただけると作品にはたどり着けると思います。このnoteもどれくらい読まれているか分らないけど、賞を企画してくださった団体様の閲覧数の増加に少しでも寄与できたら良いですけどといった感じです。

それでこの記事が何なのかと言いますと。
受賞を受けてのコメントを求められたので、作品を読み返すことにしたんですけど(作品を執筆したのは2月の中旬くらいだったので、自分でも何を書いたか忘れていた)、それについて考えたことがあったという話です。

コメントを考えるに際して、この小説がなぜ評価されたのかを考えながら読んでみたのです。そこで、「こいつ(自分自身だけど数ヶ月経つともう別人)、この点をかなり意識してるなぁ~」って思ったポイントを発見したという記事になります。

端的に言えば、それは具体と抽象を意識することでした。

件の小説を読んでいただければ分かると思いますが、ひたすら具体と抽象を行ったり来たりしながら物語を進行させていますね。小説では玉ねぎがキーアイテムとなっているのですが、主人公の心の内面と、玉ねぎが持つ種々の特性を、これでもかと対比させて文章が作られています。

主人公の精神状態が良いと、玉ねぎの良い面ばかりを持ち上げて自分を類似させる。
悪いと、玉ねぎの悪い面と自分を類似させる。

玉ねぎが具体的なもので、主人公の精神が抽象的なものですね。
この二つを、それはもう徹底的に対比させまくる。何度も何度も(作中だと3回)対比させる。
本作は超短編だけど、長ければ長かったで、さらに執拗な対比が行われていたのではないでしょうか。

そして最後には、これは言葉にするのが難しいのだけど、放り出す。

具体と抽象に固執するという書き方を放り出すのではなく、今までは「具体→抽象→具体→抽象→……」と連続させていたものを、「……→抽象」でビタっと止める。

まぁ小説を終わらせる都合、これはしょうがないのかもしれないけど、読んでみたらどうも「小説が終わるから」という理由だけでは違う感覚があって。

たぶん、「これだけ道中で具体と抽象を繰り返してきたのだから、最後くらいリンクさせなくても分かるよね」みたいな感じで書かれている……と思う(逆に言えば、最後くらいリンクさせなくても察してほしいと思ってるからこそ、道中の具体と抽象の関連をこれでもかというくらいしつこく行っていたのかもしれない)。

———んで、何の話に帰着するかというと、

国語の先生ガチでありがとうという話で。

高校入試でも大学入試でも、国語の授業では入試問題の解き方を教わりました。その中で評論文でも小説でも、とにかく繰り返して教えられたことが、「具体と抽象」なんですね。

具体と抽象は特に小説に多かったです。具体的な情景と、登場人物の内面がリンクしているわけですね。これを読み解けという話。

評論はどちらかと言えば対比が多かった気がします。日本と西洋とか、科学と自然とか。若者と老人とか。
「水の東西」とか、懐かしいですね。

ともかくとして

そういういわゆる「日本語の読み方」みたいなのが、あのとき鍛えられていたのかもなぁとか、思いました。

先日、ペンネームが真面目に考えられているのかとかって話が炎上していましたね。
私のペンネームに含まれている漢字の一部は、高校の頃の国語の先生の名前から拝借させていただいています。

国語の先生ガチでありがとう。

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