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女性のエンパワーメント ライオット・ガール運動

ライオット・ガールの語源
ライオット・ガールの名称は、ブラットモビールに短期間所属したジェン・スミスが作成したフェミニズム・マガジン『ガールズ・ライオット』に由来しています。ジェン・スミスは1991年、ブラットモビールのメンバーとしてツアー中にこのマガジンを発行しました。『ガールズ・ライオット』は、女性たちの権利や自己表現を訴える内容が中心で、特に女性が自らの声を持つことの重要性を強調していました。

「grrrl」という言葉の選択は従来の「girl」という表現に対する反抗心を示しています。この語尾の「grrrl」は、うなり声を連想させることで、女性たちの怒りや強い意志を象徴しています。これにより、ライオット・ガールという名称は、従来のパンク文化に対する挑戦と、フェミニズム運動における新しい波を表現するものとなりました。

ライオット・ガール運動は1990年代初頭にアメリカのオリンピアとワシントンD.C.で始まりました。この運動はパンク・ロックとフェミニズムを融合させたもので、女性が自分たちの声を上げる場として誕生しました。ライオット・ガールの名称は、ジェン・スミスが作成したフェミニズム・ZINE『ガールズ・ライオット』に由来しています​。


1970年代後半から1980年代半ばにかけての影響

1970年代後半から1980年代半ばにかけて、スージー・スーやポリー・スタイリンなど、後にライオット・ガールの精神に影響を与えた画期的なパンク・ロックやメインストリームロックの女性ミュージシャンが多数存在しました。これらのアーティストはライオット・ガール運動にとって重要な先駆者となり、その音楽と態度が後のフェミニスト運動に大きな影響を与えました​ 。

1980年代にはニューヨーク出身の多くの女性フォークシンガーが登場し、その歌詞は現実的・社会政治的であると同時に近しい印象も与えました。彼女たちの音楽は、ライオット・ガール運動の根底にあるフェミニズムのメッセージを強化する役割を果たしました​ 。

1980年代半ばには、ジーン・スミスが率いるカナダのバンクーバーの音楽ユニット、メッカ・ノーマルが結成されて影響力を示し、サンフランシスコの女性ハードコアバンド、シュガーベイビードールがこれに続きました。その後、1988年に創刊され10代女子向けとしては難解な題材を扱っていた雑誌「Sassy」において1989年に「Women, sex and rock and roll」という記事が掲載され、流行の先鞭をつけました​ 。


1990年代初頭のオリンピアとシアトル

1990年代初頭のワシントン州オリンピアとシアトルでは、インディーズのアンダーグラウンドミュージックに携わる女性がパンク・ロックのファンジンを制作したりパンクバンドを結成したりすることでフェミニストの考えや欲求を明確に表現する基盤がありました。1991年には、アメリカキリスト教連合による法的中絶反対運動や弁護士のアニタ・ヒルが最高裁判事のクラレンス・トーマスをセクシャル・ハラスメントで告発した問題といった女性にまつわる出来事が社会的な話題となり、若いフェミニストたちは、音楽イベントのInternational Pop Underground Conventionなどを通じて抗議の声を上げました​ ​。


ビキニ・キルとブラットモービルの結成

1990年より、ライオット・ガール運動の旗手とされるバンド、ビキニ・キルがオリンピアで活動を開始しました。キャスリーン・ハンナ、トビ・ヴェイル、カティ・ウィルコックス、ビリー・カレンによって結成されたビキニ・キルは、「Revolution Girl Style Now!」と呼びかけ、1991年に同名のデモアルバムをリリースしました​。キャスリーン・ハンナは美大生のころからバンド活動やギャラリーでのライブ会場の運営、フェミニスト活動に取り組んでおり、彼女の影響力はライオット・ガール運動の形成に大きく寄与しました。ビキニ・キルは、力強い歌詞とエネルギッシュなパフォーマンスで知られ、女性のエンパワーメントを訴える楽曲を多数発表しました。


キャスリーン・ハンナは「Slut(娼婦)」と自らペイントすることで偏見に対して対抗意識を見せている


「Revolution Girl Style Now!」

ビキニ・キルの活動は、既成のパンクロックシーンに対する挑戦であり、彼女たちはコンサートで「Girls to the front!」と叫び、女性たちを前列に呼び寄せました。これは、男性が前列を占拠するのを防ぎ、女性たちが安全に楽しむための空間を作るためのものでした​ 。




また、1991年には、ビキニ・キルとともに運動の牽引役となるバンド、ブラットモービルが同じワシントン州で結成されました。ブラットモービルは、アリソン・ウルフとモリー・ニューマンが率いるバンドで、女性の視点からジェンダーに関するテーマを多く取り扱う楽曲を発表しました。彼女たちは、1991年のバレンタインデーコンサートでビキニ・キルと共演し、その後すぐに有名になりました​。彼女たちの楽曲は短くて攻撃的なスタイルが特徴で、特にジェンダーに関するテーマを扱った歌詞が多く含まれています。彼女たちの音楽は、フェミニストのメッセージを広めるための強力な手段となりました。ブラットモービルのメンバーであるジェン・スミスは、ワシントンD.C.での暴動が発生していた1991年春に、同じくメンバーのアリソン・ウルフへの手紙の中で「girl riot」というフレーズを用いました。このフレーズは後にライオット・ガール運動の象徴となりました​ 。






ZINEの役割と重要性

ライオット・ガール運動では、ZINEが非常に重要な役割を果たしました。ZINEは、ライターやアーティストが自分の考えや感情を自由に表現できる手段でした。大手メディアでは取り上げられないテーマや視点を発信する場として、ZINEは多くの人に届けることができました​。ZINEはまた、同じ考えを持つ人々がつながる場でもありました。情報を共有し、お互いをサポートすることで、ライオット・ガール運動のコミュニティが広がっていきました。さらに、ZINEを読むことで、多くの人がフェミニズムや社会正義についての知識を深めることができました。性的暴力やジェンダー平等、身体イメージなど、様々な社会問題についての情報や個人的な体験談が豊富に掲載され、読者にとって学びの場となりました​ 。ZINEは創造的な表現の場としても重要でした。文章だけでなく、イラストやコラージュなどの視覚的な要素を取り入れることで、豊かな創造性が発揮されました。音楽レビューやバンドの紹介、詩や短編小説などが含まれ、読者にとっても刺激的な内容が盛りだくさんでした​ ​。

ライオット・ガール運動における代表的なZINEには、『Bikini Kill』、『Girl Germs』、『Jigsaw』、『Riot Grrrl』などがあります。これらのZINEは、運動の思想や活動を広めるための主要なツールとなりました。特に『Riot Grrrl』は、ブラムトモビールのメンバーであるモリー・ニューマンとアリソン・ウルフによって発行され、運動の初期段階で大きな影響を与えました​ 。


また、『Evolution of a Race Riot』というZINEは、Mimi Thi Nguyenによって編集され、パンク文化における人種問題に焦点を当てた重要なドキュメントとして知られています。このZINEは、人種やジェンダーに関する問題を扱い、多様な視点を提供しました​ 。


「Riot Grrrl Convention」を告知するファンジン


ライオット・ガールとダダイストの手法

ライオット・ガール運動は、既成の価値観に対するショック療法的な啓蒙を通じて、社会批判や政治的解放を追求しました。これは、20世紀初頭のダダイストたちが性的な表現を用いた際の手法と類似しています。ダダイストたちは、ブルジョワジーの文化に対する反抗と自己否定的な啓蒙を行い、社会的に構築された美や女性らしさの概念を暴露しようとしました。

ライオット・ガールのマガジンも、この手法を取り入れていました。例えば、痩身グッズの広告コピーを改変し、「早く体重を減らして12歳の子供のような拒食症な体になる方法」や「すべての男子がハードファック死体女の子のようになります。今すぐ注文を」といった過激なメッセージを追加しました。これにより、既成の美の基準や女性の身体に対する社会的期待を揶揄し、批判しました。このような手法は、ライオット・ガール運動が掲げるフェミニズムのメッセージを強調し、読者に対して強いインパクトを与えました。彼女たちは、既成の価値観に挑戦し、社会的不平等やジェンダーに基づく差別に対抗するための新たな視点を提供しました。

ここらへんはパンクの系譜額という本に詳しく書かれているので、そちらのほうを読んでみて下さい。




ライオット・ガール運動の衰退

ライオット・ガール運動は1990年代初頭に始まりましたが、次第に衰退していきました。その主要な原因の一つは、メディアの過剰な注目と誤解によるものでした。運動はフェミニズムとパンクロックを融合させたもので、女性たちのエンパワーメントと社会変革を目指していましたが、メディアはその過激な側面に焦点を当て、運動の本質を歪める報道を行いました​ 。

具体的には、メディアは運動の表面的な部分だけを取り上げ、その真のメッセージや目的を誤解して伝えました。これにより、運動のメンバーたちは自らの意図が正しく理解されないことにフラストレーションを感じ、1993年にはメディアとの対話を断つ「メディアブロック」を実施しました。この措置により、運動はさらに内部で孤立し、外部からの新しいメンバーの参加が減少する結果となりました​ 。

また、運動内部でも意見の相違や方向性の違いが生じました。特に、人種的な多様性の欠如や、白人中心の視点が強調されることへの批判がありました。これにより、運動内部での対立が深まり、結果として多くのメンバーが離脱することになりました。



ライオット・ガール運動の影響

音楽への影響
ライオット・ガール運動は、1990年代にフェミニストパンクロックを中心に広がり、多くの現代の女性ミュージシャンに大きな影響を与えました。この運動、女性のエンパワーメントと自己表現の重要性を強化し、音楽シーンにおける女性の存在感を高めました。運動のDIY精神と反抗的なエネルギーは、後の「ポスト・ガール」フェミニスト音楽シーンにも大きな影響を与えています。

フィオナ・アップルやスパイス・ガールズなど、メインストリームのアーティストもライオット・ガール運動の精神を受け継いでいます。彼女たちは、女性のエンパワーメントと反抗的なエネルギーを音楽に込め、女性アーティストが自己表現を追求するための新たな道を切り開きました​ 。また、ライオット・ガール運動の影響はグローバルに広がり、ブラジルなどでは2015年までにライオット・ガールフェスティバルが開催されていました。このように、運動の精神は地域を超えて広まり、多くの若い女性アーティストにインスピレーションを与え続けています​。

リンダ・リンダズ

リンダ・リンダズは、ライオット・ガール運動の影響を特に強く受けた現代のバンドの一つです。彼女たちは、アジア系アメリカ人の若い女性たちによって結成され、ライオット・ガールの精神を現代に蘇らせるべく活動しています。ビキニ・キルのTシャツを着て演奏することも多いです。彼女たちの音楽はパンクロックのエネルギーとフェミニズムのメッセージを融合させたものであり、若い世代に対して強い影響を与えています。



アートとファッションへの影響
ライオット・ガール運動は音楽だけじゃなくて、アートやファッションにもすごく影響を与えました。彼女たちは「女の子らしさ」っていうものを再定義して、社会が期待するようなスタイルに反抗しました。たとえば、破れたタイツやプラッドスカート、ベビードールドレスを着ることで、伝統的な性別の役割をからかって再構築したんです。こうしたスタイルは自己表現と女性の自立を象徴するものとして、現在も多くの若いフェミニストに影響を与えています。








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