子どもが欲しくないあなたへ
「親ガチャ」という言葉が聞かれるようになって久しいですが、私は「ガチャ」という次元ではなく出生は究極のハラスメントだと感じています。
言うならば出生ハラスメントや出産ハラスメント「産みハラ」です。
ハラスメントの定義として「優位性を背景に」「適正な範囲を超えて」「一方的に」ということが挙げられます。
産まれるにあたり条件の提示と同意がなく一方的に人生を押し付けられる、「私たちは産まれさせられた」のです。
望んだ「性別」に産まれなかったあなた、「産みハラ」の被害者です。
望んだ「人種」に産まれなかったあなた、「産みハラ」の被害者です。
望んだ「容姿」に産まれなかったあなた、「産みハラ」の被害者です。
望んだ「環境」に産まれなかったあなた、「産みハラ」の被害者です。
望んだ能力を持ってに産まれなかったあなた、「産みハラ」の被害者です。
いま生きている条件がわずかでも望んだものでなければあなたは「産みハラ」の被害者です。
人の能力は生まれた段階で決まっています。
努力によって成長するのではなく、生まれもった「初期設定の最大値」まで引き上げただけです。
逆に考えると最大値まで引き上げてなくても最高学府に合格できる人もいます。
その人は怠け者であるにも関わらず高い評価を得ています。
努力による成長の結果がすべてということであれば、その成果が健常者に及ばない知能や運動に障害がある人々は評価されないということになります。
しかし彼らは可能な範囲で最大限努力し結果を出しており、例えそれが健常者に及ばないとしても高い評価をするべきであり、現に評価されています。
そもそも「健常者」「障碍者」という区分があることがおかしいと考えています。
初期設定値が違うだけの同じ人間です。同じように能力の最大値をどれだけ引き出せたかで評価すれば良いはずです。
そういった意味では環境は関係ありません。環境のせいで初期設定の最大値よりマイナスになることはあってもプラスになることはないのですから。
たとえその人にとって良い条件だったとしても戦争や疫病、事故やテロなどの外的要因のリスクは排除できません。
さらに病気や老化、そして生物にとって最大の不幸である「死」から逃れることはできません。
少なくとも死の不幸や恐怖を確実に押し付けることになります。
人が望んだ条件で望んだ時間を永遠に生き続けられる「カントウ」のようでなければ産まれると確実に不幸になります。
さらに辛い人生を送っている人が世界中にこれだけ多くいることを考えると「生きているだけで幸せ」という前提は成り立ちません。
「生きることは苦痛であり、産まれることは不幸せである」という前提であるはずです。
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