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切られ与三郎哀歌

同志Aからのお題:時計


時計を見ることで顔を切ったなんて、なかなかのレアケースかもしれない。

小学生低学年のころの話だ。街のデパートに母と弟で出かけた。店舗の正面入口付近で、当時の私は何を思ったのか、かがんで道路脇の植え込みの観察を始めた。しばらくして「そういや何時ぐらいかな」と思い、ふと顔を左後方に向けた。上半身はラジオ体操第1の「からだをねじる運動」のようなフォームである。デパートの外壁、向かって右側の上層階にあたりに設置されていた時計を見ようとしたのだ。

その瞬間は気付かなかったが、植え込みを囲っていた竹のようなもので、鼻の付け根あたりをサッと切っていた。血を流している私を見て、母は大慌てで近くの医院に飛び込んだ。かつて通っていた幼稚園で健康診断などを担当していた先生のところだ。縫うか縫わないか微妙だが、縫わないで大丈夫でしょう、との診断がなされ、応急処置の後、帰宅した。

鼻の傷痕は今もうっすら残っている。周辺には幼稚園時代に自宅のちゃぶ台の角にぶつけて切った痕(これは縫った)、中学時代に同級生とふざけていて柱に激突して切った痕もある。

春日八郎の大ヒット曲「お富さん」(作詞:山崎正、作曲:渡久地政信)は2番でこう歌う。さあ、皆さん、手拍子の準備を。
「風もしみるよ 傷の痕
 久しぶりだな お富さん
 今じゃ異名(よびな)も 切られの与三よ」

歌の基になったのは、歌舞伎の世話物「与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」だそうな。お富と与三郎の恋物語。やくざの親分の妾・お富と恋仲になった若旦那・与三郎は、逢瀬に激怒した親分に34カ所も切られたとか。3カ所のあっしのことは“切られの与三(1/10弱)”と呼んでくだせえ。

街中で時計台を見上げるとき、また鼻を切らないよう、前後左右を慎重に確認している人がいたら、それは私だ。「いよっ、待ってました!」と声をかけてくだされば、「しがねえ恋の情が仇」と名ぜりふが言えるよう精進いたす所存にごさいまする。

何だか歌舞伎の襲名披露の口上みたいになってきたぞ。毎回妄想ばかりではございますが、ご贔屓賜りますよう隅から隅までずずずい〜っと、こいねがい上げ奉りまする〜。


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