藤江氏魚楽園の「気」のおはなし
今回は「藤江氏魚楽園」の「気」についてお話したいと思います。
「気」とは
「気」とは、もともと思想や道教、中医学の用語です。「気」は眼で見る事はできません。風のように流動的に動いていて、様々な作用を引き起こすと言われています。運気、嫌気、人気、気配、生気、勇気等々、「気」という言葉はとても多く使われています。
風や雲、雨といった気象を生じさせるのを外気といいますが、天や地の気も人の気もすべてが同じものだと考えられています。
一方、人間は生きるために呼吸をしますが、その際良い「気」を体に取り込むことで体内に「気」を充満させ、また循環させることで人間の体を内側から満たし、生命を活発にし、元気を与えてくれるといわれています。
「気」は自然にとっても、人にとっても大事なんですね。!(^^)!
そしてその良い「気」が集まる場所を見つけ、流れを物の位置で制御しながら運気を高めるという風水は5000年以上前に中国で発祥しました。
それは自然と人々の暮らしを良くするために庭園や家を築く際に使われていました。
そして、「藤江氏魚楽園」にも風水が使われたという説があります。
藤江氏魚楽園は室町時代の画僧雪舟が築いたといわれています。
雪舟というと昔、社会の教科書に載っていたお防さん?くらいの知識でしょう。かくいう私も藤江家に生まれ25代目として当主になってはいるものの、知識不十分でしたが、岡山県で生まれた雪舟がどのように此処まで来て、この庭園をどのようにして築いたのか等、6年前までお客様にご説明させて頂く際は、子供の頃の祖父の記憶を辿りながらお話をさせて頂いておりました。
祖父との思い出
数十年前、私がまだ幼稚園~小学生低学年の頃、80歳の祖父は元気でいて、日課は鶏、チャボ、孔雀、雉の餌やり、そこから100鉢以上の梅の木の水やりと選定で午前中は終わります。
昼食後は自分の平机で雪舟関係の研究でした。
3時になると庭園に水をまいたり、祖父と一緒に雑草を抜きながら、私に話してくれたのは雪舟の事ばかり。
祖父は85歳で亡くなりましたが、それまではいつも縁側で庭の事、雪舟の事を教えてくれていました。それが、土台になりお客様がお見えになった際の説明に繋がっています。
雪舟
室町時代に活躍した水墨画家である雪舟は「画聖」とも呼ばれ、日本だけでなく水墨画発祥の地・中国でも高い評価を得ています。
海外では、雪舟の切手まで作られています。
その雪舟は1420年岡山県の総社市で生まれます。幼くして宝福寺に預けられるのですがそこでの逸話がとても有名です。
雪舟が修行をおろそかに絵ばかり描いていたので、ある時、和尚様からバツとして柱に縛り付けられてしまいます。幼い雪舟は思わず涙を流します。その涙で足の指を使って描いたネズミを見た和尚様はびっくりします。
いま、まさにかわいい弟子である雪舟にネズミが飛びかかろうとしているではありませんか。和尚様は思わず縄を解いてしまったというエピソードはあまりに有名です。
その後10歳で雪舟は臨済宗の大寺院である相国寺へ移ります。
雪舟も相国寺で様々な知識を学んだと考えられます。相国寺の僧侶の中でも周文は水墨画の名手として知られていました。雪舟は周文のもとで禅僧としても画家としても多くを学びます。
1454年頃、雪舟は山口に移り住みます。山口は守護大名大内氏の本拠地です。大内氏は明との勘合貿易を行っており、大陸文化に接しやすい街でした。雪舟は山口で10年近く過ごします。
1467年、雪舟は遣明船に乗り込み中国にわたりました。そこで彼は明だけではなく、それ以前の元や宋の絵画を模写し技術を修得したといわれています。1469年、帰国した雪舟は大内氏の領国である北九州や山口県、島根県西部で活動します。その後、活動範囲を京都周辺に拡大。「天橋立図」などを描きました。彼の正確な没年は不明ですが、1502年または1506年に亡くなったとされます。
また雪舟は、水墨画だけではなく築庭もしたといわれています。
九州北部から山口、岡山、京都辺りまで雪舟庭といわれる庭園が幾つも存在しています。
藤江氏魚楽園は1469年以降雪舟が明から帰国後に山口へ訪れる際に、藤江家に立ち寄ったと伝えられています。藤江氏魚楽園の近隣には英彦山という山があり、古くは空海や最澄も立ち寄ったと言われるほど位の高い山です。当然雪舟が築いたといわれる庭園も残っています。「亀石坊庭園」と言われ地元の方々に親しまれています。
その当時藤江氏魚楽園も英彦山の寺領であり、かなりの権力を持っていたこともあり、雪舟の居、食、住の面倒を見たことで庭園を築いたと言われています。
庭園の特徴
蓬莱式庭園といわれ、「神仙蓬莱思想」(不老不死や永遠の繁栄の意味)を表現しています。
池中に仙人が住む蓬莱島があり、縁起の良い鶴や亀も配置しています。
また、庭園には2つの門があります。
江戸時代には小笠原公も勧遊に訪れ、「御成り道」から通り、「御成門」から屋敷に入り座敷から庭を観賞されたといわれています。
御成り道と旧屋敷跡の石垣も貴重な文化財と言われています。
「薬医門」はかつては医者の門として使われ四六時中出入りできたといいますが、一説には「矢食い門」とも言われ、門に的を置き弓の練習に使ったとも言われています。このことは藤江家屋敷一帯が城の体をなしていたということを示しています。
なお御成門と薬医門は平成13年に建て替えられたものです。
「蓬莱式庭園」である魚楽園は、池中の中の島が蓬莱島を表します。庭に向かって左奥に三尊石があります。三尊石は一番上に阿弥陀如来、2段の滝を挟んで左側が勢至菩薩(知恵)、右側の丸く優しい石が観音菩薩(慈愛)を表しています。
庭園の左側部分は石を多く積み渓谷(荒々しさ)を表し、そして右側は大海に見立てており、静寂・落ち着きを庭景に表現し背後の山と樹木とを一体化させることで静寂幽邃を醸し出しています。
人生や世の平和を希求する心を表現しています。
風水
風水とは自然の中に存在する気の流れを、人間の生活に取り入れる古代の知恵です。庭や外構にも風水の原則を取り入れることで、運気を高めることができると言われています。
その風水と関係がある「藤江氏魚楽園」には昔から「龍穴」へ向かう龍脈が通っていると言われています。
ここでいう「龍穴」とは恐らく英彦山の事ではないかと思われるのですが、昔から風水でいう「龍穴」は大地の気が吹き上がる場所で繫栄すると言われ、古社が鎮座している事が多いのです。(伊勢神宮、日光東照宮、唐招提寺等)
その為、裾野にある魚楽園には龍の様な力強い「気」が流れ込んでくるのだと、祖父から教えられた記憶があります。
雪舟はその「気」を留めておくために池を築きました。庭園の中の池は湧水で、溜まった水は下の貯水池に流れる仕組みになっています。
常に綺麗な水がある池は良い「気」を集めるには必須条件です。
もちろん「気」は流動性があるので流れて行きますが、龍脈から流れてくる「気」は庭園の中では常に清く、すがすがしく流れています。
また、池の周囲の阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩を示す石は、その流れを制御する様に据えられているといわれています。
これが祖父から聞かされたお話です。
こうして、祖父の事を思い出した時、私の中で、別の世界の入口が開き、霞の中から仙人が表れて話しかけてくるように感じるのです。
※2020年から「藤江氏魚楽園」は閉園中ですが。「かふぇ亀草庵」は火、木、土、日、祝祭日を営業しております。
国指定名勝庭園「藤江氏魚楽園」|魚楽園 (gyorakuen.jp)
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