見出し画像

少女に気軽な一人旅が届くまで問題7

今回は1952(昭和27)年、日本が独立国に戻る前の話から進めます。日本の経済が復興してきて、既に占領中にもある程度旅行を楽しむ余裕も出てきています。

一人旅を楽しめる余裕が出る前に、まず語らねばならない要素があります。子供達の修学旅行です。実は戦時中もかなりぎりぎりまでは神社への聖地参拝旅行が行われています。修学旅行には神社への参拝に行く訳です。(ちなみにワタシも小学校の修学旅行でも行き先が伊勢志摩だったので伊勢神宮に参拝しています。市内の他の学校では奈良京都だったのですが、戦前からの習慣が残っていたのかもしれません)

まず占領下、1948(昭和23)年に生徒5割引・引率教職員5割引で学生団体の引受を再開しました。いきなりがっつりとお安くなっています。そのおかげで修学旅行が復活しました。大勢の生徒を引率して、宿泊を含む旅行ができるだけの復興が進んでいた訳です。修学旅行に行ける学校がどんどん増えてきます。
週末に運行していた温泉観光準急列車『いでゆ』『いこい』を平日に利用した、日光、京都、大阪方面へ修学旅行専用列車も走り始めます。

そして1950(昭和25)年頃、修学旅行集約輸送臨時列車が出てきます。修学旅行のニーズが高い区間にあらかじめ修学旅行用の枠を用意しておけば、わざわざ臨時列車を用意する必要もないというものです。こういうのが用意できる程度に修学旅行は多くなっていたのです。
つまり子供達に「みんなで遠くへ行ける旅行」という前提を取り戻したのです。独立を取り戻す前に、ここまでのベースが戻っていたのです。これはかなり大きいです。

その豊かさが戻ってきた状態で、もう占領して復興するという必要もなくなったということで、1952(昭和27)年に日本は再び独立します。

そして修学旅行と並んで、旅行へのニーズを上げたものがあります。新婚旅行です。

戦前にも新婚旅行自体はありました。ヨーロッパにあったブライダル・ツアーという、結婚後に遠方の親戚を訪ねる習慣が、夫婦水入らずで旅行に行くハネムーンという習慣に変化したようです。これが日本に入り、上流階級に習慣が根付きます。ただ、まだ普通に手の届くものではなかったようです。

ですが、日本の新婚旅行への憧れが一気に加速する大イベントが1959(昭和34)年3月19日に起こります。

「私が選んだ人を見ていただいて」
清宮貴子内親王殿下が、学友である島津久永氏と婚約した記者会見でのこの言葉が一躍流行語となりました。既に当時の皇太子殿下(上皇明仁陛下)と正田美智子さん(上皇后美智子陛下)の結婚を控えた、既にミッチーブームが沸き起こっている時期です。皇族が民間のパートナーと恋愛結婚するということが実際に日本で起こるのだという事実が、特に女性に突き刺さりました。

フィクションでなら1953(昭和28)年(日本公開は翌年)に『ローマの休日』が公開されていて、爆発的なヒットを飛ばしていますが、自分とはまだ遠い世界です。

お二人の婚約は日本でもこんなロマンティックで素敵な恋愛結婚があるのだと、そういう世界観をぶち立てたのです。

1959(昭和34)年4月10日、皇太子殿下の結婚の儀が行われました。この報道を見るためにテレビがバカ売れするなど、とんでもない経済効果がありました。そして翌1960(昭和35)年、清宮貴子内親王と島津久永氏も結婚。この時に新婚旅行の行き先として宮崎県が選ばれ、大々的な新婚旅行ブームが巻き起こりました。
恋愛結婚して新婚旅行するというのが定着したのです。

新婚旅行ブームを受けて、少し時間は経ちますが、1967(昭和42)年の春に臨時急行ことぶき号が運行開始になります。結婚式が多い時期に多く臨時列車が走ることになります。
このことぶき号(現在ある『ことぶき』は津山線の岡山──津山間の快速列車で別のものです)は、1等の指定席、1等寝台B、食堂車のみというものすごくイレギュラーな編成で、ことぶきの切符を買うとことぶき入場券が10枚ついてくるというこれまたすごいものです。新婚旅行への見送り客向けの入場券ですね。(あまり鉄道に詳しくないので、こんなに大量の入場券がセットになっている切符を他に知らないのですが、詳しい方の情報をお待ちしています)

ことぶき号については下記のサイトを参考にさせていただきました。ありがとうございます。


恋愛結婚、新婚旅行というロマンティックな習慣ができ、若い女性にとっての旅行への夢がふくらんだのです。
ここから一人旅にはもうすぐです。

次は今回時系列的にすっ飛ばした新幹線とディスカバー・ジャパンについて書きたいと思います。


この記事が参加している募集

館山の物語を気に入ってくださった方、投げ銭的な風情でサポートすることができます。よろしかったらお願いします。