【比較】an・an創刊号、non-no創刊号、そしてディスカバー・ジャパン
アンノン族という言葉をご存知でしょうか?
語源は1970年創刊のan・anと1971年創刊のnon-noのアン、ノンを合わせたものです。それまでは団体旅行、少人数だと新婚旅行がほとんどだった旅行業界で、それらの雑誌の読者を中心とした、女子の一人旅、少人数の旅が大流行したことで付けられた名前です。
『少女トラベルミステリ』でもこちらの記事で扱っています。
ワタシは80年代のan・anは読んでいたのですが、non-noは全く読んでいなかったので全く比較ができず、アンノン族と一括りにする時に「実際のところはどのくらい違うの?」というのは気になっていました。
一応an・anに関する資料は多少入手して読みました。
こちらの『1970年代のアンアン』のサイトに載っていた記事も参考にしています。
実は創刊当時のan・anについて書かれている本はこのように何冊か本が出ています。でもnon-noをメインに採り上げている本は見当たらなかったので、non-noについても書かれている『「アンアン」1970』『49冊のアンアン』の情報をメインで確認することになります。
ニュートラルな立場で確認することはできませんでした。そこはご了承ください。
上記の資料と、an・an創刊号、non-no創刊号、そして『藤岡和賀夫全仕事[1] ディスカバー・ジャパン』をベースとして記事を書いていきます。
この後全て敬称略です。
an・an創刊
1970年3月20日、平凡出版(現マガジンハウス)からフランスの雑誌『ELLE』の日本版として『anan ELLE JAPON』という名前で創刊されました。(正式名称には中黒は入っていないのだそうです)定価160円です。前年1969年に『平凡パンチ』女性版をパイロット版として出した翌年の創刊です。an・anの判型はそれまでにない変型A4判でグラビア印刷を採用していました。
本題ではないですが、現在の『an・an』や『エル・ジャポン』を知っている人にはちょっと戸惑いがあるかもしれないので付け加えますと、『anan ELLE JAPON』創刊から12年後の1982年に『ELLE JAPON』が創刊され、『an・an』は単独の雑誌になります。そしてその翌年に社名が平凡出版からマガジンハウスに変更されます。その7年後、『ELLE JAPON』はタイム・アシェット・ジャパン社に出版元が変更され、新会社の方で新創刊することになりました。しかもその後社名が何度か変更されます。
タイム・アシェット・ジャパン社→アシェット・フィリパッキ・ジャパン社→アシェット婦人画報社(婦人画報社との合併)
このように『ELLE JAPON』の発売元が何度も変更しているので大変紛らわしいですが、1982年に『ELLE JAPON』抜きの『an・an』になってすぐマガジンハウスになるというのだけ書いておきます。(中途半端に名前を知ってる人の方が戸惑うやつですね)
先鋭的、スタイリッシュの極北
表紙のモデルはan・anに多く登場する立川ユリではなく、クリスチャン・ディオールのモデルのMarita Gissy 、撮影は立木義浩。
表紙に何も売り文句が入っていない、とても目立つ表紙です。
an・an創刊号の目次から内容を書き出してみます。
雑誌タイトル、モデル、カメラマン、スタジオについて書かれ、目次が始まると一番上に「ART DIRECT 堀内誠一」とあります。その下の目次リストを一気に書き写します。
実はこの目次、実物を見るとものすごく特徴があります。敢えてその箇所は書き写さなかったのですが、それぞれのカテゴリに分けられている記事のページは昇順になっていません。ばらっばらにレイアウトされているのです。
紙面デザインもかなりよく、写真もみんなスタイリッシュ、翻訳された『赤頭巾ちゃん』は澁澤龍彦翻訳。三島由紀夫のエッセイ。(同年に壮絶な死を迎える前です)『ミニミニ テアトル ある恋の結末』は写真と台詞で構成されたパラパラ漫画のような感じでⅠコマずつ(例外はありますが)入っているもので、目次では水森亜土の名前しか出ていませんが、「作・里吉しげみ」と書かれていて、最後に男Aは恒吉雄一、女は水森亜土、男Bは山崎草介とモデルの名前が出ています。
お勧め本は小栗虫太郎『黒死病殺人事件』、E・L・カニグスバーグ『クローディアの秘密』、ルイ・アームストロング『サッチモ ニュー・オルリーンズの青春』、《THE BEATLES ILLUSTRATED LYRICS》の四冊です。
料理は全部お菓子で「いちごのシャルロット」「パリジェンヌ好みのオレンジ・サラダ」「フランス風アップル・パイ」「アーモンドをきかせたレモン・パイ」の四種です。
一番たくさん出ているモデルは立川ユリ。ピンクハウスで有名なファッションデザイナー、金子功の妻としても有名です。「はじめまして! アンアン代表です」「ユリのヨーロッパ」に多くのページを割いて登場しています。
西洋占星術を初めて雑誌に載せたのもan・anだそうです。それまではなかったそうです。占星術師はエル・アトスラダムスです。雑誌を買わない人も立ち読みだけして「an・anの星占いは当たる」という噂が立つほどだったとか。
一通り見た感じで一番感じるのはものすごくセンスがよくてお洒落なこと。お勧め本や掲載されている作家のラインナップからして、普通のファッション誌とは全く思えない内容です。
そして当時のファッション誌には必ず付いていた「型紙」がan・anには付いていませんでした。(昔はファッション誌は自分で服を作れるように型紙が付いていたんだそうです)しかもショップに買いに行ける既製服も載っていませんでした。当時は既製服は「ぶら下がり」と言われて、お洒落な服が欲しい人が買うものではなかったと『「アンアン」1970』で赤木洋一が語っています。
では服はどうしたか? 海外で購入したお洒落な服や、金子功がデザインして仕立てた服を着たりしています。an・anのために作られたお洒落な服を大量に用意されていたのです。
壮絶な手間をかけて作られた尖っててお洒落な雑誌は話題になりました。an・anで仕事がしたいというクリエイターも、an・anが好きだというスポンサーもかなりいたようですが……売れませんでした。グッズや掲載された服をが売れたり、立ち読みのお客はかなりいても、実売には結び付かなかったのです。
そしてその頃、an・anのライバル雑誌が創刊されるらしいという話が流れました。
non-no創刊
1971年5月25日、集英社からan・anと全く同じ判型、グラビア印刷で創刊された『non-no』です。190円です。
こちらの内容について書く前に、『「アンアン」1970』のやや長いエピローグ『対抗誌のうわさ』からニ箇所引用します。
本郷保雄というのは引用にもありますが、他には「雑誌『明星』を100万部雑誌に育てた」という凄腕編集者です。
まずはan・anと同じように目次を並べてみます。
non-noの目次はan・anと違って、カテゴリで並べた後には昇順に並んでいます。些細なところのようですが、「このコピーは読者に不親切、説明不足とか、アカ(朱筆)で書き込んでいるそうだ」という箇所の一端だろうと思います。
その認識で見るとnon-noの構成はかなりすごいです。確かに「売れるan・anを作るために全力で分析した」ように見えます。an・anの強い特徴でもあったスタイリッシュで、服が素敵だなと思っても一枚も買いに行くことができず、ターゲット層の若い女性の何割かは澁澤龍彦も三島由紀夫も庄司薫も読まないでしょうし、お勧め本に載っている『黒死館殺人事件』を聞いたことすらないだろうと思われます。芸能記事も載っていません。an・anを読み込んで、an・anのファッショナブルな空気をぎりぎりまで残しながら、既存の雑誌を読んでいた読者も入れるような構成になっています。
セックスネタについても両方が扱っているのですが、an・anとnon-noでシモネタ感が全く違います。
ただ、今見ると「よくここまで堂々とパクって、かつ本家より爆売れさせたな」と衝撃を受けます。型紙は載っていないこととか、現在から見ると何故入ってるのか解らない楽譜付きの歌のページが1ページあるのとか、an・anで初めて載せた西洋占星術の占いページをnon-noでも載せていたりとか、意図的に同じにしてきただろうと思われる箇所はかなりあります。(ルネ・ヴァン・ダール・ワタナベの西洋占星術師としてのデビューはnon-no創刊号です)
パクりというと「先鋭的で売れそうなものをパクって売れるのは当たり前だろ?」と思う人がいるかもしれませんが、そんなことはありません。ほとんどの後追いパクりは劣化〇〇になればいい方、下手すると平均レベルを下げたことでその路線の寿命を縮めていきます。しかもこれ、an・an創刊からたった一年で、準備期間もコミコミで『売れるan・an』作戦を成功させたというのは凄まじいです。
non-noの追加要素
まず最重要の要素としては「買える服が載っていること」だと思います。an・an読者のアンケートで一番多かった不満もこれでした。これが解消されたのはとても大きいです。もちろん買える服が一着も載っていない訳ではありませんが、パリコレの服の情報、『日本で買える「エル」の服』の記事、当時an・an専属だった金子功が作った立川ユリの服もあります。でも日本のメーカーの服は基本的に載っていないのです。
そしてELLEの日本版として作られたan・anでは芸能記事に該当するのは全て海外の女優ですが、日本の芸能人に関するページがそれなりに多く割かれています。メイクの仕方、石坂浩二と浅丘ルリ子の結婚式、芸能人のエンゲージリング、ソフトポルノ的な小説、木村三四子『ホヤホヤなんです』は結婚式から始まる漫画です。結婚、恋人を意図した方向性の記事が多いです。
料理、手芸などの実用ページもあります。(料理もお菓子ではなくドライブ時のお弁当です)比較するとかなりレクチャー記事が多いです。
そしてan・an創刊号では日本国内に行った記事はありませんが、non-noは創刊号から国内旅行のページがあります。奥大井渓谷の旅行ガイドページです。
両誌の旅行要素とディスカバー・ジャパン
ここで創刊号ではないものの『少女トラベルミステリ』にとって必要な情報を追記します。an・an 9号(1970年7月20日号)に、日本旅行の重要な記事があります。
この9号は日本旅行メインの特集号的な構成になっているのです。『ユリとベロの京都』『ベロとサブの軽井沢』『ベロちゃんトーキョー日記』『ユリ狐(伏見稲荷で撮影)』と、かなりガチで日本推しの号です。ちなみにベロというのは立川ユリに続いてan・anの人気モデルとなったベロニッキ・パスキエのことです。
この9号について『49冊のアンアン』にはこう書かれています。
この時期、まだnon-noは創刊していません。
そして1970年10月、日本最大のキャンペーンでもある国鉄のディスカバー・ジャパンが始まりました。第一弾のポスターは撮影が間に合わずにありものの写真を使ったそうですが、第二弾からは今まで国鉄の広報に使われたことがないような、新しい写真が登場しています。
両方を比較するとたしかに「そのままマネた」と言われてもおかしくないコンセプトの近さです。時期も相当近く、an・an 9号は7月20日発売、ディスカバー・ジャパン開始が10月1日。ありものの写真を使った時期から2週間後くらいを第二弾のポスター公開の時期と見ても三ヶ月ありません。
ただ、準備期間を含めると「そのままマネた」と言うには早すぎる気がします。デザインコンセプトを絞る時にあからさまに参考にした可能性はありますが、当時のお堅い国鉄相手のプロジェクトで丸パクで押せた部分は限られていると思います。(さすがにそのインターバルで大型予算を出せないはずです)
追記
an・an9号も該当記事を確認しましたが、やっぱりカラーは違うので「そのままマネた」とまでは言えないように思いました。個人的な印象としてはディスカバー・ジャパンはやっぱり人物は添え物、風景をこそ見せるコンセプトで、生活感のない長身の、中性的な美女達をメインとして撮影したan・anの写真とは意図が違っているように思えました。
(ただし、人物を「an・anのようにイメージした」だろうというのは強く思います。当時、ディスカバー・ジャパンのCMに出演した秋川リサもan・anの人気モデルの一人でした)
新しい、若い女性向けの今までなかったヴィジョンがan・an単独で出たと考えるよりは、団体旅行、新婚旅行以外の「特別な時間」を得るための旅行が望むように、若い女性が変化していることを感じ取った人が現れてきたのではないか。個人的にはそう思っています。
とりあえず1970年にはまだ、an・anとディスカバー・ジャパンのみが動いているので、アーティスティックなカラーは初動では相当強い状態です。(そしてこの年の11月25日、創刊号にエッセイを寄稿した三島由紀夫は市ヶ谷駐屯地で割腹自殺をしています)
そして1971年5月25日のnon-no創刊を迎え、「美しい夢のような旅行、一人旅」に解りやすいマップ入りの旅行ガイド、素敵な服を着て旅行に行こうと思えばあらかじめ買ってから行ける状態になりました。
当時はまだ「女の一人旅? 自殺か?」などと疑う旅館、ホテルも多かった時期ですし、インターネットもありません。検索のためのインフラがない状態で、美しいヴィジョンのために下調べを十全に行い、不安のある中で実際に旅行に出ることができたとすれば、その若い女性は剛の者です。例外的な勇者です。それが「美しいものを見たい」「内省的な旅をしたい」「自分について考えたい」という思いで、「ちょっと勇気を出して出かけてみよう」と飛び出していくことができるようになったのです。
個人的な印象としては「どれかひとつが牽引したのではなく、an・an創刊、ディスカバー・ジャパン、non-no創刊という広がり自体が、若い女性を旅行する流れを作った」のだと思っています。
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