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戦えキルシュトルテ

 あの頃。歳の離れたろくでなしの兄は、俺と幼馴染みのことをキルシュトルテと呼んでいた。
 気の利いた理由ではない。セリというその幼馴染みの名前が、フランス語のさくらんぼ(スリーズ)から取られたものだと聞いた兄が俺、園村(そのむら)啓貴(よしたか)の名前を音読みするとケイキと発音するのと引っかけて「おまえと合わせるとキルシュトルテだな」と言ったのがきっかけだった。
 小学生時分には、キルシュトルテなんていうケーキがあることを知らなかったが兄、太一(たいち)がバイト先の女の子から教えてもらったと言ってわざわざ買ってきてくれたので、そのケーキがさくらんぼ入りのチョコケーキだということは数日後に知った。

「……おいしいね」

 あのアホ兄の発言なので何となく変な味なんじゃないかと思い込んでいたけれど、少し酸っぱくておいしい味だった。
 あれから兄は時々、俺とセリのことをキルシュトルテと呼ぶようになった。兄のネーミングセンスを恥ずかしく思いながらもそんなに嫌ではなかったのは、多分セリと同カテゴリにくくられるのが少し嬉しかったからだ。
 ただ、それもそんなに長くは続かなかった。
「親が一軒家を買ったんだ……だから、引っ越さなきゃいけなくなった。だから啓貴(ケイキ)にも太一(たい)っちゃんにももう逢えない」
 冬休みを迎える前に、セリが別れを告げにきたのだ。
 何かを堪えているような、苦しげにすら思える様子を見ていたら、何故引っ越したくらいで逢えなくなるのかとか、引っ越してほしくないなんて言葉を出すことすらできないでいた。
 もし兄がいたら、何か違う方法も執ることができたのかも知れないけど、その時俺は一人だった。
 だから引き留める言葉は言えなかった。その代わりに「また、逢おう」の言葉だけをやっと絞り出せた。
 セリの残したものは住所をメモした紙だけ。
 夕方戻ってきた兄にセリが引っ越す話をしたら、案外不思議そうでもなく「ふーん」と聞き流していた。
 俺達兄弟の前から見坂(けんざか)セリが消えて、キルシュトルテなんて呼ばれ方をすることもなくなり、三年生の春休みを迎えた頃、今度は兄が突然いなくなった。
 どうも何か馬鹿なことをやらかしたらしく、柄の悪い奴らがしばらく押しかけたり、大学の友達だという面々が何か知りたそうに訪れたりしていたけれど、何も収穫がなかったせいか、一ヶ月も経つとそいつらも徐々に来なくなった。兄が姿を消した理由も知れないまま、セリもいない、兄もいない日々がやってきた。
 住所を教えてもらいはしたものの、何となく連絡できなかった。元々年賀状すら送る習慣がなかったし、セリからも一通も来なかったので余計に送りづらくて、そのまま連絡を取らずじまいだった。

 そして新学期を迎え、俺は一人になり、そのまま時は過ぎるのだと思っていた――見坂セリが再び訪ねてきた今日までは。

 

 

「ケイキ?」

 アパートの門の側で待っていた、さらさらの黒髪と黒目がちなのに鋭い印象のある眼の女子を見た時、彼女が見坂セリであることに気づくまで数秒かかった。
 ただ、それは彼女の方も似たようなものだろう。
 あれから七年も経っているし、第二次性徴を迎えて身長は何十センチも伸びている。面影が残っているという程度の心許なさで話しかけてきたのだから。

「セリ……だよな」
「うん。久しぶりだね。何年も来てないから迷うかなと思ったけど、このへんはあんまり変わってなくてすぐに来られた」

 確かにこのあたりは開発も入っていなくて、せいぜい近所のコンビニがつぶれた後に、別のコンビニになった程度だ。

「上がれよ。時間はあるんだろ?」
「うん」

 セリは少し困ったようにうつむいて笑い、持っていた白い紙箱を見せる。

「せっかくだからキルシュトルテ、探して買ってきた。太一っちゃんのと三人分」

 それを聞いた時、俺はしばらく間の悪そうな顔をしていたのだと思う。不思議そうにセリが俺を見上げる。
 ほとんど変わらなかった背も七年でこんなに変わってしまったのだという感慨と、兄についてどう説明したらいいか解らず戸惑う思いがないまぜになっていた。
 多分、セリの方にも同じような思いはあるのだろう。
 以前よりも笑顔はぎこちなかった。
 俺は子供の頃と同じように、そのままドアの鍵を開けてセリが入るに任せた。セリは軽くうなずき俺の後ろからついてくる。その様子は以前と変わらなくて、少しだけほっとした。

「わ、テレビが新しい……以外はあんまり変わってない気がするんだけど」
「うん、そんなもん」

 親がインテリアに興味がなく、金も潤沢ではないのでリビングに置かれているものは、基本的に壊れるまではそのままだ。それが逆に嬉しかったのかセリはかすかに微笑んだ。

「俺の部屋でいい?」
「話したいことがあるからそっちの方がいい」

 今までセリ以外に女子に該当する人物を部屋に呼んだことは一度もなかったのを思い出した。酔っ払って俺の部屋にゲロを吐いていった兄の女友達と、母親が勝手に入ってきたことがあるが勘定に入れないでおく。
 とりあえず自分の鞄を部屋に放り込んでから、冷蔵庫に入れてあるペットボトルのお茶とマグカップとフォークを持ってきた。一人だったら手摑みで食べたし、以前に三人で食べた時にも手摑みだったが、七年経っていることもあるし、何となく昔のままではいけないような気分だったのだ。
 それに、セリはまだ、今まで音沙汰なかったのに突然訪ねてきた理由を話していない。それを聞くまでは兄がキルシュトルテと呼んだ俺達ではないような気がした。
 七年逢っていないのだ。距離はすぐには縮まない。
 セリは俺の持ってきたものを見て、少し困ったように溜息を一度つき、その後わずかに笑う。

「何ていうか、啓貴(けいき)は変わらないね」

 そう言うとセリはケーキ屋の紙箱を開き、蓋の部分を器用にちぎって自分用に皿を作ると勝手にケーキをそこに載せていた。気を利かせたつもりが、皿を用意するのを忘れていたのだ。

「太一っちゃんの買ってきてくれた店のじゃないと思うけど、多分おいしいんじゃないかな。太一っちゃんの分は啓貴が食べていい」

 俺が今まで言えずにいた言葉を、セリは先取りする。
 どうやらセリは俺の態度から、兄が既にここにいないことを推測していたらしい。

「太一っちゃん、あの春から帰ってきてないの?」
「あの、春?」

 確かに兄が姿を消したのは春だ。
 でも、その頃にはセリも引っ越しており、もう俺達は連絡を取り合っていない時期だった。
 セリの言う『あの』春とはいつのことだろう?
 それ以前に、そもそもセリは何のためにここに来たんだろう?
 問い詰めようと思ったけれど、やめた。

「とりあえずケーキ食おう。食ったら話す」
「うん」

 俺達は黙々とキルシュトルテを食べた。
 途中でセリが自分のお茶を淹れるついでに、俺のマグカップにもお茶を注いでくれたので一気に流し込んだ。
 もう一個はもったいないのでそのまま置いておいた。

「多分おまえの言ってる『あの春』は、小学三年生の三学期だよな。次に四年になる――太一兄ちゃんと最後に逢ったのは、その春か?」
「そうだよ」
「どこで? 偶然?」
「引っ越し先に訪ねてきた。話したのはうちの近所の公園かな」
「マジで!?」

 だとしたら兄が最後に逢ったのはセリである可能性が高くなってきた。こんな状況で失踪した兄の消息を聞くとは思っていなかった。

「アホ兄、何しに行ったんだ」

 兄が姿を消した後のごたごたを考えるとろくでもない想像しか浮かばない。眉をひそめる俺を見やり、セリは困ったように視線を落とす。

「……そっか。やっぱり当然内緒だよね、あんなもん」
「あんなもん?」

 当然内緒の『あんなもん』――ほぼ間違いなく予想しているよりは悪い何かだ。おのずと顔が強張った。セリもそれに気づいてか、一瞬だけ困ったような表情がよぎったが、すぐに表情を消して口を開く。

「太一っちゃんは私に『しばらく預かって』って言って銃を置いていったんだよ」

 銃。
 叫び出しそうになった瞬間、必死で声を呑み込んだ。
 確かにあの時期に押しかけてきた奴らは胡散臭い人間ばかりだったが、ヤクザまではいなかった記憶がある。

「あのアホ何で銃なんて持ってたんだろう……」
「お金を貸した友達から、借金の穴埋めって置いていかれたらしいよ。家にあると今まずいから、ちょっとの間だけ預かってほしいって言われて、そのまま」
「よりにもよって小学生の家に銃を預けにくるか。あのアホ太一、本当に最悪だよな。何年の間不法所持させておくつもりだったんだ」

 そう毒づくと、セリは軽く首を傾げる。

「多分、太一っちゃんはずっと私のところに置いておくつもりじゃなかったと思うよ。なるべく早く取りに戻るからって言ってたし」
「だからって小学生に銃預けるか。普通はなしだろ」
「でも太一っちゃんだからねえ」
「……だよな」

 きっとあのアホ兄のことだから、追われている間だけセリに預けておいて、ほとぼりが冷めた頃に取り戻しに行くつもりだったのだろう。

「だから、太一っちゃんが今どうしてるのかずっと気になってたんだ。もしかしたら銃のことなんて忘れて普通に暮らしてるかも知れないと思ったけど、念のために確認に来た」

 兄ならそれも充分ありそうな話だった。

「じゃ、俺の方もこっちのことを話す」

 そう前置きして、俺は兄が消えた時の状況について説明した。セリはあまり口を挟まずに聞いていたが、一通り話し終えてから深々と溜息をついた。

「……ぜーんぜん変わってなかったんだなぁ」
「予想以上のアホだったけどな」

 セリは呆れたように笑っていたが、やがて笑みを消して真面目な表情を浮かべる。

「生きてるか死んでるかは置いといて、やっぱり太一っちゃんは……いないんだね。だったらここに来ない方がよかったかな。啓貴に悪いことをした」
「まあ、俺に逢いにきたんじゃないだろうとは思ってたけどさ」
「そういうことじゃなくてさ、太一っちゃんが銃をどうするつもりか訊きたくて来たんだよ。どうするつもりか決めてるならその通りにしないといけないし」

 あることに気づいて表情を引き締めた。
 セリは一度も「銃を押しつけられたこと」への不満を口にしていない。返したいとも言っていない。
 彼女が訊きたいのは「銃を返すか」ではなく、もっと別のことではないだろうか。

「セリはその銃、どうするつもりなんだ?」

 その銃『を』どうする。
 その銃『で』どうする。
 わざと曖昧に問いかけた。
 多分今までずっと一緒にいたら、問いかけは決まっていたのだ。でも七年のブランクは大きい。互いにとって数年ぶりに逢った幼馴染みでしかないのにストレートに訊くことはできなかった。
 セリは瞼を伏せ、しばらく憂鬱そうに何事かを考えているようだった。
 俺はしばらくの間、伏せた薄い瞼やさらさらの黒髪をぼんやり見ていたが、その視線でセリを邪魔したくなかったので、空腹の振りをしてひとつ残ったケーキに手を伸ばして口に運ぶ。こんな時でも、普段食べないキルシュトルテはおいしくて、その分腹立たしかった。

(アホ太一、銃なんて子供に預けるなよ。どうしてもというなら取り返してからいなくなれよ)

 兄のことだから絶対何も考えていなかったに決まっているが、残された側にとっては銃は重すぎる。
 セリは銃について兄に確認したかった。兄が返してくれと言えば当然返しただろうが、そうでない場合はどうするつもりでいたのだろう?

『だったらここに来ない方がよかったかな』

 この言葉は「俺に逢いたくなかった」という意味ではなく、セリが俺と同じように距離を取っているから出たものらしいことくらいは推測できる。それが理解できないほど『遠く』はない。
 でも、いきなりそんな気遣いが馬鹿らしくなった。
 諸悪の根源であるアホ兄は、何の責任も取らず消えてしまい、当時は小学生だった俺達が何だかよく解らない何かを遠慮しあっている状況にうんざりする。

「誰殺すの?」

 何もかもぶっ飛ばし、いきなり問うた。
 セリは呆れたように俺を見やったけれど、やがて笑い出した。その表情は子供の頃のような無邪気なものではなかったけれど、とても綺麗だった。

「うーん、それをいきなり訊いちゃうんだ」
「でも、そういうことだろ? 銃の始末に困ってうちに来たなら、もっと違う感じだろうし」
「むしろ啓貴はもう少し困ったら? それなりに知らん顔できるように話してたのに」
「そんなところで困る気力なんてアホ兄が消えて騒ぎになった時に全部使いきった。訳の解らない奴らが一ヶ月くらい山ほど押し寄せてきてたし大迷惑だった」
「だったらこれ以上迷惑なんて」

 最後まで言わせず言葉を重ねる。

「訳の解らない状況でぽかーんとしたまま放置されるのが嫌なんだよ。太一兄ちゃんにしてもセリにしても、身近な人間なんだし。そういうの割と俺に失礼」

 そう言うとセリは少しだけ恥ずかしそうにしていた。

「おまえが引っ越した時に地味に傷ついたんだからな。いきなり引っ越す事情とか訊かれたくなさそうだったし、理由も解らないから連絡取っていいのかも解らなかったし。もう、そういうのは嫌なんだよ」
「ごめん。ありがとう……ずっと逢ってなかったのに、ちゃんと友達でいてくれるんだなぁ」
「まあそんなもんだって。俺達だってあのアホ兄がどれだけアホを炸裂させても、嫌いになったりしてないし。セリが誰かを殺したって嫌いにはならないよ」
「そっか」

 何となく幸せそうに呟くセリの声が、一秒くらい震えていたのは聞かない振りをした。

 

 

 その日、セリは子供の頃と同じように俺の部屋で一泊していくことになった。今は主のいない兄の部屋に泊めることも考えたけれど、部屋が散らかったままで数年放置されているので、俺の部屋の方がましだった。
 親は夜になって帰ってきたけれど、両親共に息子の客が泊まっていようが気にしないので、七年のブランクの後にセリが泊まっていても、ごはんを一人分余計に用意してくれた他は適当に放置されていた。今日ばかりは、こんな家庭であることに心から感謝した。
 電気を消して横になってから、セリはぽつぽつと銃を受け取った日のことと、その後について話してくれた。

 夕焼けが綺麗だったその日。七分袖の間抜けなTシャツを着た兄と並んでベンチに座り、世間話の後で「ちょっとの間だけ預かっといて」と箱に入った銃を押しつけられたこと。銃と関係ない時に俺のことも連れて遊びに来るよと笑っていたこと――その後兄は二度と来なかったこと。
 セリの引っ越したのが実際には母方の祖母の家で、本当は離婚前提の別居のためだったこと。セリの両親は離婚する、しないで争ったりよりを戻したりを繰り返し、その間に祖母が亡くなったこともあり、その家で再び父も同居するようになったこと。同居後も夫婦仲はうまくいってはおらず、母が友達に誘われてカルト宗教だか自己啓発サークルだか解らない何かにはまり、財産をまとめてお布施したらしいこと。

「で、お父さん自殺したんだ。今朝」

 暗いのをいいことに、セリはとんでもないことを付け加える。

「今朝!?」
「いいお父さんじゃなかったよ。お母さんと喧嘩すると何時間でも人格攻撃し続けて、お母さんが何も言えなくなるまでやめないし。いつも死ねって思ってた」

 引っ越す前、セリがちょくちょく泊まりに来ていたのは、その家庭環境が理由なのだろうと想像がついた。

「でもさ、ものすごく嬉しそうに『二度とあなたのいる場所には帰らない。仲間がいるから』って笑ってた電話の声を聞いた後、朝に死んでたお父さんに、当然だよねとも思えなかったんだ」

 セリの父が死んでいたというインパクトに押されて、その遺体がどうなっているのか疑問に思うまでややインターバルがあった。

「今朝死んだって……知ってる人、何人いるんだ?」
「私と啓貴だけだよ。体が腐らないように、エアコンを一番低い温度にしてはきた。腐る前にけりをつけたいと思ってる」

 この場合の「けりをつける」が、誰かを殺す以外の何物でもないことくらいは理解できる。

「昼にも訊いたけど殺すのって誰。セリのお母さん?」
「ううん。お母さんのことをそのグループに誘った、近所のおばさん。今お母さんと一緒にそこの支部に住んでるんだ」

 淡々と告げられた言葉に、本当はショックを受けたり痛ましいと思ったりすべきなのだ。でも、そんな気持ちには到底なれなかったし、まして「何故お母さんのことは殺したくないんだ?」とは訊けなかった。

「銃で射殺とかしたら、多分捕まるけど」
「解ってるけど、もう私の生活なんてとっくに破綻してるんだよね。家は売られてなかったけど、貯金されてた現金は私の預金と生活費の入ってた口座以外は全滅で、学費ももうないし」

 セリの声は淡々を通り越して平坦だった。

「だから、せめてうちをめちゃくちゃにしていった奴を殺したいんだよ……それを見てからじゃないと何も」

 言葉が途中で切れた。
 その続きを言わせようとは思わなかった。
 ただその代わりに、譲ったベッドに転がるセリの頭に手を伸ばす。髪を撫でた訳ではなく、動かさないでただ触れていた。

「啓貴?」

 セリは俺の手を避けたりはしなかった。
 身動きせず、俺の反応を待っていた。
 だから俺は今まで形にならなかった言葉を必死で具体化してみせる。

「そいつを一緒に殺そう。一人で行くな。俺も行く」

 その言葉を聞いて、セリは困ったように溜息をつく。

「啓貴には明日があるよね。学費も住む家も。それを捨ててまですることじゃないよ」
「あのアホ兄が置いていった銃がなかったら、そんな決意なんてしなかっただろ。それに太一兄ちゃんだって、この状況でセリを見捨てたら怒ると思う」
「怒るというか、太一っちゃんはそんな『大人げある』人じゃないからね。知ってたら本人が手伝っただろうし啓貴にも手伝わせたかも。馬鹿だから」

 セリの気配がかすかに苦笑するものに変わった。

「啓貴も七年も経てば賢く大人に育ったかなと思ってたのに、予想よりずっと馬鹿だった。こんなことに巻き込むために来たんじゃなかったのにな」
「そんな風に賢くなったら、太一兄ちゃんと言葉が通じなくなりそうだし――それに兄ちゃんがキルシュトルテ呼ばわりした俺達じゃなくなるよ」
「……ああ、キルシュトルテ」

 セリは頭の位置を少し移動させた。
 声が近くなる。

「啓貴にとって私達はまだ、キルシュトルテかな」
「俺は特にやめたりしてないけどな」
「そっか」

 セリは嬉しそうに俺の頭をぐりぐり撫でた。

 その後、常夜灯だけ点けて、セリは鞄から銃を取り出して見せてくれた。
 そのロシア製の自動拳銃は、自分で持つと思ったよりは小さく感じるけれど、セリの手の中だと実際以上に大きく見えた。

「一応それなりに下調べとかしてあったし、使い方のメモも入ってたんだけど、実際に撃って訓練できた訳じゃないからね」

 不法所持とはいっても、そもそも他人の所有物なので兄が失踪したことを知るまでは、勝手に使うことも考えていなかったのだろう。行き届かない部分はどうしても出てくるだろうが、経験のない人間が撃って殺すのに成功する可能性が高い状況を作るしかない。
 捕まらないようにではなく、確実に殺せるように。
 俺を翻意させるのは諦めたらしく、セリからは張り詰めた気配がやや消えていた。
 その後いくつか動画サイトで撃ったり解体したりしている動画を見せられ、地理情報検索サービスでセリの母や勧誘した女のいる団体支部がある場所を確認し、一時間ほど打ち合わせをしてから再び電気を消した。
 最初に電気を消した時には気にならなかった、髪がシーツにさらさら当たる音が聞こえて身震いする。
 七年ぶりに逢ったセリは綺麗になっていて、最初にも性的な意味で意識しなかった訳ではなかった。掌にセリの髪の感触も、俺の頭をセリが撫でた感触も生々しく残っている。
 でも、欲情したとか好きになったとか、そんなくだらない言葉を口にしていい状況ではない。銃の存在を強く意識することでセリから意識をそらしつつ、無理に瞼を閉じた。

 眠りに落ちる時、ふと頭をよぎる。
 もしセリが転居することなく、こんな風に遊びに来ることが続いていたら、見坂家の不和があった時にもっと早いタイミングで何とかすることができたのだろうか。
 アホ兄が小学三年生に銃を預けたりなんてしなければ、人を殺すという選択はなかったかも知れない。銃の力で消し飛ばすしかない明日に苦しむ今日なんてなかったのかも知れない。
 でも、そんなことを考えても意味はない。
 今の俺がセリのためにできることは多くないけれど、明日はできる限りのことをしよう。

 

 

 翌日。二人で電車に乗って、隣県にある団体の支部に向かった。セリの住んでいるのはそこではなく、隣の市らしい。
 バス停から歩いている途中、セリが口を開く。

「私、一度だけあの支部までお母さんに連れて行かれたことがあるんだ」
「どうだった?」
「みんなにこにこしてて気持ち悪かった。お母さんもいつもみたいじゃなくて、眼が変な風に潤んでて声の感じも全然違ってた」

 母親のことを話す時のセリの声は、かわいそうなほど淡々と響く。

「でも、あれが『幸せなお母さん』で、私はお父さんの側にいる、余計なものだったんだよね。だからあのおばさんを私が撃ったと知ったら、私のことなんて後回しで自分の『仲間』が死んだことを悲しむんだと思う」

 多分、その分析は間違ってはいないのだろう。
 血縁なんて案外そんなものなのだ。

「なあ、セリ」
「うん?」
「もし殺した後にも俺達を疑う奴らがいなかったら……生きてくれ。殺すのをやめろとかは言わないから、もし成功して、ばれないままだったらでいいから」
「人一人殺しといて?」
「うん、すっげー平和に。とりあえずバイトとかして生活して。しばらく俺の部屋にいてもいいし」

 セリは少し呆れたように笑った。

「いいね。そういう怒濤のように嘘っぽい平和な未来。何ていうか、太一っちゃんの頭の中みたいな世界」
「どうせ俺達は、太一兄ちゃんがキルシュトルテと名付けてこの方セット扱いなんだから、そんな馬鹿で幸せな未来を信じてる方が似合ってるよ。それにいなくなったからって、アホ兄が死んでるとは限らないし」
「もし生きててひょっこり戻ってきて、私が死んでたら驚くかな」
「その時には俺も死んでるから衝撃二倍だな」

 やや卑怯な言葉だとは思ったけれど、俺の中にはもうはっきりと優先順位はできていた。
 兄の銃で誰かを殺すのなら今日を終わらせるためではなく、明日を得るためだ。
 俺達が七年間奪われていた、すごくどうでもいいような、当たり前の時間。もし、こんなことのために誰かの命が奪われたら大抵の人間は怒り出すだろう。
 でも、そんなことは俺には関係ない。
 これが成功しようが失敗しようが、今の俺達がかつてのようにキルシュトルテで、こうして一緒にいられるのならそれでいい。
 もし失敗して警察に追われることになったら、その時にはセリと一緒に死ぬつもりだけれど、それは口にしなくてもいいことだ。

 俺達は支部からバス停へ続く道の目立たない場所で、そいつが現れるのを待った。
 二時間ほどした頃、状況に変化があった。道を見張っていたセリの眼に、冷たいものがすうっと宿る。

「向こうから歩いてくる、あの人」

 低い声でそう告げられた時、俺の眼にも同じような何かがよぎったのは自分でも感じられる。
 生まれて初めて体験した殺意は思ったよりも静かで、制御可能な冷たいものだった。
 打ち合わせ通り歩き出す。
 もうすぐだ。
 俺達の最初で最後の殺人。
 俺達がキルシュトルテであるのなら、どんな結果になろうと兄は褒めてくれるだろう。
 それだけは間違いない気がした。

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