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少女に気軽な一人旅が届くまで問題4

ここまで来て大変重要なことを忘れているのに気が付きました。

です。
「鉄道の話じゃなかったの? 船旅の話?」とお思いになるでしょうが、鉄道移動する際の合間にある船移動ターンの話です。

今は九州と本州を繋ぐのも、北海道と本州を繋ぐのもトンネルがあります。四国と本州を繋ぐのも瀬戸大橋があります。それ以前にはそうではなかったというのを完全に失念していました。今は鉄道で行けるのに、当時は鉄道だけでは行けない場所があるのです。
まずは昭和の鉄道状況に入る前に、鉄道連絡船について説明したいと思います。明治に逆戻りすることになりますが、昭和の説明をする時に必要になる箇所なので我慢していただけると嬉しいです。

初めての鉄道連絡船は1882(明治15)年。太湖汽船の大津──長浜間です。海ではなく琵琶湖の連絡船です。ただし1889(明治22)年に、長浜──膳所間が開通、東海道線が全通するまでの七年間だけ存在した連絡船です。
他にも川を繋ぐ連絡船が一時的に開設されることはあちこちにありました。

そして東海道線全通の二年後、1891(明治24)年。日本鉄道の上野──青森間が全通し、その先へ向かう鉄道連絡船が開通します。青森──函館間を結ぶ定期航路です。後の青函航路です。
他にも1897(明治30)年、九州鉄道が鳥栖──早岐間、長与──長崎間の二線を繋ぐ連絡運行が大村湾に開設されました。こちらは大村──長与間の松ノ頭峠の工事終了後に終了しています。

同年、山陽鉄道が神戸──徳山間が開通し、翌1898(明治31)年、徳山──門司間を結ぶ徳山──門司間航路が開業しました。本州、九州を繋ぐ鉄道連絡船ができた訳です。
こちらも1901(明治34)年、神戸──下関間全通した時に徳山──門司航路を廃止、下関──門司間航路を開業します。関門航路です。

本州と九州、四国、北海道などの大きな島とを結ぶ訳ではありませんが、同年、宮島渡航会社が宮島──厳島間航路を開業しています。現在の宮島航路です。鉄道と鉄道を繋いでいる訳ではないですが、鉄道連絡船扱いなので、今も青春18きっぷなどで行くこともできるそうです。
他にも1904(明治37)年、阪鶴鉄道が舞鶴──宮津間、1905(明治38)年に舞鶴──境間が開業、1906(明治39)年に舞鶴──小浜間が開業と、本州内でも鉄道連絡船は開業しています。

1904(明治37)年、山陽鉄道は二隻の大型渡峡船を発注しました。韓国へ向けての対馬航路を開設しています。この時期、ちょうど日露戦争の真っ最中です。陸軍御用船の常陸丸は沈没、佐渡丸は大破という事件が起こっているタイミングに『客船』を発注しているのです。びっくりです。
そして日露戦争に勝利して、講和が結ばれた後ほどない1905(明治38)年、京釜鉄道の釜山──京城間が全通し、山陽鉄道が関釜航路を下関──釜山間航路を開業しました。
まだ日韓併合の時期ではなく「外国へ向けての」航路です。
今扱っているのは『鉄道連絡船』なのでここでは書きませんが、鉄道と連絡していない海外航路は既に多く存在します。そちらに興味のある方はいろいろ探してみてください。

1906(明治39)年、鉄道国有法が施行され、日本鉄道や山陽鉄道を含む多くの私鉄が国有になります。ならない私鉄もありますが、かなり国鉄になっています。
このタイミングに関門航路が国鉄の所有になっています。

1908(明治41)年、国鉄が青函航路を開業します。
そして1910(明治43)年、岡山──宇野間の鉄道が開通したのと合わせて、かつては山陽鉄道が所持していた岡山──高松間、尾道──多度津間が廃止、宇野──高松間の宇高航路が開業します。本州、四国間を繋ぐ鉄道連絡船ができました。
同年、日韓併合が行われ、関釜航路は海外へ向かう航路ではなく、日本国内の航路になります。
つまり東京から九州、北海道、四国、韓国へ鉄道連絡船の乗り換えで移動できることになりました。
鉄道連絡船は「電車でそのまま乗り入れができる」訳ではありませんが、それでも同じ国鉄なので切符を別に買わなくてもよく、そのまま乗り換えられるというのは大きいです。

こういうインフラ状況になったというのを頭に入れておいてください。

多くの鉄道連絡船の開業によって、東京から九州、北海道、四国、韓国へ鉄道連絡船で行けるようになっていますが、国内以外の鉄道での海外移動についてもう少し付け加えます。

ロシアを走る、世界で一番長いシベリア鉄道は1904(明治37)年に開業しています。日露戦争の最中です。ただしめちゃくちゃ長いので、東西両端から敷設していき、完成した箇所から使用しているので、ウラジオストクからハバロフスクまでの沿線は1897(明治30)年に完成しています。(本題はシベリア鉄道メインの話ではないので全通まで追いません)
清から満洲北部の鉄道敷設権を得たロシアが、東清鉄道の満洲里──グロデコヴォ間の工事を開始し、1901(明治34)年に完成します。その東西を敷設が困難で滞っている(真ん中で苦戦している訳です)シベリア鉄道と繋ぐために、同年西側にザバイカル鉄道(満洲里──キタイスキ・ラズエズトー間)を、1903(明治36)年、東側にウスリー鉄道(グロデコヴォ──ウスリースク間)を開業し、東清鉄道はシベリア鉄道の短絡線として機能します。この工事が日露戦争の直前に終わっています。

1905(明治38)年、日露戦争で日本がロシアに勝利して、この東清鉄道の長春以南(長春──旅順間)とその支線が日本に譲渡され、1907(明治40)年、南満洲鉄道が営業することになります。

1910(明治43)年に日韓併合され、翌年1911(明治44)年には釜山──奉天(現在の瀋陽)への直行運転が開始。1912(明治45)年、釜山──長春間の直行運転が開始します。


鉄道連絡船というのは本州から九州、北海道、四国などだけではなく、朝鮮、満州を結ぶ重要なインフラとなっています。
話題に出ていたシベリア鉄道は1916(大正5)年に全通しているので、大正時代にはシベリア鉄道で大陸横断してヨーロッパに向かうことも可能でした。多くの人々がシベリア鉄道でヨーロッパに向かっています。

鉄道連絡船を使ってかなりいろんなところへ、しかも海外にも行ける時代を迎えていたのです。

何かとんでもない見落としをしていなければ次回こそ昭和に入る予定です。

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