無料サンプル

雨が降り続いている。

ここ最近、ずっと頭が痛い。

昔はこんな弱くなかったはずなのにな、首と肩をぐるぐる回しながら千賀子は思いを馳せる。

「やっぱりあの商品、欲しいな」

飼い猫のホズミがこちらを見る、わざと聞こえるような音量で独り言を呟く。テレワークで家に籠もるようになってからついた千賀子の新しい癖だ。

そういえばホズミにご飯をあげていなかった、デスクから離れて餌が置いてある棚に向かう。ホズミが察知してすぐ後ろをついてくる。猫缶の蓋を開けてほぐしもせずそのまま床に置く。ホズミも慣れたもので最初こそ食べづらそうだが器用にほじくり返して黙々と食べる。

冷蔵庫に入っていたペリエの瓶の炭酸水を飲む。数日前に開けたから炭酸はとうに抜けていて、こうなると水道水よりも不味く感じるから不思議だ。ペリエの瓶は千賀子には少し大きくて一度に飲みきれない。しかし田舎から東京に出てきて学生時代からの憧れの街、青山に住んでいる千賀子にとってはペリエを瓶で飲むことだけは譲れなかった。

「やっぱりあの商品、欲しいな」

先程より大きい声で呟く、ホズミも驚き食事を止めて千賀子を見つめている。

「よし、やっぱりもう一度かけてみよう」

スマートフォンを手に取り、リダイヤルする。仕事関係の連絡はパソコンでオンライン会議という形で行っているので履歴は全て同じ番号だ。緊張する間もなくすぐに繋がり

『お電話ありがとうございます、こちらはナビダイヤルです。サンプルをご希望の方は1を、購入をご希望の方は2を、もう一度聞く場合は3を押して下さい』

迷わず2を押す千賀子、数秒のコール音の後にオペレーターに繋がる。

『お電話ありがとうございます、担当の神ざ…』

「あの、購入したいんですけど」

担当の自己紹介を聞くことすらしない千賀子だがオペレーターは努めて冷静に

『ありがとうございます。お客様は当社の商品のサンプルをお使い頂いた事はございますか?』

「いえ、無いんですけど、欲しいんです」

『それでしたら当社の無料のサンプル品がございますので、まずはそちらの方をお申し込み頂いてからのご購入を…』

「評判は沢山お友達から聞いていて、それはもう皆が良いというので、その事については承知しておりますので購入したいんですけど」

「…はい、、では少々お待ち頂けますか」

カノンが流れる、思春期の頃のような胸の高鳴りを覚える千賀子。

 

新人オペレーター栞は生来の生真面目さゆえに苦悩していた。答えに窮し保留にしてしまったからだ。幸い、ここの上司は優しいので質問がしやすい。上司と言っても同じ派遣社員なのだが。

「すみません、マニュアルにないイレギュラーな事を言われてしまってどう答えれば良いのか解らないのですが」

派遣社員の上司、夏江に話し掛ける。年下だがサバサバしていて頼りになる所謂、女にモテる女という雰囲気だ。

「どんな事言われたの?」

「あの、初めての方でしたので購入される前にまずは無料サンプルをお勧めしたのですが、購入したいと言われてしまって」

「ああ、あのおばさんか、ごめんね、神崎さんに伝えとくの忘れてたわ」

「え?」

「その人たまに電話してきて同じ事言ってくるんだよね、最初のうちは初めてのお客様にはお売りできませんって何度も説明してたんだけど、あまりにしつこいからガチャ切りしちゃってるの、もちろんこれはコールセンターとしてはあるまじき行為なんだけど、上の人達ともちゃんと話してこの人の場合に限ってはオーケー貰ってるから」

そういうと夏江は栞のデスクのマウスを動かして終話ボタンをクリックしてしまった。

「これで終わり、簡単でしょ」

カラッと笑いながら言い放つ夏江に呆然とする栞だったが、すぐさま次のコール音が鳴り響き、慌てて仕事に戻る。

 

突然カノンが切れる。まただ、また買えなかった、どうしてなんだろう。千賀子はスマートフォンから耳を離し泣く。

涙が流れ床に落ちる。それを見たホズミが頬を舐めてくる、ざらついた舌が心地良い。

「ごめんね、にゃんでもにゃいんだよ」

ホズミを抱き締めながら無理矢理に笑った千賀子の目元の皺は年々深くなっている。

雨が降り続いている。

杉崎シュンペーター

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