妄想出版「ザ・月9の本'22,3,28号音粋ヒストリア-朝妻一郎インタビューEp.2」

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【CM】
スー)bayfm9の音粋月曜日今回は「音粋ヒストリア その時歴史は動いた~もう一度近現代史vol.1朝妻一郎編」でございます。スージー&ミラッキ、ホント小僧二人が。へへッ。
ミ)なんかスージーさんが「いつもよりちゃんとした格好で行こう」ってライン送って来たんで。
スー)朝妻一郎さん、僕1回お会いしたことがあるんで、あの方スーツでいらっしゃるからジャケットで行こう、って。(僕は)ジャケット着てたじゃないですか。
ミ)でもパーカーがのぞいてましたよ。
スー)ちょっと砕けた感じの、あれが元広告代理店マンって感じちゃう?知らんけど(笑)
ミ)私は子供の入学式でしか着てないスーツをひっぱり出して。
スー)借金が焦げ付いた銀行マンみたいな、ハハハ。
ミ)ホントですよ(笑)さんざんですよ。
スー)TwitterでAkeiさん《興味深いっていうか情報量が多過ぎる》ハハハッ多過ぎますよね。
ミ)普段も多い中で、朝妻さんが喋ること全部が情報ですから。
スー)ホントに歴史の証言者。地名を間違うようなテキトーなDJのへにょへにょした話じゃなくって、ホントに全ての話に価値があるっていう、聞いといてよかったっていうね。
ミ)今回は皆さんradikoのタイムフリー必須ですよ。1回2回3回と聞いて下さい。
スー)ねえー。こんなふうに「音粋ヒストリア」は、砕けた感じで小難しい話でなく、でも
音楽日本ポップス史に洞察を深めて。普通に聞くんじゃなくこれ知っといたら『恋するカレン』がホントにね、あ、これが「胸キュン」かっていうね。
ミ)朝妻さん御年79歳です。79歳で今年日本で一番多く「胸キュン」っていう言葉を言ってた。ハハハッ。
スー)ですよねえ。あの人の高級そうなスーツのポケットからキュン出て来ましたよ。
ミ)「胸キュン」は「胸キュン」なんだよなあって。ハハハ。いいですね。
スー)言っときますけど、「ロングバケーション」のスタッフに「「胸キュン」で行こう!」って言ったのは『君に胸キュン』より前ですからね。
ミ)そうなんですよね。『君に胸キュン』は‘83ですから。
スー)だから松本隆は「胸キュン」「胸キュン」と言われていてそれが頭にあって『君に胸キュン』書いたかもしれませんからね。
ミ)そうですよ。「ロングバケーション」制作は‘80ですから。松本隆さんの歌詞が出来上がるのを待ってなんていう時期もあって完成し、‘83『君に胸キュン』ですからね。
スー)世の中“ナイアガラ警察”と言いましょうか、大瀧詠一の歴史的な話に詳しい人たくさんいますけど、まあこの朝妻一郎の生声、証言というのは非常に価値があるもんです。
ミ)そうですよね。歴史の本から飛び出して来たような方ですから。
スー)是非、耳をそばだてて聞いていただきたいと思います。次は「加藤クン」加藤和彦さんの出会いでございまして、やはり『帰って来たヨッパライ』は日本のポップスの転換点、応仁の乱に匹敵する、ホントに“革命”が起きた。その時の現場にいらっしゃって、あのもう夢のような1年間に併走したのが朝妻一郎さん。主にフォーククルセダーズ近辺、加藤和彦という天才少年が京都から現れた時の諸々を聞いてみたいと思います。まずは以前にもかけましたけど、今から“革命”の説明が起きるぞ!という前提でもう一回『帰って来たヨッパライ』を聞きたいです。 
♪フォーククルセダーズ『帰って来たヨッパライ』

【エピソード2 加藤和彦】
スー:大瀧詠一の話は伸びがちなんですけど、加藤和彦ファンも多いので。この番組で主に私が執拗にフォーククルセダーズの歴史的貢献を話して。
ミ:(笑)「加藤和彦ファンもいるので」って一番のファンがスージーさん。
スー:ハハ私です。フォーククルセダーズが京都からデビューしたのが1967年で、京都で応仁の乱が起きたちょうど500年後だっていうのを話していて。  ミ:アッハハハハ
スー:応仁の乱に匹敵するフォークルの乱だと言ってるんですけれど。何回も聞かれてるとは思いますが、朝妻さんからお聞きするっていうのが意義があると思うので聞きますが、一番初めに『帰って来たヨッパライ』を聞いた時の衝撃とか、どんな感じでした?
朝:あのね衝撃っていうのは正直言ってあまり無かったんですよ。
スー:そうですか。
朝:というのはね。あ、チップマンクスじゃないかと。
スー:あーチップマンクス。はいはい。
朝:デビット・セヴィルと彼らのチップマンクス。デビット・セヴィルっていうプロデューサーが、テープの早回しで曲をヒットさせてたの。ま、もっともその後で『ロックを踊る宇宙人(パープルピープルイーター)』という曲があったり60年代頭にアメリカで、結構テープの早回しの曲がいくつもヒットしてたので、僕は、あ、これはチップマンクスの技術を使っているんだなあ、でも日本のあれとしては面白いなあっていうのが、最初の印象。
スー:みんなめっちゃ盛り上がってるけど、このアイデア自体はアメリカに既にあるぞ、と。朝:ええ、そう。
スー:しかし、ぶわっと火がついたんですよね。
朝:そう、それはね、石田達郎さんていう方が当時ニッポン放送の常務だったかな。
スー:本読んだらこの人凄い人ですね。ハハハ。
朝:石田さんが、「石田さん、こういうレコードの権利取れました」って言ったら「おう、面白いなあ、これはオールナイトニッポンだけでかけろ」と。「オールナイトニッポンを聞かなきゃこの曲が聞けないようにしろ」と。
ミ:いやあ凄いこと考えつきますね。
朝:だからオールナイトニッポンが始まって1か月か2か月経った時だったんで。今でこそヘビーローテーションなんていう言葉が一般的になってますけど、当時ヘビーローテーションなんて言葉は無いですよ。
スー・ミ:うーん無いでしょう。
朝:しかも同じ番組で1回以上同じ曲をかけるなんて、誰も考えてなかった時に「これはオールナイトニッポンだけでかけろ」で、「オールナイトニッポンでは何回かけてもいい」。
スー:著書に「パシフィック音楽出版の設立」という章がありまして、石田達郎さんという人の豪傑と言いましょうか ある意味今のラジオ業界も同じように混迷の道に来ていますが、当時、石田達郎さんはこうおっしゃったんですよね。「ラジオ業界が潰れるなら、ニッポン放送が一番最後に潰れる会社になろう」っていう。このスローガンていうのが。
朝:ええええ「一番最後に」。
スー:で、カーオーディオの会社ポニーとか作ったりするんですよね。
朝:そうそう。だからカーオーディオもね。ラジオにとって車っていうのが、一番大きな特にアメリカなんかでは大きなユーザーだった訳ですよ。ところがアメリカでカーオーディオ4チャンネルとか8チャンネルのカセットだったんだけど、カセットテープが流行り出して車でラジオを聞く人が少なくなっている。という事を石田さんは聞かれてカーステレオがラジオのビジネスを侵害するんだったら敵を自分の傘下にしちゃおうと。
スー:うーん。
朝:だからカーオーディオの会社を自分とこでやろう、というんでポニーを作られたんです。
ミ:(番組で)「ポニーキャニオン特集」をやった時に、ポニーの成り立ちって不思議だなあって話をしてたんです。
スー:このポニーって会社はなんなんだ。カーオーディオの会社なんだ、なんの会社だったんだろうって。
ミ:今のいきさつがあったって。自分のラジオがダメになるぞっていう時に真っ向勝負するんじゃなくて取り込んじゃえっていうところが凄い。
朝:そう。ダメになるなら敵を全部傘下にしちゃおうと。
スー:どんな感じの方なんですか。性格とか雰囲気とか。
朝:いやあのホントに豪快な方で、豪快だし人間味が凄い溢れてて。例えば阿久悠さんとか都倉俊一さんとか、漫画家ではゴルゴ13のさいとうたかおさんとかね、ともかく作家作詞家作曲家漫画家あるいは他局のプロデューサーとかね、日テレのプロデューサーの方とか人脈がみんなね、石田さんの事を「お父さんお父さん」って慕って。プロダクションの方とかもね。
スー:加藤和彦という人が才能があることは大前提なんですけど、今のお話聞いていると石田達郎さん高崎一郎さん朝妻一郎さんとか、デビューのタイミングが絶妙のタイミングで加藤和彦来たなっていう。
ミ:全部が絶妙で、パシフィックがで出来たのが‘66で翌’67にオールナイトニッポンが始まって‘67のXmasに『帰って来たヨッパライ』。で朝妻さんこの時23,4歳っていうのが震えてしまうというか。
朝:いや、だから僕は本当にラッキーな人生を送って来たんだなあと。
ミ:いやああ。
朝:要するに、いい時にいい場所にいて、いい人に出逢ってるんですよ。だからホントに自分の力じゃなくてみんな人の力を借りて、「あ、ありがとうございます。ちょうどこの力が欲しかったんです」という所にその力を持った人が来てくれたっていう感じです。
ミ:それにしても…。
スー:いやあ。フッフッフそれにしてもですよねえ。
ミ:それにしてもその集まり方は、若者の時代だったのかな。クリエーターもね。
スー:うん若者の時代。
朝:だってそもそも『帰って来たヨッパライ』だって木崎義二さんていう評論家の方が「イチ!お前これさ関西ですっごい流行ってるんでちょっと聞いてごらん!」って聞かしてくれた訳ですよ。木崎さんはラジオ関西で電話リクエストのDJされてて、で自分のその担当されてる電話リクエストですっごいいっぱいリクエストが来てるんで、面白いからって音を持って来て下さったんですけど。で、僕なんかラジオ関西での事なんか全然知らなかった訳だから、木崎さんが聞かしてくれなかったら『帰って来たヨッパライ』と接する事も無かった訳だしね。
ミ:「オールナイトニッポンでしか聞けないようにする」ってラジオ関西の人はどう思ったのかな。(笑) 
スー:アハハハ。確かにそうだな。
朝:ハハハハハ。オールナイトニッポンって多分OBCでしたからねラジオ関西じゃなくて。
スー・ミ:ハハハハハ。
スー:古い話なんで差支えなければ話せる範囲でいいんですけど、『イムジン河』が発売できなくなったのは、作者の表記を書けという事で…?
朝:あのね、作者の表記じゃなくて、作者の名前を入れるに当たって作者が北朝鮮の国歌の作詞もされた方とかって言うんで。
スー:ああ、ああそうなんですか。
朝:北朝鮮の国名をきちんと全部載っけろっていう事があったていうふうに、僕はちょっと聞いてますけどね。
スー:あーそうですか。ま真相はあれですけどね。
朝:ええ。
スー:で、音楽史的にはとにかく有名な話ですけど「さあどうする」ってなって加藤和彦を役員室に閉じ込めたんでしたっけ?(笑)
朝:そうそれこそ石田さんの部屋に加藤クンを閉じ込めて。
ミ:(笑)閉じ込めてハハッ。
スー:(笑)2時間以内に曲作れって。
朝:あれは多分10時くらいかな。
スー:夜?朝?
朝:朝の10時。9時半か10時ぐらいで。ともかく「昼ぐらいまでに曲作ってよ」って。
スー:『イムジン河』のテープを逆回転で『悲しくてやりきれない』を作ったっていう話はちょっと?
朝:それはね、本人が一番最初面白おかしく言ってたんだけど、実際は違うって言ってましたね。「加藤クンそれホントなの?」「いやいやコード聞きゃあわかるけど、それは違いますよ」って言ってたんで。
スー:『イムジン河』が発売できなくなって「さあどうする」ってなって石田達郎さんの役員室に加藤和彦が閉じ込められて、その時に作曲したのが『悲しくてやりきれない』なんだけど、『イムジン河』のテープを逆回転で作ったという噂は信憑性が無いってことですね。
たった一年の“フォーククルセダーズ革命”をそばで見ていらっしゃっていてどうでした?
朝:やっぱり僕は彼らにも言ったんだけど、ビートルズってきっとこういう感じだったんだろうなと思ってましたよね。
スー:うーん。
朝:だから、君らはビートルズで僕はジョージ・マーティンだからねって言ってたんだけど。ギターの違いも分かんないジョージ・マーティンじゃあ「えーっ」と彼らは思っただろうと思うんだけれど。
スー:いえいえいえ。
ミ:ホントに(フォーククルセダーズと朝妻さんが)ビートルズと同時代なんだっていう話をスージー鈴木としてるんですけど。
スー:ラジオ番組で「今『帰って来たヨッパライ』聞いてもらいましたと。中にビートルズのフレーズがありますけど、この段階でまだビートルズいますからね!って言って(笑)」
ミ:そうそうそう。このご本の中で出て来る朝妻さんが「このバンド(ビートルズ)の顔と名前を覚えておいた方がいいぞ」と(亀淵昭信に)言われたのが‘63。で’66来日の時にはもう既に詳しくなっていて、っていう。この先見性とその時リアルタイムで’67が『帰って来たヨッパライ』って思うと鳥肌立ちますね。
スー:今その人が同じスタジオにいますからね。同じ空気吸ってますよ。ハハハ。
ミ:ハッハッハッホントそう、そうなんですよ!
スー:この前サディスティックミカバンドのプロモーション音源ていうのをラジオでかけまして、それが高崎一郎と亀淵昭信が喋りまくってるんですよ。今でもお元気でラジオで喋ってらっしゃいますけど。加藤和彦と言えば『あの素晴らしい愛をもう一度』これはパシフィックミュージック案件ですよね。
朝:そうです。
スー:これは重箱の隅の一番隅なんですけど、ご著書読ませていただいてびっくりしたのは私世代なら誰でも知ってるハニー・ナイツ『オー・チン・チン』と『あの素晴らしい愛をもう一度』が関係があるという。BGM♪『オー・チン・チン』
朝:そうなんですよ。僕は『オー・チン・チン』という曲が面白くて、これ小林亜星さんが作られた曲なんですけど。小林亜星さんとこ行って「あの曲面白いんでぜひ著作権下さい」って言って著作権うちで預からしてもらったんですよ。で、そん時に『オー・チン・チン』を歌ってたハニー・ナイツっていうグループを紹介されて、そのハニー・ナイツのリードボーカルだった葵まさひこさんと話したら、葵さんがともかくポップスにすっごい詳しいんですよね。で「葵さんどういう曲が好きですか?」って聞いてたら、結構同じようなセンスなんで、「じゃあ葵さん、ちょっと僕の作るレコードのアレンジして下さいよ」っていろいろお願いしたんですけど。例えばね草間ルミっていう女性で『時計をとめて』っていうジャックスの水橋クンの作った曲で。
スー:あ、ジャックスの『時計をとめて』のカバー?
朝:そう、その曲が僕はジャックスの曲の中で凄い好きだったんで「あ、これちょっとカバー作ろう」と思って。草間ルミでシングル盤作ったんですけど、そん時のアレンジを葵さんに頼んで。葵さんはね、彼に「こういう感じ」って言うとそれが1.5倍~2倍ぐらいにいい感じで出て来るんですよ。特に弦の、僕らはシロタマシロタマって言ってるんだけど。
スー:はい、ロングトーンの。
朝:シロタマのアレンジなんかとっても、それこそ「胸キュン」のを作ってくれるんで。
スー:うーん。前回ハニー・ナイツは『ふりむかないで』をかけまして。
ミ:はい私かけましたね。
スー:あと、転調が大事だと。
朝:そう、だから転調が大事だっつうのは大瀧クンで。大瀧クンがともかく「朝妻さん、ヒット曲の重要なファクターはイントロと転調ですよ」。それでイントロはイージーライダーのテーマの感じを葵さんに言って、で加藤クンにもそういう感じでギター弾いてもらって。じゃあ大瀧クン言ったように転調してかっこよくその後トランペット入れてとか。
スー:あーはいはいはい。あれはトランペット入ってますね。びっくりしたのが今聞いてもレコード盤いい音するんですよ。あれ、ニッポン放送で録ったんですね。アハハ。
朝:ニッポン放送の3階の第1スタジオで。
ミ:凄いなアアア。
朝:ジャックスもニッポン放送の第1スタジオで。
スー:ナイアガラファンが知っているのは、シュガーベイブの初めのデモ音源がニッポン放送でレコーディングした、ってあーそうなのかって。
朝:はいそれも第1スタジオで。
スー:ラジオ局で録ったんや。デモテープぐらいの感覚のスタジオなのかと思ったら『あの素晴らしい愛をもう一度』はニッポン放送だったんですね。
朝:いやあのね。それこそさっきの石田達郎さんが、やっぱり放送局と言えども音楽業界に乗り出そうって事を考えてらしたんだと思うんだけど、ニッポン放送の社員をナッシュビルまで研修に行かせて、ナッシュビルのRCAスタジオなんかを見学させてそのRCAスタジオなんかで持っている機材をそのまんまニッポン放送の第1スタジオに入れたんです。
スー:へえー!  ミ:ハァー。
朝:だから最初4チャンネルかなんかだったけど、音響設備としては普通のレコーディングスタジオに負けないぐらいのクオリティを持ったスタジオができてた。だからそれも石田達郎さんの先見の明の一つなんですよね。
スー:この前あるイベントでレコード盤『あの素晴らしい愛をもう一度』をかけてスピーカーから空気震わせて聞いて、もうあのイントロのスリーフィンガー、いい音でねえ。今聞いても凄いガッツのある音で。ニッポン放送だったんだ。フフフ。
朝:それであん時はドラムがね、ビニールのスツールがあるでしょ?
スー:はいはいはい。
朝:ビニールのカバーしたスツールをスティックで叩いたんですよね。
スー:あー。
朝:トントトン、トントトンっていう。
スー:あーー。そうだ!これもパシフィックか『結婚しようよ』。
朝:そうそう。うんうん。
スー:レコーディングの時に椅子かなんか叩いたって。彼のアイデアにあったかもしれませんね。なるほど~。凄いなあ。

【スタジオに戻る】
スー)凄いインタビューですね(笑)。
ミ)どこから振り返ろうかっていうくらい(笑)。
スー)僕も耳学問で本とかからで、フォーククルセダーズ、加藤和彦とかを毎回知ったかぶりして言ってましたけど。
ミ)そうなんですよ。スージーさん見て来たかのように喋ってますけど、実年齢1歳ですからね。
スー)知らんけど、ですよ。ただ、フォーククルセダーズやはしだのりひこの曲をうちの母親が好きで、なんとなく凄い若者がいるんだなっていうのを子供心に少しだけ空気感をわかってたんですけど、それを生でその場にいた、という人が朝妻一郎先生でございまして。
『イムジン河』から作ったのは『悲しくてやりきれない』という曲なんですけど、加藤和彦が閉じ込められたのはホントだったんだというのも含めて聞いて良かったなと思いますね。
ミ)逆回転は実は違うんだよ、ってことも明らかにしてくれました。
スー)そうですね。応仁の乱から500年後の本当に革命だったという、もちろん日本ポップス界でも指折りの革命だっていう話でもあるんですけど、この話聞いていると、出て来る登場人物がなんつうんだろ、もうみんなデタラメにクリエイティブで、破天荒で。面白いものを作ろうっていう空気があったんでしょうね。
ミ)溢れに溢れてましたし、『帰って来たヨッパライ』って今聞いても仕掛けが凄いと思うんですけど、朝妻さんその時「あ、アメリカで既にやってる」って思って聞いてた。
スー)割とクールにね。
ミ)’56~‘62が朝妻さんのティーンエイジで、そん時に蓄積したものがあっての事なんだろうなと。でも面白い、新しいものを感じる。大御所の先生が作ったんじゃないから権利を取りに行けるぞってなった訳です。2年目のパシフィックで。全てが駆け上がって行くんですよね。あと、この本を読んで石田達郎と言う人の凄さをスージーさんと知りましたね。
スー)ある意味山下より凄いですよ。この達郎は。
ミ)達郎がいたんだ!僕は朝ドラやって欲しいと思いましたね(笑)。
スー)音楽の話だと曲やギターなどを細かく分析する事もあるんですけど、このインタビュー聞いて分かるのは、あ、加藤和彦一人じゃできなかったんだと。時代的な機運ていうか、石田氏がいて朝妻氏がいて亀淵昭信がいて。
ミ)はたちの加藤和彦さんですからね!‘67って。
スー)そうだ!あ~知らんけどやけど、分かって来て嬉しいな。
ミ)登場人物ほとんど20代で、上に立つ石田さんは恐らく30代でいたんでしょう。
スー)一日だけ当時のニッポン放送行ってみたいなあ(笑)。じゃあ、朝の10時から閉じ込められて作った曲でございます。フォーククルセダーズで『悲しくてやりきれない』。
♪フォーククルセダーズ『悲しくてやりきれない』
スー)メール孤独な散歩者さん《朝妻一郎さんを知りませんでしたが、ミラッキさんが銀行員みたいなスーツ姿で会いに行く位だからものすごい偉い人なのは分かりました》
ミ)だからスージーさんがジャケット着てくって言うから。スージーさんパーカー見えてた。
スー)ジャケット着てったじゃないですか。
ミ)パーカーとスーツの間の服、僕持ってないんですよ。
スー)広告マンはあれが正装なんです。ジャケットでパーカー。ジャケパー(笑)
ミ)えー⁈僕ジャケットってのが無いんです。
スー)話戻りますけど『オー・チン・チン』かかりましたよ、自前の。買っといて良かった。水森亜土さんのイラストかな。
ミ)先ほどからお話に出て来る石田達郎さん1918年生まれと言う事でオールナイトニッポン始めた時が49歳と。
スー)ウッフフ。やっぱね。日本全体が若かったっていう話もありますよね。私みたいに50何歳でDJデビューではなくて10代20代が日本を動かしてる、っていうね。
ミ)大瀧詠一さんが「ヒット曲はイントロと転調」とかこれは9の音粋的には嬉しい言葉ですね。転調の月曜とイントロの水曜日と。
スー)イントロの話していたのは藤田太郎クンも喜んでるはずですよ。
ミ)絶対喜んでますよ。
スー)次は秋元クン行きますよ。私も大瀧詠一と加藤和彦越えたらなんか気楽な感じになりました(笑)。→Ep.3へ続く


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