アブラハムの信仰と神の愛


1.アブラハムの信仰

◆創世記22章1~14節
22:1 これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります」と答えた。
22:2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」
22:3 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。
22:4 三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。
22:5 それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る」と言った。
22:6 アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。
22:7 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」
22:8 アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。
22:9 ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。
22:10 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。
22:11 そのとき、【主】の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」
22:12 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」
22:13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。
22:14 そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「【主】の山の上には備えがある」と言い伝えられている。

創世記22章のアブラハムとイサクのストーリーは、聖書全体の中でも理解するのに最も困難なものの一つかもしれません。神はアブラハムに、想像を絶することを求めます。それは、自分の息子イサクを生贄に捧げるという残酷な命令であり、神の愛の本質と矛盾するような要求です。なぜ神はこのようなことを求めるのでしょうか?
 
簡単な答えを見つけることができるとは思いません。たしかに、難解な箇所ですが、このストーリーは、私たちに対する神の圧倒的な愛について教えている個所でもあるのです、

2.預言としてのストーリー
 
このストーリーを、神がアブラハムとイサクを主役として仕組まれたドラマと考えてみると理解の助けになると思います。このストーリーが困難に満ちたイエス・キリストの生涯と十字架の死に至る歩みと驚くほど類似していることが理解できます。
 
①   最愛の息子イサクと神の御子イエス:イサクもイエスも奇跡的に生まれた最愛の息子です。
②   たきぎと十字架:両者とも生け贄を象徴する木(たきぎ、十字架)を運び、従順を示します。
③   父アブラハムと父なる神:アブラハムも父なる神も息子をいけにえに導きます。
④   雄羊と神の小羊:イサクが犠牲の「全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」と質問した時に、アブラハムは、「神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」と答えます。このことは、神が人類の贖いのために小羊、イエス・キリストを用意されたことを示唆しています。
 
3.究極の交換
 
アブラハムとイサクのストーリーは、神ご自身が将来なされる贖いの計画を預言的に示しています。イサクのいのちは助かり、その代わりに雄羊が犠牲となりました。一方で、人類に救いの道を開くために、神はご自身の御子を惜しまれませんでした。イエスは自ら進んで私たちの身代わりとなって十字架にかかり、全人類のための完全な犠牲となられたのです。
 
創世記22章のストーリーは、最初は私たちを尻込みさせるかもしれません。理性的にも道徳的にも受け入れるには困難がともないます。しかし、別な視点から見る時に、この個所でも聖書で一貫して語られている神の無条件の愛、犠牲的な愛に焦点が当てられていることが理解できます。
 
①   アブラハムの信頼: アブラハムは完全には理解していませんでしたが、神のご性質と約束を知っていました。彼は、この理不尽な命令が語られた時も、神を完全に信頼したのです。
②   より大きな目的:イサクは罪を持った私たちを代表していると考えることができます。私たちは神に対する反逆のゆえに死に値する存在です。しかし、イエスはそのような私たちの身代わりとなって死んでくださったのです。ここに登場する羊はイエスを指し示しています。
③   計り知れない愛:アブラハムとイサクのストーリーは、私たちの罪がもたらす恐ろしい代償を示しています。私たちは神との関係を壊し、いのちの源である神から背を向けて「死」を選びました。これは私たちが選択したことであり、神が選択したことではありません。
 
しかし、ここに驚くべき真実が示されています。神は私たちがいつまでも罪によって壊れた状態に留まることを望んでおられません。 神は私たちを深く愛しておられるので、私たちが決して捧げることのできない犠牲(代償)を用意してくださったのです。聖書は、神の御子であるイエスが、私たちのために罰を受けてくださった(代価を支払ってくださった)と教えています。イエスの十字架の死を通して現わされた神の愛には死そのものにさえ打ち勝つ力があるのです。

◆ローマ人への手紙8章37~39節
8:37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
8:38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
8:39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

4.神の愛
 
理性で理解しようとする時に、創世記22章のストーリーは確かに私たちを困惑させます。しかし、このストーリーに込められた預言的(本質的)な意味に目を向けるなら、このストーリーは、私たちの福音に対する理解に光を当ててくれます。のちになって、イエス・キリストの十字架の犠牲の死を通して現わされた神の無条件の愛を暗示しているからです。アブラハムとイサクのストーリーは、すべての人に救いの道が備えられているという驚くべき恵みの知らせ、福音に私たちを近づけるものだからです。
 
神がご自身のひとり子をお与えになったほどに私たちを愛しておられることを少しでも理解するなら、私たちは自分の疑問や迷い、苦しみさえも神に委ねることができるはずなのです。イエスの十字架を通して啓示された神の無条件の愛、犠牲的な愛は、旧約聖書のストーリーの随所で、その伏線が示されています。
 
天の父は、罪の中に失われていた私たちを愛し、私たちを滅びと死の束縛から救い出し、ご自身の子どもとするために最愛の御子を犠牲にしてくださったのです。それが聖書の中心的なメッセージであり、私たちに永遠の希望を約束し、慰めを与えてくれるのです。

◆ヨハネの福音書3章16~17節
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。


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