神の国に生きる幸い

2024年2月11日(日)

◆マタイの福音書5章1~12節
5:1 この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。
5:2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。
5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。
5:5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。
5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。
5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。
5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。
5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。
5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
5:12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。

はじめに
 
マタイの福音書5章から始まる山上の教えの冒頭部分は「至福の教え」あるいは「八福の教え」と呼ばれています。この個所は、神の国(天の御国)に生きる人々の性質について、その人々に約束されている幸福について教えています。主イエスは神の国には、この世界が考える幸福の基準とはまったく異なる幸福の基準があることを強調しています。
 
翻訳によって多少異なりますが、「神の国」というフレーズは新約聖書の10の書巻で68回使われ、「天の御国」というフレーズはマタイの福音書のみで、32回使われています。しかしどちらも同じ「神のご支配」を指しています。聖書は、イエス・キリストがもたらした「神の国」が罪に満ちたこの世界に、今、目に見えない形で存在し、やがて、目に見える形で完成すると教えています。
 
主イエスは、「至福の教え」の最初と最後で「天の御国はその人たちのものだから。」という同じフレーズを二回繰り返し、人間にとっての幸福が、神の国に生きることによってのみ与えられることを強調しています。「至福の教え」の8つのポイントから、神に国に生きる人々の性質と、そこに生きる人々に約束された幸福についていっしょに考えたいと思います。
 
1.心の貧しい者
 
心の貧しい者とは、自分の無力や欠け、罪を自覚して、神を求める人を指しています。「天の御国はその人たちのものだから。」とは、心の貧しい人々に与えられた約束です。自分の無力さを知っている人は、神が備えられた救いに心を開くことが容易です。一方で、自分に満足し、あるいは自分に満足を求めようとする人は、神が備えられた救いに心を開くことが困難です。救いとは単に罪や問題から救われることだけでなく、神の支配の中に継続的に生きることを含んでいます。罪は私たちが神のご支配の中に生きることを妨げる第一の要因です。クリスチャンにとって、自分の無力さ、欠け、罪を認めて、神の国の市民であることを確認し、毎日神のご支配の中に生きることを求めていくことが大切です。
 
2.悲しむ者
 
悲しむ者とは、神の痛みを感じ取り、神とともに自分の罪や家族、社会、国家の罪を悲しみ嘆く人々を指しています。また、自分の痛みや嘆きを遠慮なく、天の父に訴えることも含まれています。聖書には、自分の痛みや嘆きを神に注ぎだして祈っている信仰者たちが多く登場します。神の国に生きるとは、天の父に私たちの悲しみや痛みを包み隠さず注ぎだすことを含んでいます。神の御心にかなった悲しみや痛みは、私たちが自分や他の人々のために祈る力にもなるのです。私たちのうちに住まわれる聖霊を通して、天の父が私たちの悲しみや痛みを共感してくださるように、私たちも天の父の悲しみや痛みを共感することができるのです。天の父と共有する悲しみや痛みの中には、必ずなぐさめがあり、そこにいやしと回復がもたらされると聖書は教えています。
 
3.柔和な者
 
柔和な者とは、良き方である神に信頼して、自分自身を全面的に明け渡す人を指しています。旧約聖書に登場するモーセの姿から「柔和さ」を連想することは難しいと思います。しかし、聖書は「モーセという人は、地の上のだれにもまさって柔和であった。」(民 12:3 )と記しています。ここから、聖書の語る「柔和な者」とは、神に対して柔らかい心を持った人であることが分かります。モーセは自分の能力や判断、経験、そして自分自身を明け渡して、単純に神の呼びかけに応えて歩み始めました。また、モーセは不従順なイスラエルの民のために何度も神の前に立ってとりなしました。聖書は「柔和」と対象的な意味を持つ「かたくな」ということばを繰り返し使っています。「かたくなさ」は神に反抗する人間の頑固な性質を表す時に使われています。イスラエルの民はそのかたくなさのゆえに、40年の間荒野を放浪することになりました。クリスチャンが神様の約束の中に生きるためには、自分自身のかたくなさを捨てて、日々、神の導きに従ってそのご支配の中に生きていく必要があります。私たちがそうする時に、ほんとうの意味で約束の地を受け継ぐことができるのです。約束の地は将来私たちが受け継ぐ神の国を指していると同時に、私たちの日々の生活、私たちの思い、ことば、関係を含んでいます。
 
4.義に飢え渇く者 
 
義に飢え渇く者とは、他の何よりも、心から神の義を求める人を指しています。神の義とは、神だけがただお一人、過ちがなく正しい方であり、神だけが正義を行うことができることを意味します。神の義を求めることは、義なる方である神との親密な関係を求めることであり、イエス・キリストを通してのみ与えられる関係です。イエス・キリストは私たちのために身代わりとなって死んでくださり、私たちの罪の代価を支払ってくださいました。キリストはご自身の罪のない血を流すことによって、私たちを買い戻してくださったのです。私たちはキリストの犠牲の死を通して、神に国に生きる者とされており、それは自分の正しさを主張する生き方から解放されたことを意味します。私たちは神の正しさと自分の正しさの両方を主張することはできません。神の義を飢え渇くように求めることは、自分の正しさを放棄することも含んでいるのです。
 

まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。(マタイ6:33)

5.あわれみ深い者 
 
あわれみ深い者とは、あわれみ深い大祭司である主イエスの心に共感する人を指しています。主イエスがしもべの姿を取って、この地上に来られたのも、この地上で罪人の友となられたのも、そして自ら進んで十字架にかかられたのも、天の父の心を知っておられたからでした。主イエスは、罪の中に失われたすべての人に対する天の父の愛を受け取って、この地上に来られたのです。主イエスは、ただ一人、天の父の愛を完全に現わすことのできたお方です。天の父は、御子を通してご自身の愛を現わされたように、私たちを通してこの世界にご自身の愛を現わしたいと願っておられます。私たちの愛は小さく、周囲の人々の必要を見過ごしてしまうことがあります。しかし、そのような私たちであっても、助け主である聖霊は、私たちの心と、天の父の心とつなげてくださり、私たちを通して天の父の愛を現わしてくださるのです。神の愛に突き動かされて、私たちが周囲の人々のためにとりなし、赦し、仕え始める時に、私たちは神のあわれみを少しずつ経験するようになります。その歩みの中で、聖霊が私たちを御子の姿に似た者に造り変えてくださると聖書は教えています。
 

したがって、神に関わる事柄について、あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、イエスはすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それで民の罪の宥めがなされたのです。(ヘブル2:17)

6.心のきよい者 
 
心のきよい者とは、裏表のない誠実なこころで神を愛する人を指しています。誠実であることは、道徳的に完全であることを意味するわけではありません。むしろ、告白すべき自分の弱さや失敗があるならばそれを認め、神に立ち返り、罪から離れ、日々、天の父との親密で正直な関係の中に生きることを意味します。聖書が教えるきよさとは、神が選び取った物や人、あるいは共同体の全体がそっくりささげられていることを意味します。聖書は、神と神の民の関係を、夫と妻が一体とされ、独占的な愛の契約で結ばれた結婚に例えています。夫と妻、二人の関係に第三者が入り込む余地はありません。神はキリストの犠牲の死を通して、私たちをご自身との、このような独占的な愛の契約の中に招き入れてくださいました。私たちはもはや私たち自身の者ではないのです。私たちが、日々の生活の中で、天の父との親密な関係を求めて生きていくときに、天の父は、ご自身がどのような方であるか、私たちが理解できるような方法で教えてくださるのです。私たちは、今はぼんやりとした形でしか神を見る(知る)ことができませんが、やがて私たちの救い主の姿をはっきりと見る時がくると聖書は約束しています。
 

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。の世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。(ローマ12:1~2)

7.平和をつくる者 
 
平和をつくる者とは、神との和解の中に生きる人、他の人々を神との和解の中に招き入れる人を指しています。聖書の教える平和は、単に争いのない状態を指しているわけではありません。聖書の教える平和(ギリシャ語のエイレーネー)とは、ヘブル語のシャロームに由来し、人間と被造物が、創造主である神との関係の中で、すべてに満ち足りた神の願われる状態に置かれていることを意味します。もちろん、このような状態が実現するのは、神の国が完成する将来のことですが、聖書は神の子どもとされた私たちがすでに神の国に生かされており、その前味を味わっていると教えています。イエス・キリストを通して、神の和解の中に招き入れられた私たちは、周囲の人々を神との和解に招き入れる務めを負っています。私たちが神と和解することは、自分自身と和解し、周囲の人々と和解することを含んでいます。神との和解の中に生きる時に、私たちは神の平和(シャローム)を経験するようになり、神の子どもにふさわしい歩みをするようになるのです。
 

これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。
すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。
そういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(Ⅱコリント5:18~21)

8.義のために迫害されている者 
 
義のために迫害されている者とは、神のために苦しみを受けることをいとわない人を指しています。ある宣教師が、激しい迫害の中に置かれた海外の教会を訪ね、一人のクリスチャンに、「このような苦難の中で多くの犠牲を払い、それでもあなたたちが信仰を失わずにキリストに従っているのは、なぜですか?」と尋ねました。その質問に対して、彼は即座に「私たちの信じている主が真実な方だからです。」と答えたそうです。イエス・キリストが真実な方であるとは、十字架の犠牲の死と復活が真実であり、その変わらない愛が真実であり、そのすべての約束が真実であることを意味します。イエス・キリストは聖霊を通して、いつも、そして最後まで、私たちとともに生きてくださる方なのです。
 

イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(マタイ28:18~20) 

むすび
 
私たちの心に蒔かれた神の国の種は最初は小さく頼りなく見えたかもしれません。しかし、時がたつにつれて成長し、私たちは今そこに住んでいます。私たちの心に神の国があり、私たちの夫婦関係に神の国があり、私たちの家庭に神の国があり、どこであっても神の家族が集まるところに神の国があるのです。私たちはいまだに自分の心の貧しさを感じ、自分の欠けや失敗で悲しみを覚えることがあると思います。しかし、私たちの経験するさまざまな痛みが私たちと天の父とをつなぐ助けとなるのであれば、それは良いものなのです。神のみこころに沿った痛みや悲しみは私たちを、柔和な者、義に飢え渇く者、あわれみ深い者、心のきよい者、平和をつくる者、義のために迫害される者へと成長させるからです。この神の国にはいのちがあり、私たちの思いを超えて大きく成長し、多くの人々の祝福となる可能性が宿っているのです。

イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。(マタイ13:31~32)


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