聖餐式の意味

※下の子ども用のサイトも参照ください。
★聖餐式ってなに? 
https://kids.gracehouse.jp/communion/

聖餐式の意味

◆コリント人への手紙第一11章23~28節
11:23 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、
11:24 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」
11:25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」
11:26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。
11:27 したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。
11:28 ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。
11:29 みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。

主の晩餐を(聖餐式)の深い意味を理解するならば、私たちの魂に感動をもたらす経験となるはずです。イエスは、ご自分の死の前夜に過越の祭りを祝う中で、私たちが今日まで守っている重要な新しい交わりの食事を制定されました。この食事はクリスチャンの礼拝に欠かせないものです。私たちは主の死と復活を思い起こし、未来における主の栄光の再臨を待ち望むのです。

過越の祭りは、ユダヤ人にとって一年の中で最も神聖な祭りでした。エジプトにもたらされた最後の災いを通して現わされた救いを象徴するものです。神のさばきがもたらされた時に、エジプト人の初子は死にましたが、門柱に振りかけられた小羊の血によって、イスラエル人は救われたのです。焼かれた小羊の肉が、種を入れないパンとともに食べられました。神は、後の代までこの祭りを祝うように命じられたのです。この出来事は出エジプト記12章に記されています。

最後の晩餐(過越の祭り)のとき、イエスはパンを取り、神に感謝をささげて、こう言われました。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。・・・この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」(ルカ22:19-21、マタイ26:30)。イエスと弟子たちは、晩餐の終わりに賛美歌を歌い、夜のうちにオリーブ山へ出かけました。そこで預言通り、イエスはユダに裏切られ、その翌日、十字架につけられたのです。

主の晩餐に関する記述は福音書に記されています(マタイ26:26-29、マルコ14:17-25、ルカ22:7-22、ヨハネ13:21-30)。使徒パウロは、Ⅰコリント11:23-29で主の晩餐について書いていますが、そこには福音書にはない記述が含まれています。 「したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。」(1コリント11:27-29)。パンと杯を 「ふさわしくないままで 」あずかるとはどういうことでしょうか。それは、パンと杯の真の意味を無視し、救い主が私たちの救いのために支払われた尊い代価を忘れることを意味するかもしれません。あるいは、聖餐式が死んだような形式的なものになってしまったり、罪を告白しないまま主の晩餐に臨んだりすることであるかもしれません。パウロの教えに従って、私たちはパンを食べ、杯を飲む前に自分自身を吟味すべきなのです。

福音書の記述に含まれていないパウロのもう一つの宣言が書かれています。「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」(1コリント11:26)。これは、主の再臨までという期限を聖餐式に設けているのです。これらの短い記述から、私たちは、イエスがご自分のからだや血の象徴として、これら人間の最ももろい二つの要素をどのように用い、ご自分の死の記念碑として確立されたかを知ることができます。それは大理石や真鍮の記念碑ではなく、パンとぶどう酒の記念碑だったのです。

イエスはパンが砕かれるご自身のからだの象徴であると宣言されたのです。主のからだは、骨が一本も折れていませんでしたが、ほとんど見分けがつかないほどひどく痛めつけられていました(詩篇22:12-17、イザヤ53:4-7)。ぶどう酒は主がながされた血を表し、主が間もなく経験される恐ろしい死を示していました。完全なる(罪のない)神の御子は、贖い主に関する数多くの旧約聖書の預言(創世記3:15、詩篇22篇、イザヤ53章)を成就する者となられました。「わたしを覚えて、これを行いなさい。」と言われたのは、この聖餐式が将来も続けられなければならないものであることを示されたのです。それはまた、小羊の死を必要とし、世の罪を取り除く神の小羊の到来を待ち望んで行われていた過越の祭りが、主の晩餐において成就したことを示しています。過越の小羊(Ⅰコリント5:7)であるキリストが犠牲となった時、新しい契約が古い契約に取って代わりました(ヘブル8:8-13)。生け贄制度はもはや必要なくなったのです(ヘブル9:25-28)。主の晩餐(聖餐式)は、キリストが私たちのためになさってくださったことを思い起こし、キリストの犠牲の結果として私たちが受けた恵みを祝うものなのです。

※以上は、以下の記事を翻訳し補足を加えたものです。https://www.gotquestions.org/communion-Christian.html

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