その土台とはイエス・キリストです。
主題聖句
私たちは、毎日、立ち止まって、自分の願い、思い、考え方、生活や生き方、身近な関係を見直してみる必要があると思います。聖書は、私たち自身が神の家(神殿)であり、その家が据えられるべき土台がイエス・キリストであると教えています。私たちはどこに立って生きているでしょう。どのような土台の上に、自分の人生、家庭、関係、仕事を築こうとしているでしょうか?聖書は、イエス・キリスト以外の土台が、実に不安定で不確かなものであり、洪水や地震(大きな変化や困難)が起こった時に、あっけなく崩れてしまうものだと警告しています。
イエス・キリストを土台とした生き方とはどんな生き方なのか、4つのポイントをあげて、いっしょに考えてみたいと思います。私たちは、イエス・キリストを通して、聖霊の助けにより、神の子どもとして、天の父との親しい関係の中に生きる特権が与えられています。そこに人生の土台を理解するヒントがあります。
1.天の父を知る
イエスは常に天の父と心を一つにし親しい関係の中に歩まれました。そして、その同じ天の父との関係の中に生きるようにと、すべての弟子たちを招いておられます。祈りとは天の父との対話です。天の父はいつも私たちに関心を向けておられます。私たちの祈りに耳を傾け、応え、ご自身がどのような方かを私たちに教えたいと願っておられるのです。私たちがイエスの御名によって祈る時に、聖霊は私たちの祈りを助けてくださいます。
2.天の父の目を通して自分を見る
天の父はイエスに向かって「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」(ルカ3章22節)と語りかけられました。イエスは天の父のことばを受け止め、地上での生涯を常に天の父の愛の中にとどまって歩まれました。私たちは未完成で欠けの多い者ですが、イエスにつながれている私たちに、天の父は同じように「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」と、語りかけてくださるのです。
3.天の父の目を通して周囲の人々を見る
イエスは、父がご自分を遣わされたこと、また、ご自分が失われた人を探して救うために来られことを証しされました。イエスは常に天の父の眼差しを通して、周囲の人々をご覧になっていました。人々が、罪や病の中で苦しんでいる姿を見て、こころから憐み(マタイ9章36節)、ご自身のもとに安息を得るようにと招かれました。(マタイ11章28節)私たちが、天の父との親しい交わりに生きることを学ぶなら、私たちは自分だけでなく、周囲の人々をも天の父の目を通して見ることができるようになるのです。
4.与えられたものを分かち合う
イエスが十字架にかかられた尊い目的の一つは、ご自分のもとに来るすべての人々にご復活(永遠)のいのちを分け与えるためです。イエスは、私たちが罪の束縛から自由にされるために、私たちの罪を負って裁かれ、私たちが神の子どもとされ祝福の中に生きるために、呪われた者となり、私たちが癒されるために、病を負ってくださったのです。物質的な恵みも、霊的な恵みも、すべては天の父が私たち一人ひとりに与えてくださったものです。聖書は、神の子どもとされた私たちを、父がどのような境遇の中でも、満ち足りた者としてくださると約束しています。しかし、これは私たちのわがままな願いを神様がなんでも実現してくださるということを意味してはいません。
天の父は、愛するひとり子を犠牲にして、私たちに与えてくださった恵みを、私たちが他の人々と豊かに分かち合うことを願っておられます。神の家族の交わり(コイノニア)の本質はイエス・キリストのいのちを分かち合うことです。また、宣教の本質は、罪の中に失われた人々にイエス・キリストにある豊かないのちを伝えることです。
上にあげた4つのポイントは、信仰の土台となる大切な真理です。単純な真理ですが、忙しい私たちにとって、毎日、天の父との対話を続けて行くことはチャレンジかもしれません。また、天の父の眼差しを通して自分自身も見続け、周囲の人々を見続けること、天の父が語りかけられるように語り続けることは、私たちの感情に反することかもしれません。しかし、それを続けて行く時に、ゆっくりであっても必ず変化が訪れるのです。この変化は、まず、私たちの心の中に始まり、私たちの身近な関係へと広がって行きます。私たちは私たちの生活の中に、小さな神の国が広がって行くのを経験するようになるのです。
参照聖句
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