星の子
わたしの名前は " Qui Queue " 。
" canon " という従姉妹と旅をしながら、住処を探している。
わたしの記憶は、女神様から始まる。
ある晴れた日のことだ。
いつも遊んでいた湖をふと覗き込むと、それは綺麗な女神様が突如現れてこう言った。
「あなたは、星の子よ。」
わたしたちの故郷には、いつも星が降っていた。
そこでは毎晩夜になると、大小さまざまな星々があちこちに降り注ぐ。
翌朝灰色のただのカケラになったそれらを拾い集めるのは、わたしたちの仕事だった。
その村には、星護りと呼ばれる人々が住んでおり、古代からの秘密を守り伝えている血族だったと知ったのは最近だ。
空にある星を読むだけでなく、落ちてきた星を扱う特殊な一族で、その性質から夜が濃い場所に住む慣わしがあった。
そう、山深いそのあたりの夜は一段と濃いのだった。
村長だった父とわたしの血は繋がっていない。
赤ん坊だったわたしはその村の近くで拾われたらしいのだけれども、「捨てられていたわけではないよ」と父は言った。
なぜかというと、険しい山奥に入ってくるものなど一族の者以外に誰もいなかったからだ。余所者など入ってこられるはずもないその場所に、ある日突然君が「現れた」のにはびっくりしたよ、と笑っていた。
そんな風に「現れた」わたしには、少し問題があった。
笑ったり泣いたりという表情がなく、声も出せなかったのだ。
何をしても無表情で無反応のわたしを、父はよく受け入れたものだ。
女神様に話しかけられた日は、そんなわたしが初めて声を出してぎゃんぎゃん泣いた日だった。
「星の子」
意味は全くわからなかったけれど、その言葉は未来とか宇宙とかそういう途方もなく大きな何かに対して感じるような恐れを含んでいた。
優しく微笑む女神様に畏怖の念というものを初めて感じたわたしは気づくとわんわん泣いていた。
一緒にいた canonがわたしを連れ帰り、経緯を話すと父は顔色を変え、言った。
「やはり、そうだったんだな。」
諦めたように表情が曇り、けれどすぐに一転し、瞳が輝いた。
そのころ、村は廃れかけていた。
村の人間はもう中年を過ぎた者ばかりで、子どもは少なく、増える見込みがなかった。
「夜が薄まっている」
「星が減っている」
「もう、降りて来ないんじゃないか」
村人達が不安をひとつ口にするたびに、村はひとつ歳をとるようだった。
老いが忍び寄り焦りと不安が支配していく、それはひとつの時代の終わりを暗示していた。
後からわかったことだけれど、外から現れたわたしが ” 星の子 ” だという事実は、村の役割が終わり新しい時代がくることを意味していた。
すべてわかっていた父は時間を惜しむようにわたしに必要なものを与えてくれた。
わたしは女王蜂のように飛び立ち、新しい星の護り手たちの村を作らなくてはいけない。
そのことがなんとなくわかっていた。
そのどうしようもない運命をよそに、「わたしの存在が村を終わりに導いた」という思いに何度もとらえられそうになった。
身体中が震えて、わたしはわたしから逃げ出しそうになる。
そんなわたしを地上に繋ぎ止めてくれたのはcanonだった。
わたしは、村の人たちに大層可愛がられた。
星の子であることを誰かに言ったわけではないけれど、ほとんどのひとは知っていたと思う。
けれど、わたしはただのこどもとして大人に見守られ、優しい時間を過ごした。
叶わないと知りながら、わたしはいつまでも村にいることを願った。
結局、わたしはその村の最後の子どもになった。
そしていよいよ、というところまで来たとき、村長である父はわたしを洞窟に連れて行った。
そこは星たちが眠る場所で ” 星の棺 ” と呼ばれていた。
父の祖先が受け継いできたたくさんの星が気象や歴史などの記録とひとの記憶や思いとともに保管されていた。
わたしは、この場所を以前から知っていた気がした。
そしてこの場所が閉ざされる日のことを思った。
それぞれの星について熱心に説明していた父は、ふとわたしを振り返って言った。
「いや、お前は全部知っているんだからもういいだろう。」
父の深い叡智をたたえる瞳がわたしをまっすぐに見ていた。
父とわたしは血こそ繋がっていなかったけれど、誰よりも近い存在だった。
奥の方に歩いて行った父が、埃だらけの箱を持ってわたしの目の前に差し出す。箱の中には、煌めく七色の星が並んでいた。
選べ、そう言われ、わたしが選んだのは深い緑に輝く星だった。
「やはりそれを選ぶんだな。」
そう言った父の瞳がいつにも増して優しかったことは今も忘れない。
最後の祭りが始まった。
祭壇に火が灯る。
火を囲み、酒をくらう。
普段は穏やかな村人たちが、男も女も歌い踊り狂い、夜を明かす。
その日は、祝福のように星が降り注ぐ夜になった。
絶えて久しい出来事に、みんな子どものように降る星々を拾い集めた。
それはかつての誰かの星だったり、これから生まれてくる誰かの星であったり、別の星に住まう誰かのあるいはひとではない存在の星であったりした。
狂騒を抜けて、わたしは湖へと歩いた。
時間を止めたかったけれど、どうしようもないことはわかっていた。
岩の上に身にまとっていた衣類を置き、湖へと入った。
水は冷たかったけれど、入ると身体になじみ寒くはなかった。
あの女神様に会って何かを言いたい衝動にかられる。
けれど、それが何かはわからないまま、湖の中心へと泳ぐ。
真ん中にプカリと顔を出して浮かぶと、降る星々が身体中に刺さるようだ。
目を閉じる。
もう、星を見たくなかった。
星なんて、思っては打ち消してきたその言葉が口をついて出た。
星があるから、星の子だから、わたしはここを奪われる。
やっと、辿りついた場所。
目を瞑っていても、それはわかった。
光が集まってきていた。
強い光の束で形作られて現れたのは、あの女神様だった。
「苦しいのね。」
そうふわりと微笑む女神様が小憎らしい。
人間のような小さな存在の思いなんてきっとわからないのだろう。
こんなにも胸が痛いのに。
そんなわたしを女神様は素知らぬふりだ。
あなたは、地球と星のちょうど真ん中を歩くのよ。
だから星たちにとっても、地球の存在にとっても、希望なの。
ゆっくりと紡がれる言葉は、抵抗しているわたしを溶かし、否応なしに染み渡っていく。
小さなあなたの中に、星たちのすべてが在るの。
過去も未来も宇宙も。
星の魂が地球の身体に宿った、それは奇跡なのよ。
光は果てしなく降り注ぎ、抗う意味はないことを思い知る。
「 Qui Queue!」
目を開けると、canonがいた。
「 Qui Queue、わたしいつまでも一緒にいるからね。
つらいことがあっても、きっとふたりならだいじょうぶだよ。」
そういってわたしを抱きしめるcanonは温かかった。
ふたりで村に帰ると、祭りはまだ続いていた。
燃え盛る炎が村人たちの顔をオレンジ色に染めていた。
目の前のすべてがなおさらに愛おしかった。
それは星の記憶ではなく、わたしの、わたし自身の記憶だった。
朝になると、村の外れに住んでいたおばぁが亡くなっていた。
小さなわたしを見つけたひとだ。
誰も気づかないままひとりいってしまったおばぁの顔は安らかだった。
後悔とか罪悪感とかを受けつける隙もなく、誰もが言葉をうしない、悲しんでいいのかすらもよくわからない。
それくらい、完結した死だった。
知らせを受けた父は、「おばぁはみなの罪を引き受けたんだ」とつぶやき、このことは誰にも言うなと言った。
終わりはすぐそこに迫ってきていた。
とうとう、わたしとcanonが村を離れる日がやってきた。
別れはとうにすませており、見送りはなかった。
まだ夜が少し残っているあかときに、わたしとcanonはひっそりと村を後にした。
ひとつ山を越えたころ、背後で爆音が鳴り響いた。
けれど、それはわたしにしか聞こえないらしかった。
立ち止まり振り返ったわたしを、canonが不思議そうに見ている。
村の上空あたりが赤く燃えていた。
突き上げる炎が天に舞い上がり空一面を赤く染め上げる。
炎の柱の先には、光が珠となり少しずつ大きくなっていく。
「すべてをあなたに。」
その声が響くと、光の珠は弾け飛び、あたり一面に星がばら撒かれた。
最後に残った珠は光の矢に姿を変え、わたしの胸を貫いた。
ドクン。
粒子に変わった光が、わたしの身体を駆け巡り、真ん中に火を灯す。
そのとき、やっと腑に落ちた気がした。
自分が星の子だということ。
なぜ地球にいるのかということ。
居心地のよかった村を奪われた理由。
そのすべてだ。
そのときから、わたしは星のすべてを背負っている。
星の棺で見たすべてに通ずるアクセスキーはわたしの中に継承された。
それは熱く、重く、硬いけれど、足取りは軽い。
わたしはいつの間にかワクワクしていた。
そう、ずっと好きでたまらなかった。
やっぱり、わたしはどうしようもなく星が、地球が好きなのだ。
それにより定められた運命がわたしから何かを奪っていくとしても。
あの村は閉じられた。もう、戻れないのだ。
「Qui Queue?…あ、やっと戻ってきた」
目の前のcanonがわたしを見ていた。
また、飛んでしまっていたらしい。
canonのことも思い出した。
飛んで行ってしまうわたしを地球に戻してくれる。
いつも隣にいるわたしの大事なanchor。
「ねぇ、何があったの?」
と問うcanonにうまく説明ができない代わりに、言った。
「ううん、なんでもない。いつもそばにいてくれてありがとう。」
不意をつかれたようなcanonがくつくつと隣で笑い出す。
「なに?その技。喋れなかったはずなのにそんな言い回しいつ身につけたの?」
いつもここに在る。
なくならないものもあるのだと思えた。
次の日からは、星を追う毎日だった。
父から譲り受けた緑の星が指し示す場所に向かうことが多かった。
canonは父から黄色の星を譲り受けていて、それはわたしたちを必要なものやひとに巡り合わせてくれた。
すぎていく日々を真っ当に生きていくことだけでも、村での暮らししか知らないわたしたちには大変なことで、必死だった。
ただ生きるのではなく、わたしたちはその使命から、星を追い、読む。
けれど、それは簡単ではなかった。
街の現実は村より数十倍複雑にできている。
目の前の現実に含まれる要素はあまりにも多く、わたしにはカオスにしか見えなかった。
現実そのものを読み解くには、星の知識だけではなく、そのカオスを分解し、要素ひとつひとつを読み解いて数字に代えて、法則性を見出していく必要がある。
現実は様々な要素が複雑に絡み合って構成されているのだ。
それを読み解くためのスキルが、わたしたちには圧倒的に不足していた。
村との一番大きな違いはひとだったように思う。
要素の一つである ” ひと ” という存在は、村という小さな社会で穏やかなひとに囲まれて生きてきたわたしたちには理解できない部分が多かった。
街にはいろいろなひとがいた。
そのエネルギーのありようはわたしたちの想像をはるかに超えていた。
ひとが行き交い、生まれる感情は時に思いも寄らない現実を連れてくる。
それぞれの生まれ持った運命や才能、延々と受け継がれる血脈や、生きていく上で生じた葛藤、身体的な特徴や欠損、移ろいゆく感情それらが渦となってエネルギーの形をなしている。
そんな厄介な要素が、” ひと ” だった。
わたしたちは、そういったひとに傷つけられ、時に傷つけ、翻弄されながら、日々学ぶ必要があった。
そう、どこでもわたしらしく生きることは、星とともにあることだった。
そのカオスを読み解くためのキーはcanonにあることがわかったのは、自分たちについて考えていたときだった。
ほぼ同じように育ってきたcanonとわたしとの大きな違い、それは血脈なのかもしれないと思ったのだ。
わたしとは違い、canonは純粋な星護りの血を受け継いでいる。
つまり、canonを座標の0に置けばいいのではないか、と仮説を立てた。
その仮説はあっているようだった。
現実に含まれるノイズを弾き、行き交うエネルギーと変わり続ける座標といった道筋に必要な情報だけを切り出せるようになった。
混沌に満ちているように見える世界は、星を通して見れば秩序だっている。
何もかもに規則性があり、そのひとつひとつが複雑に繊細に絡み合い、美しい現実を織りなしている。
終わりは始まりで、死と生は対になっている。
そう自分の心で感じられたとき、わたしはやっと赦された気がした。
振り向かないでもいい、そう思えた。
星を持つわたしはすべてを知っている。
けれど、体験を経て感情を味わわない限り、その知識は地上に落ちたただの石のまま、星として光り輝くことはできない。
わたしは自分の中身を一度咀嚼して自分のものとする必要があるのだ。
目の前の現実は、星とは無関係に動いているように見える。
けれど星と現実を突き合わせて丁寧に読みこむことを繰り返し、流れが見えるようになり、目の前の現実の規則がわかるようになっていった。
村で暮らす、そんな安穏としたしあわせに焦がれていた。
けれど、真実はわたしを捉えて離さない。
生きる道はそこにある。
今日も地球のどこかで誰かが誰かと笑い、泣き、怒り、命を燃やしている。
わたしはその全部を紡いでいく。
星と地球を紡いでいく。
旅の生活が常に順調だったわけではないけれど、誰かに応援されていることにいつしか気づいた。
父が持たせてくれたコインが底をつくのに大した時間はかからなかった。
星読みで食いつなごうにも依頼は安定しない。
わたしとcanonはいつもお腹が減っていた。
「canonのお母さんが作ったホワイトシチューが食べたい。」
「わたしは、おばぁが作ったきのこのスープがいい。」
毎晩そんな話ばかりで、村が恋しくて仕方なかった。
そうしたら、ある日依頼人のひとがホワイトシチューを作って依頼に来た。
その光景のあまりの唐突さに、canonと顔を見合わせて思わず笑う。
数日後、きのこのスープを飲ませてくれたのは、荷物を持ってあげたおばあちゃんだった。
「ほらほら、入って。スープを飲んでおいきよ。」
目の前に出てきたきのこのスープに、canonはもう大爆笑だった。
それでもまだ偶然かと思っていた。
けれど、その類の小さな偶然は続いた。
「このコップもらってくれない?」
そうおばさんに声をかけられたときは、本当に驚いた。
定住する場所が決まったばかりで、食器を揃えようかと話したのはその前日で、こんなコップが欲しいなとcanonが書いた絵にそっくりだった。
「つながってるよね。」
canonがポロリと口にしたとき、「そういうことだ」と思った。
わたしたちの旅は誰かに応援されている。
必要なものは、必ずわたしたちのところにやってきた。
ものも、ひとも、必要であれば必ず目の前に用意される。
わたしたちはそのことを信じて疑わなくなった。
思えば、村でも同じようなことはよくあった。
けれど村を出て慌ただしい日々を送っている中で、わたしたちはそのことを忘れてしまっていた。
どこにいても、同じなんだ。
このときから、そう思うようになった。
それから5年が経って、わたしたちは焦っていた。
次の星がどうしてもみつからない。
何か見落としているのか。
地球が星がひとがざわめいていることはわかる。
でも、意味を理解することがどうしてもできない。
経験したことのない何かが近づいている。
リセット。
その言葉が降りてきた。
原点に戻れ、と誰かが囁いている。
「canon、村に戻ろう。」
わたしはもう決めていた。
気が急く。
早く戻らなくては。
すぐに荷造りをしたわたしたちは、お世話になったひとたちに別れを告げた。別れに慣れることはなかった。
別れはマイナスな出来事ではないことも知っていたし、新しい出会いを連れてくることも知っていたけれど、それでも人間のわたしはさみしい。
けれど、どこかで警報が鳴り響いているのだった。
「何かがやってくる」
街に背を向けて、歩き出した。
振り返ると、さっきまで色鮮やかに見えていたはずのその街はもう灰色で、今にも崩れ落ちそうに見えた。
喧騒は遠ざかり、それはもうすでに懐かしい。
村にはたどり着けなかった。
あたりには痕跡すらなく、わたしたちは呆気にとられた。
そこはただの広場で、木材や食器のひとつもなく、数年前までひとが暮らしていたようには見えなかった。
言葉を失くしたcanonと一緒に湖へと歩く。
わたしもショックは受けていたけれど、わかっていたような気がした。
綺麗な星になっていたらいい、そう思った。
湖は何も変わっていなかった。
水は透き通り、水面はキラキラと輝いている。
「 Qui Queue、入ろう!」
canonはすでにもう服を脱ぎ出している。
水は冷たく、心地よかった。
身体から流れ出ていく感じがした。
わたし、疲れてた。
急に自覚する。
いつの間にか身体の中に溜まっていた澱のようなものがスルスルと水に溶けていく。
それはいつまでも続いた。
隣で、canonが言った。
「ずっと、ふたりでいられるよね。」
うん、と返すと、canonがほっとしたように笑った。
たぶん、わたしたちは同じことを考えている。
わたしたちは、取り残された。
心もとなさに襲われる。
この5年、わたしは星のことばかり考えていた。
日々の生活のすべてを担ってくれていたのは、canonだった。
星読みはできるけれど、その依頼を持ってきたのはcanonだった。
一旦考えだすと、わたしには昼夜すらなくなってしまう。
ふとお腹がなると、目の前にごはんを用意してくれるcanonがいた。
わたしは自分が人間であることを思い出せる。
canonは ” 0 ” だからだ。
湖から上がると、もう夕方だった。
村がもう存在しない今、寝床を確保する必要がある。
思い当たるといえば、あの洞窟しかなかった。
あれだけは残っていると確信していた。
星の棺は、あのときのままだった。
誰も入れないように入口の扉はカモフラージュされていたけれど、わたしにはわかった。
扉には特殊な封印がされていたけれど、それは手をかざすと解けた。
扉を開け空気を入れ替え、光採りの小さな穴にかかっていた布をとる。
かすかに西日が入り、内部を照らした。
おそらく父が用意してくれたであろう寝袋や乾物、ロウソク、鍋、火種などの装備が揃えてあった。
父には、わたしがここに帰ってくることがわかっていたのだ。
父はわたしを思ってくれていた。
不意に目頭が熱くなり、涙が出そうになったけれど、泣いてはいけないような気がしてこらえる。
寝袋に入り横たわると、隣のcanonはすぐに寝息を立て始めた。
いつも通り規則的に続く寝息に身体が緩んでいくのがわかった。
わたしの場所はここにある、そう思えた。
光採りの小さな穴から、星が見える。
星が近い。
閉まった村だけれど、それでも街より夜が濃いのだ。
わたしの胸から伸びていった細い細い糸が空にながっていく。
朝起きると、違和感があった。
身体の上に何かが乗っていて、重い。
大きな何かが、わたしとcanonの上に横たわっている。
手で近くのそれをつかむ。
それは、人間の足だった。
「…?わぁっ!!!」
寝ぼけていた頭がフル回転を始めた。
わたしの声で目を覚ましたcanonと顔を見合わせる。
わたしたちの上にのっているのは、男の子だった。
5才くらいだろうか。
肌は浅黒く、短く切られた髪は漆黒に近い。
生成りの半袖Tシャツ、褪せた黒色のズボンを穿いている。
濃くて長いまつげに目がいく。
男の子は熟睡しているようで、その体はぐったりと重い。
そう、彼はこんな風に「現れた」。
「どうする?」
canonが小さな声で問いかけてくる。
どうするもなにも。
とりあえず、彼が起きるのを待つことにした。
彼はわたしたちが起きて身体にのっている彼の足やをら腕やらを下ろしてもピクリとも動かない。疲れているようだった。
canonとふたり、朝食の準備を始める。
外に出て、火を起こしはじめる。
薄暗かった空が白けてきていた。
canonと焚き火を囲む。
ぱちぱちと爆ぜる火の音が、村の祭りの記憶を呼び起こした。
けだるい身体は、わたしがどうしても受け入れたくない何かへの抵抗感と連動しているようだ。
いつもそうだ。
現実と同じ速度で、気持ちは動けない。
火にかけた鍋の中で、スープがぶくぶくと音をたてている。
ぐうと腹の音がなる。
昨日の昼からなにも食べていないから、当然だった。
canonも少し顔色が悪く、疲れているようだった。
そのまま1時間くらい、火を見つめていた。
そろそろ見に行こうか、とcanonが重い腰をあげたとき、扉が開いた。
彼が起きたようだった。
こちらへと歩いてくる。
ぶわぁっと何かがわたしの背中を駆け上がる。
男の子の後ろに霧のような光のようなうっすらとした何かが見える。
ぐゎん、と空間が歪んだような気がしたけれど、気のせいだろうか。
異世界が歩いてくる。
なぜか、そう思った。
恐れがこみ上げてくる、けれど身体のどこかがギュンと惹きつけられる。
そして、思った。
懐かしい。
全身が心臓のように波打っていた。
canonが彼に話しかける。
けれど、彼は声を失っているようだった。
「ねぇ、 Qui Queueみたい。」
canonが笑う。
そこは笑ってはいけないのでは、と思ったのだけれど、canonが笑ってくれてどこかホッとしていた。
その子は喋らなかったけれど、笑えるところがわたしとは違っていた。
ふぅふぅと口を窄め冷ましながら、少しずつスープをすする様は子どもらしくかわいかった。
先ほどわたしが感じた懐かしさが彼のどこにあるのか、よくわからなかった。そして、恐れも。
ただ、彼はわたしたちとセットだった。
それから数ヶ月、わたしたちはそこで過ごした。
夜に近い朝から起き出し、森から採取したものを食べ、3人でくっついて丸くなって寝た。
星たちは何も語ろうとせず、わたしたちはやはり取り残されたようだった。
それでも、毎日は静かに静かに過ぎていった。
彼は、喋れないのではなく、喋らないのではないか。
そう思ったのは、怪我をした鳥を拾ったときのことだ。
「どう見ても助からない。」
それが、わたしとcanonの意見だった。
彼が悲しむことを恐れたわたしたちは、その鳥を連れて帰るのに反対した。
5才の彼に死を見せたくないと思ってしまったのだ。
けれど、彼はどうしても譲らなかった。
おとなしい彼しか知らなかったわたしたちは絶対に首を縦に振らない彼にはじめて根負けした。
彼は、鳥と会話しているように見えた。
人間とだけ会話をしないのかもしれない、そう思った。
その朝はいつもと違っていた。
朝の来ない夜はないはずだけれど、どうにもおかしい。
空だけ時間が止まっているように見える。
違和感に空から目が離せなくなった。
空が暴れ、世界が激しくうねりだすイメージが浮かんだ。
時が満ちた。
世界は準備していたのだ。
だから、わたしたちは取り残されていたのだとわかった。
外の世界は新しく生まれていた。
小さな男の子を天の存在が見ているシーンが見えた。
その男の子は、彼だった。
「お前が選んだ道は険しいな。けれど、希望とはそういうものだ。」
そう言って、彼の中に何かを閉じ込めた。
胸が冷たくなった。
彼に閉じ込められたもの、それは災禍だった。
あまりにもあまりではないか。
天の存在がわたしを振り返る。
「ともに生きる運命だ。」
彼のいく先々には災禍がばらまかれる。
わたしの中のアクセスキーは、その土地の扉を開き、彼の中の災禍を導く。
意図せずとも起こり続けるそれに、おそらく人間である彼は傷つき苦しみ、自身を呪う日がくるかもしれない。
そのとき、canonが必要になる。
わたしを支えてくれたときと同じように、彼女はそこにあるに違いない。
その災禍が本当にもたらすものは破壊の後の再生だ。
けれど、普通の人間が短い生でその意味に気づくことはない。
わたしは、彼のそばでその一部始終を認める。
わたしと彼が出会った運命。
災禍だけではなく、わたしと彼の一生がわたしを通して星に刻まれるだろう。
ひとりの人間が背負うには、残酷すぎる運命のように映った。
けれど、わたしたちはもう出会ってしまった。
それから、わたしはいつかのわたしのようにまた喋れなくなった。
喋らないためかもしれなかった。
彼と同じように。
わたしたちは、人間としては抱えられない大きさの秘密を飼っている。
我にかえると、空が動き出していた。
朝ではなく、なぜか夜に戻り星が瞬いている。
” atau ”
それが彼の名前らしい。
ごめんね、ごめんね、ごめんね、atau
誰かが何度も何度も彼の寝顔に謝っている。
それは、あの女神様のように見える。
なぜかそう思った。
まだ夜は長そうだ。
星が瞬き出す。
それは、当たり前のようで当たり前ではなかった。
かつて、星の棺と呼ばれたあの洞窟は、ゆりかごのようにcanonとatauの眠りを抱いている。
わたしたちは、また旅に出るだろう。
そのとき、星々がまたわたしたちの行く道を照らすはずだ。
それが破壊をもたらすとしても。
いつかまたあの村にたどり着けることを信じてわたしは生きる。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?